第27話 災禍
あたしはね、火事を見たことがあるんですよ。
もう随分前の話です。裏通りの長屋が焼けた夜。あのとき一番怖かったのは、炎じゃなかった。炎の前に来る、空気の変わる瞬間です。風が止まって、虫が消えて、犬が吠えるのをやめて——次の瞬間にはもう、逃げる以外のことが考えられなくなる。
あの山の中で起きたことも、たぶん、同じだったんでしょう。
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百足が動いたのは、雅楽さんの「最悪だね」のすぐ後だったそうです。
動いた、というのも正確じゃないかもしれません。木々の向こうにいた黒い体が、こちらを向いた。それだけ。頭が——頭らしきものが——杉の幹と幹の隙間から、ぬっと覗いた。
あの百足には顔がないんだそうです。人間みたいな目も鼻もない。あるのは口だけ。縦に裂けた、黒い口。その周りに細い触角が何本も生えていて、空気を探っている。
触角が、五人のほうを向いた。
そのとき、音がしたそうです。
かち、かち、かち、と。
口の奥で何か硬いものが噛み合うような、乾いた音。つづいて、節と節が擦れる湿った音。ずるり、と長い体が土の上を引きずられる音。
誰も動かなかった。
息を殺した。足を止めた。木の幹に背をつけた。
百足の触角が、ゆっくりと空気を撫でている。目がないのに、こちらが見えているんでしょうか。見えているというより——匂いか、熱か、脈動か、何かを探っている。
二拍。三拍。
触角が止まった。
「——走れ」
白夜さんの声と、百足が動き出したのが同時だったそうです。
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五人は斜面を横に走った。
百足はまっすぐ来るわけじゃないんです。長い体が山肌に沿って、うねるように動く。木ごと押しのけ、通った跡に溝ができる。地面が抉れて、根が露出して、石が転がる。
獅童さんが走りながら振り返ったそうです。
「おい、あれ——どこまで続いてんだよ」
体が見えない。頭のほうは木々の向こうに消えて、後ろのほうもまだ暗がりの中をうねっている。全長がわからない。十間か。二十間か。もっとか。
「見るな、走れ」
白夜さんの声だった。
斜面を横切る。足元は落ち葉と泥で滑る。木の根に足を取られて、睦月さんが一瞬よろめいた。泉水さんが腕を掴んで引き起こした。
後ろで、また木が折れる音。近い。
雅楽さんが走りながら叫んだそうです。
「右へ下るな! 下りはあいつのほうが速い。横だ、横に走る!」
言い終わる前に、百足の脚が木の上から降ってきました。
脚。
節から生えた、黒い脚。人の腕ほどの太さがある。
獅童さんが二刀を抜いた。右の刀で脚を弾いた。金属を叩いたような音がしたそうです。刃が弾かれて、獅童さんの手が痺れた。
「硬っ……! 何だよこの——」
もう一本の脚が来た。今度は横から。獅童さんが左の刀で受ける。受けた衝撃で体が横に飛んだ。斜面を転がりかけて、木の幹にぶつかって止まった。
白夜さんが獅童さんの襟を掴んで引っ張り起こした。
「斬ろうとするな。斬れる相手じゃねえ」
「じゃあどうすんだよ!」
「逃げるんだよ」
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ここで、逃げるだけでは済まなくなったそうです。
雅楽さんが走りながら、一瞬だけ周囲を見回した。それだけで、あの人は状況を呑み込んだ。
百足がいる位置。石垣の崩れた場所。倒れた杉。抉れた地面。そのあいだに、かすかに脈動を反射する褐色。
「……あった」
息の切れた声だったそうです。
「四つ。右の石垣に二つ。正面の杉の根に一つ。左の窪地に一つ」
欠片です。
百足が暴れたせいで、転がって散っていた。どれも近い。どれも危ない。特に左の窪地がまずい。百足の体がかすめる位置だったそうです。
雅楽さんが白夜さんの横に寄って、息を切らしながら言いました。
「ここで取れないと、今日は足りないよ」
「知ってる」
白夜さんは走りながら、自分の右手を見たそうです。掌にかすかに蒼い火花が散った。小さい。いつもの火勢じゃない。灯って、すぐに細った。
その一瞬を、雅楽さんは見ていたそうです。でも何も言わなかった。
百足の体がまた斜面を横切った。地面が震えた。土の匂いが強くなる。
