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第28話 金の部屋

 さて、少し時間を戻しましょうか。


 三日目の昼前のことです。


 あのとき白夜さんたちが東山の南で、盤面だの危険地帯だの言っていた、その少し前。二条城では、別の意味で、ずいぶん静かな破滅が始まっていたんですよ。


 静かな破滅ってのが、一番たちが悪いんです。


 火事みたいに派手なら、誰だって逃げるでしょう。煙が見える。熱い。危ない。わかりやすい。


 でもね、糸は煙を上げない。


 声もなく、気づいたときには喉が切れてる。


 そういう壊れ方をしたんです。あの日の二条城は。


---


 三日目になると、織姫の狩りも変わっていたそうです。


 一日目や二日目みたいに、神器を餌にして野良の参加者を巣にかける。まあ、それも効いたんでしょう。でも日が進めば獲物は減る。減るだけじゃない。残ってる連中は警戒心が強くなる。簡単には罠にかからない。


 織姫は賢い女ですからね。効率が落ちたと見るや、すぐ次を考える。


 野良を待つより、山を食えばいい。


 そういう発想をする女なんですよ、あれは。


 将軍がね、この日も二条城に欠片を集めていたんです。


 これまでと同じように。配下に集めさせて、持ち寄らせて、自分は安全な城の奥で待つ。検知をすれば、二条城のあたりだけ柱が固まって見える。参加者からすれば、宝の山です。


 ただし、宝の山ってのは、見つけた全員が近づけるわけじゃない。


 城には兵がいて、景虎がいて、幕府の手勢がいる。野良の参加者が一人や二人近づいたところで、まず食われるのはそっちです。


 だから誰も、正面からは行かなかった。


 ——織姫を除いては。


---


 二条城は、その日の朝も静かだったそうです。


 空は曇っていた。庭の松も、池の水も、くすんで見える。


 本丸御殿の廊下は磨かれていた。磨きすぎた板ってのは、曇りの日でも薄く光るんですよ。


 ああいう場所ってのはね、足音がよく響くんです。


 草履の音。甲冑の擦れる音。遠くで襖が開く音。人がいるってことが、音でわかる。


 だから静かすぎると、逆に気持ちが悪い。


 でも、そのときの城内はまだ、そこまで静かじゃなかったんです。


 兵が巡回していた。廊下の角に立つ者。庭に目を配る者。奥の座敷と座敷のあいだを行き来する者。


 表向きは平穏です。


 本丸の一室。金箔の襖に囲まれた座敷で、家治公は膳の脇に置かれた欠片を眺めていたそうです。畳の上に布を敷き、その上にいくつも並べてある。形も大きさもばらばらの土器の欠片。脈打つ神の残骸。


 とくん。とくん。


 静かな部屋の中で、それだけが生き物みたいに拍を打っている。


 将軍はそういうものを怖がる質ではなかったんでしょうね。指先で一つをつまみ上げて、光にかざしたりしていたそうですよ。碁石でも弄ぶみたいに。


「本日の集計は」


 と、将軍が言う。


 控えていた田沼が、巻いた紙を広げた。


「昼前の時点で、十二。城内保管が九。各所に分散させている者が三。探索中の者を含めれば、日暮れまでに更に増える見込みです」


「ふむ」


 将軍は鼻を鳴らした。


---


 将軍の座の少し後ろ。柱の陰に近い場所に、時継もいたそうです。


 影武者です。


 縮こまっていたそうですよ。いつものように。顔はよく似ている。似ているが、空気が違う。


 将軍と田沼の会話を、じっと聞いていた。いや、聞かないようにしていたのかもしれませんね。自分が口を挟む場面ではない。目立てば叱られる。そんなふうに生きてきた人間の縮こまり方ってのがあるんです。


 異変に最初に気づいたのは、その時継だったそうです。


 将軍でもない。景虎でもない。兵でもない。


 影武者の男が、一番先に、空気の変化を嗅ぎ取った。


 何かがおかしい。


 風はないのに、障子紙がわずかに鳴った気がした。


 廊下の向こうで、兵の足音が一つ消えた。


 悲鳴はない。


 それなのに、時継の肩がびくりと揺れたそうです。


 理屈じゃなかったんでしょうね。ああいうのは。何か来る。ここにいたら駄目だ。そういう生き物としての勘です。


 時継が、将軍のほうではなく、廊下の角を見た。


 障子に、赤い線が走った。


 すうっと。


 細く、真っ直ぐ。


 そのとき初めて、時継は見たんでしょうね。


 障子の桟に引っかかった、白い糸を。


「……っ」


 声にもならなかったそうです。


 で、逃げた。


 いやもう、見事なくらい早かったそうですよ。将軍の御前だとか、影武者の面子だとか、そういうの全部かなぐり捨てて、畳の上を這うみたいに後ずさって、脇の小部屋へ転がり込んだ。将軍が危なくなったときのための隠し場所だったんでしょうね。押し入れみたいな狭い空間。替えの装束箱と文机のあいだ。そういうところへ、いの一番に。