「……ちっ」
白夜さんが舌打ちしたそうです。
そしてこう言った。
「お前ら、俺の後ろにいろ。一回だけ道作る。その間に拾え」
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白夜さんは百足のほうを向いて、右手を上げた。掌から蒼い火が灯った。
百足の触角がぴくりと動いた。熱か、光か、何かに反応したんでしょう。
白夜さんが一歩、前に出た。
蒼い炎が掌から腕に広がる。肘まで。肩まで。そこから背へ、腰へ、脚へ。じわりとではない。吹き上がるように。
「——よく聞け」
振り返らずに言ったそうです。
「右だ。石垣に二つ。次、正面。最後が左の窪地。取ったら南へ抜けろ。止まるな」
雅楽さんが頷いた。
獅童さんが「おう」と答えた。
泉水さんが「了解です」と短く。
睦月さんは何も言わなかったそうです。ただ、もう腰を落としていた。合図と同時に踏み出せるように。
白夜さんの体から蒼い火が膨れ上がった。
あたしはね、白夜さんの炎は何度も見ましたよ。
でも、あの山の中で白夜さんが出した炎は、そのどれとも違ったそうです。
蒼いというより、白に近かったと。
白夜さんの全身から、光が噴いた。
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炎が地面を走った。
白夜さんが掌を前に突き出すと、蒼白い火が扇のように広がって、百足の体に叩きつけられた。
殻が焼ける音。
じゅう、ではなかったそうです。びしり、と裂けるような音。百足の黒い殻に白い亀裂が走る。
百足が身を捩った。長い体が横に振れて、杉が二本まとめて薙ぎ倒された。
白夜さんは追い打ちをかけなかった。
追い打ちをかける余裕がなかった、というのが正しいかもしれません。
両腕を広げる。左右の掌から蒼い火が噴き出して、百足の体の左右に火の壁を作った。壁といっても、人の背丈ほど。百足を止めるには足りない。けれど、嫌がったそうです。焼ける感覚が不快だったんでしょう。長い体がわずかに逸れた。
火の壁の間に、道ができた。
百足の体と体の隙間。石垣へ、杉の根元へ、駆け抜けられるだけの狭い道。
「今だ——走れ!」
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睦月さんが先に飛び出したそうです。
右の石垣へ。膝をつく。土に半分埋もれた欠片に指が触れる。とくん。握る。懐へ。
もう一つ。石垣の割れ目の奥。手を突っ込む。脈動。引き抜く。二つ。
顔を上げる。正面の杉の根元。
走る。火の壁の向こうで百足の体がうねっている。杉の根の窪みに転がっている欠片。拾い上げる。三つ。
その横を、獅童さんが駆け抜けた。二刀を構えたまま、睦月さんの背後に回る。降ってきた百足の脚を一本、右の刀で受け流した。刀身が火花を散らした。
「早くしろ!」
左の窪地。
最後の一つ。
泉水さんが走った。窪地は百足の体に近すぎた。火の壁の端。殻のきしむ音が、すぐ横から聞こえる。
泉水さんが窪地の縁で膝をつく。欠片に手を伸ばす。指先が触れた。
百足の脚が、すぐ横の地面を抉った。
土が跳ねた。石が弾けた。泉水さんの体が横に跳ねる。
「泉水さん!」
睦月さんの声。
泉水さんは——立ち上がった。着物の裾が裂けて、脇腹に浅い擦り傷。でも、手の中には欠片があった。
「四つ、あります!」
「走れ!」
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五人が南の斜面を駆け下りた。
後ろで百足が体を起こす音がした。火の壁が消えかけている。蒼い炎がちらちらと弱まって、やがて——消えた。
追ってくる。
地面が震えた。木が折れる音。近い。
「まだ来てる!」
獅童さんが叫んだ。
白夜さんが右手を上げた。
指先から炎が噴こうとして——散った。
火花が指先でぱちぱちと弾けて、そのまま消えた。
「——くそ」
白夜さんが呟いた。もう一度手を上げた。掌に蒼い光が灯りかけて——灯りかけたところで、蝋燭が風に消えるみたいに、すうっと失せた。
「くそ、くそ——」
三度目。今度は火花すら出なかった。
その瞬間、白夜さんの肩がわずかに落ちたそうです。
ほんの一瞬。見ていなければわからないくらい。でも確かに、あの人の体から力が抜けた。
百足がさらに近づく。木々の間を黒い体が滑っている。節ごとに生えた脚が斜面を掻き、湿った土を撒き上げる。下りのほうが速い。
雅楽さんが走りながら叫んだ。
「白夜さん、火は——」
「出ねえ」
短い返事だったそうです。
「枯れた。今は出ねえ」
後ろで木が裂ける音。もう三間もない。
獅童さんが二刀を抜いて振り返ろうとした。
「俺が——」
「駄目だ、走れ! 斬ったって止まらねえ!」
白夜さんが獅童さんの襟首を掴んで引っ張った。
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杉林を抜けたのは、百足が諦めたからでした。
正確には、杉林の端——町に近い、木がまばらになる辺りまで来たところで、百足の動きが鈍くなった。長い体が一度うねって、それから止まった。触角が空気を探って、ゆっくりと元来たほうへ向き直る。
町が近い。人の気配が濃い。非参加者の生活圏。
百足はそこには出てこなかったそうです。
縄張りがあるのか、別の理由があるのか。白夜さんにもわからない。ただ、追ってこなくなった。
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杉林の端で、五人はようやく止まった。
膝に手をついて息を吐く。獅童さんはぜえぜえ言いながら、肩で空気を吸っている。雅楽さんは石に腰を下ろして、自分を扇いでいた。手が震えていたそうですが、たぶん本人は気づいてない。
泉水さんが脇腹の傷を見た。浅い。薬草を使うほどでもない。
睦月さんは立ったまま、後ろの杉林を見ていた。百足の姿はもう見えない。ただ、奥のほうで時おり木の軋む音がする。まだいる。
獅童さんが口を開いた。
「……追ってこねえのか」
「みたいだな」
白夜さんが杉の幹にもたれた。
獅童さんが白夜さんを見た。
「おい……大丈夫かよ。火——」
「大丈夫じゃねえよ」
白夜さんは右手を上げた。掌を上に向けて。
何も起きなかった。
火花も、光も、熱も。ただの手のひらが、曇り空の下で白く見えているだけ。
白夜さんは手を下ろした。
「枯れた」
それだけだった。
「……いつ戻るんですか」
泉水さんが聞いた。
「知らね。一日か、もっとか」
獅童さんが何か言いかけて、やめた。
雅楽さんが扇子を閉じた。ぱちり。
「とりあえず」
声はいつもの軽さに戻りかけていた。戻りかけているだけで、底にまだ震えが残っていたそうです。
「確認しよう」
欠片を出した。睦月さんが三つ。泉水さんが一つ。朝から持っていた最初の一つは、雅楽さんから白夜さんに預けてあった。
合わせて五つ。
「——五つ。全員分だ」
雅楽さんが数え終えて、扇子をぱちんと閉じた。
誰も喜ばなかったそうです。
五つ揃った。今日は全員生き残れる。なのに、空気は冷えていた。
白夜さんの火が消えた。
不死はもうない。炎も今、ない。
残っているのは、拳と足と、百五十年分のしぶとさだけ。
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山を下りて、町に出る手前のことです。
白夜さんが足を止めた。
杉林の端、木がまばらになった辺り。道の脇に、黒い塊が横たわっていた。
最初は倒れた木か、大きな岩だと思ったそうです。曇り空の下で、輪郭がよく見えなかった。
近づいてみると、それは獣でした。
初日の夜に見た、あの虎に似た神獣。黒い体。肩の高さが人の背丈ほどもある巨躯。影でできたみたいな体表。
動かない。
胴が、裂けていた。
肩から腹にかけて、深い斬痕が一本。まっすぐ、断ち割るように。
黒い体液が地面に染みて、まだ乾いていない。
五人が立ち尽くしていたそうです。
百足から逃げるので精一杯だった。五人がかりで。白夜さんが炎を枯らすほどの無茶をして、それでも通り抜けるのがやっとだった。
その神獣を——これは、一太刀だった。
白夜さんが斬痕を見つめていた。目が細くなっていた。
「……こんなことできるやつがいるのか」
声がいつもと違ったそうです。面倒くせえでも、知らねでもない。もっと乾いた、もっと低い声。
雅楽さんが扇子を開いた。口元を隠す。
「……遭遇しないことを祈るしかないね」
風が吹いた。杉の枝が揺れて、落ち葉がひらひらと虎の死体の上に降った。
次のお話をしましょうか。