 情けないでしょう。


 でも、あれは才能なんですよ。


 怖いときに、怖いとわかる。死ぬ場所から、自分の体を即座に引き剥がせる。


 あたしはね、あれも立派な才覚だと思いますよ。


 時継が転がり込んだ、その一拍あとでした。


 さっきまで時継の首があった高さを、糸がすうっと通ったそうです。


 後ろにいた小姓の喉が開いた。


 血が畳に落ちる。


 時継は、小部屋の中で口を押さえたまま、息もできなかったそうです。


---


 次に来た兵が、倒れている仲間を見つけた。


「おい?」


 返事がない。


 近づく。二、三歩。


 その兵は、仲間より先に糸を見たそうです。柱と柱の間。障子と欄間の影。白い光が角度を変えた、その一瞬だけ。


「な——」


 言い終わる前に、糸が締まった。


 足を取られて前に倒れる。別の糸が首を裂く。


 そこでようやく、廊下の先にいた別の兵たちが異変を知ったんでしょう。足音が乱れた。誰かが叫ぶ。「どうした!」


 でももう、その時点で遅かった。


 梁の上に、女がいた。


 赤と黒の着物。長い黒髪。細い指先から何本もの糸が伸びて、廊下じゅうに渡っている。


 片膝を立てて、梁の上に座っていたそうです。まるで自分の座敷みたいに。


「やっと気づいたの?」


 笑っていた、と聞きましたよ。


 兵たちは刀を抜いた。三人、四人。じりじりと距離を取る。でも前にも後ろにも糸がある。踏み込めば切られる。退けば別の糸にかかる。


 織姫は梁の上から見下ろして、退屈そうに首を傾げた。


「つまらないわね。もっと早く気づいてくれたら、もう少し遊べたのに」


 一人の兵が怒鳴って、槍を投げた。


 まっすぐ飛んだ槍は、梁の手前で止まったそうです。


 いや、止まったんじゃない。糸に絡んだ。


 穂先がぐらりと揺れて、そのまま返った。


 次の瞬間、槍は投げた兵自身の胸に刺さっていた。


 兵が目を見開く。


 織姫は笑った。


「あは。今のはちょっと面白かった」


 その声が落ちる頃には、別の糸が兵の膝裏を切っていた。倒れたところへ、首に、腕に、腹に、細い糸が幾重にも巻きついていく。


 悲鳴は、ここでようやくちゃんと上がったそうです。


 でも短かった。


 糸が締まると、人間ってのは長く叫べないんですよ。


---


 その頃になって、ようやく奥にも異変が届いたんでしょう。


 景虎が将軍のいる部屋の前に現れた。刀を抜いたまま。顔色が変わっていたといいます。


「上様。お下がりください」


 将軍は眉をひそめた。


「何事だ」


「敵襲です」


「賊か」


 景虎は一拍置いたそうです。


「織姫です」


 将軍の顔に、ここで初めて不快そうな色が浮かんだ。


「女郎蜘蛛の小娘が、城に入ったと?」


「はい。すでに複数の兵が——」


 言い終わる前に、廊下の向こうで何かが倒れる音がした。どさり。続けて、障子に赤い線が走る。


 将軍が立ち上がる。


 その動きは遅くなかったそうです。腰が抜けたわけでもない。武家の育ちですからね、怖いものを見たときに固まるような育ち方はしていない。


 でも、その時点でもう遅かった。


 障子と障子のあいだ。欄間の細工。柱の影。部屋の中に、すでに糸が入り込んでいた。


 金箔の襖の前に、白い糸が一本、浮かんで見えたそうです。


 将軍がそれを見たかどうか。


 あたしにはわかりません。


 ただ、景虎が踏み出したのと、糸が動いたのは同時だったと聞きました。


 景虎は将軍の前に出ようとした。間に合わないと悟っていたかどうかは知りません。


 糸は速い。


 首か、胴か。そのあたりを一閃したそうです。


 将軍の体が揺れた。


 金箔に、血が飛んだ。


 あれは映えたでしょうね。嫌な意味で。


 金の上に赤。曇り空の白い光。脈打つ欠片。糸の白。


 綺麗だったでしょうよ。地獄みたいに。


 将軍は二歩ほど前へ出て、膝をつき、倒れたそうです。


 言葉はほとんどなかった。


「田沼——」


 そこまでだったとか。


---


 景虎が吼えたそうです。


 それまでの平坦な男の声じゃなかった。獣みたいな声だった、と聞きました。


「上様——!」


 刀を振るう。真正面から。糸を断ち切るつもりで。


 景虎は強い男です。睦月さんたちを見下していたのも、半分は実力に裏打ちされていたんでしょう。


 でも織姫とは相性が悪かった。


 まっすぐ強い奴ほど、あの女の糸には絡め取られやすい。


 景虎の一太刀は、糸を何本か切った。切ったが、そのぶん別の糸が動いた。右から一本。左から二本。足元に三本。


 血が飛ぶ。


 それでも景虎は退かなかったそうです。将軍の前に立ち続けた。


 そこでね、もっと気味の悪いことが起きたんですよ。


 上様のこぼした血が、畳の縁の黒に触れた。


 いや、血が黒くなったんじゃない。


 黒いものが、血に寄ってきたんです。


 畳の合わせ目。襖の影。床の下から滲むみたいに、ぬるりと。


 手でした。


 人の手の形をした影が、何本も何本も、死んだ上様の袖と足首に絡みついた。


 兵の死体には行かない。


 廊下で切れた連中は、そのままそこに転がっている。


 でも上様にだけ、来た。


 その場にいた者は、そこで初めて、思い知らされたんでしょうね。


 ——上様も、この祭りの駒だったんだと。


「触るな!」


 景虎がさらに踏み込む。将軍の肩を掴み、引き戻そうとする。


 でも刀では斬れない。手で払っても、指のあいだを抜ける。冷たいものが腕を撫でていくだけで、形がない。


 影の手は、死んだ上様をずるずると引いたそうです。


 畳の上を。


 血の上を。


 金の部屋のまんなかを。


 景虎は袖を掴んだ。裂けたそうです。錦の布だけが手に残った。


 次の瞬間には、上様の体は、畳の下へ沈むみたいに消えていた。


 いやはや。


 死ぬだけでも十分ひどいのに、死体まで持っていくんですからね。あの祭りは。


 兵は残る。血も残る。切れた腕も、崩れた障子も残る。


 でも、参加者だけが消える。


 理屈はあとからいくらでもつきますが、その場で見たら、ただただ気味が悪いでしょう。


---


 織姫は、将軍そのものにはあまり興味を示さなかったそうです。


 消えた場所を一瞥しただけで、すぐに畳の上の欠片へ目を向けた。


「……ふうん」


 膝をついて、一つ手に取る。


 とくん。とくん。


「いっぱいあるじゃない」


 そこへ、廊下の向こうから重い足音が近づいてきたそうです。


 卯之助です。


 あの男、遅れて来たんでしょうね。門のところで兵をぶち殺しながら入ってきたのかもしれない。


 中を見て、口を歪めた。


「おお。派手にやったなぁ」


「遅いのよ」


 織姫は欠片を懐に入れながら言った。


 卯之助は金箔の部屋の中を見回した。血。兵の死体。切れた障子。糸。畳の上に残る欠片。——そして、将軍がいたはずの空き間。


 それを見て、笑ったそうです。


「将軍様ってのも、大したことねえな」


 織姫は肩をすくめた。


「大したことはあったわよ。だから来たんじゃない」


 その言い方がね、いかにもあの女らしいですよ。


 強いから殺す。持ってるから奪う。


 ただそれだけ。


---


 その後の城内がどうなったか。


 全部はあたしも知りませんよ。知ってたら怖すぎるでしょう。


 ただ、兵はかなり死んだ。景虎は生き残った。田沼も。時継も。将軍だけが落ちた。


 時継がどこで見つかったかというと、小部屋の奥だったそうです。将軍の替えの装束箱の陰に縮こまって、歯の根を鳴らしていたとか。


 みっともないでしょう。


 でも、そのみっともなさが命を拾ったんです。


 織姫が去って、ようやく時継が這い出てきたとき、景虎はその顔を見て、たぶん腹の底から軽蔑したでしょうね。主が斬られたその場で、この男は生きていたんですから。


 山の中で五人が、危険地帯だの何だの言いながら神獣の巣へ向かっていた、その頃。


 二条城では金の部屋に血が飛んで、将軍が死んでいた。


 祭りってのは、広いんですよ。


 一か所で何かが終わってるとき、別の一か所では、まだ何も知らずに走ってる。


 そういうもんです。


 ——で、そのあと何が起きたかって?


 将軍が死んだあと、幕府がどう動いたかの話になります。


 あれはあれで、別の意味で、ずいぶん怖い話なんですよ。

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