第26話 斬れない刃
五人が山道を登っていく。
誰も喋らなかったそうです。
朝の路地裏で雅楽さんが描いた図。湿った土の上の点と線。四つの欠片が固まっている場所。織姫の罠かもしれない。幕府の待ち伏せかもしれない。もっと別の何かかもしれない。
でも、行くしかない。
行かなきゃ足りない。
曇り空でした。空が低い。杉の林に入ると、昼だというのに薄暗い。針葉が空を覆って、地面には日が届かない。落ち葉が足音を吸う。湿った土の匂い。苔の匂い。木の根が這い出していて、油断すると足を取られる。
獅童さんが先頭。いつもは声の大きい人ですが、黙っていました。背中の二刀が、雲越しのわずかな光を鈍く弾いている。
その後ろに睦月さん。短刀を帯に差し、周囲を見ている。目だけが動いている。
泉水さん。雅楽さん。白夜さんが最後尾。白夜さんは相変わらずふらふらした足取りですが、耳だけがぴくぴく動いていたそうです。
白夜さんが低い声で言いました。
「四つ拾って、さっさと離れる。それだけだ」
雅楽さんが扇子を開きも閉じもせず、手に持ったまま歩いている。
「長居はしない。拾えたら勝ち、揉めたら負けだよ」
それだけでした。
それ以上の会話はなかったそうです。
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杉林が深くなっていきました。
東山の南寄り。町から離れて、参道もない獣道を進んでいる。木の密度が上がって、幹と幹の間が狭い。視界が短い。十歩先がもう暗い。
匂いが変わった、と白夜さんがあとで言ってました。狐の鼻は利くんですよ。
土の匂いの中に、別のものが混じった。鉄の匂い。甘くて嫌な匂い。
血です。
獅童さんが足を止めた。
道の脇。下草が踏み荒らされている。笹が折れて、地面に押しつけられている。何かが暴れた跡。その先、石の上に赤黒い染みが残っていたそうです。
睦月さんが膝を落とした。石の染みに指を伸ばして、触れかけて、やめた。まだ乾いていない。
「……新しいですね」
「ああ」
白夜さんが周囲を見回した。染みはそこにあるのに、死体はない。影に引きずり込まれたのか、まだ生きて逃げたのか。
雅楽さんが小枝で下草を掻き分けた。
「争った跡がこっちから、あっちへ。——足跡は二人分かな。一人は途中から引きずってる」
「生きてんのか」
「少なくとも、ここで何かあった。それもそう前じゃない」
五人とも、それ以上は何も言わなかったそうです。
言う必要がなかったんでしょうね。
ここから先はもう、何が出てきてもおかしくない場所だと、全員わかっていた。
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最初に気づいたのは獅童さんでした。
林の中の、少し開けた場所。木の根が露出した斜面の下に、崩れかけた石垣がある。そのあたりの空気が揺れた。
揺れた、というのはあたしの言い方ですが。獅童さんに言わせると、「なんかいる。息が聞こえる」だったそうです。河童は耳も利くんですよ。水音を拾うのが得意なぶん、呼吸みたいな微かな音も拾える。
石垣の影に、二人いました。
男が二人。参加者です。刻印がある。
一人は年嵩の男。四十手前くらい。商人の着物ですが、帯に脇差を差している。顔が強張っている。目が血走っていて、頬にかすり傷。息が荒い。
もう一人は若い男。二十歳そこそこ。棍棒を握っているが、その握り方が素人でした。顔色が土みたいに悪い。唇が白い。
二人とも、すでに追い詰められた顔をしていたそうです。
あとで睦月さんに聞いた話をつなぎ合わせると、目がね、獣に似ていたそうですよ。
追い詰められた獣。噛みつくか、逃げるか。その寸前の目。
年嵩の男が先に動きました。
脇差を抜いて、斬りかかってくる。
「死にたくねえんだよ!」
声が裏返っていたそうです。斬りかかるというより、叫びながら突っ込んできた。形も何もない。ただ振り回しているだけ。
若いほうも続いた。棍棒を振り上げて横から来る。連携じゃありません。ただつられて動いただけ。でも、当たれば人は死ぬ。
獅童さんが前に出ようとした。
「睦月——」
「私が」
睦月さんが一歩、前に出ました。
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鴉衆の剣は、暗殺の剣です。
大振りはしない。最小の動きで急所を突く。間合いの外から一息に詰めて、一撃で仕留める。それが鴉の剣。
年嵩の男の脇差が振り下ろされる。睦月さんは半歩横にずれて、刃の軌道から体を外した。すれ違いざまに短刀の峰で男の手首を打つ。脇差が男の手から飛んだ。
若いほうの棍棒が横から来る。睦月さんは身を低くして、その下を抜けた。くぐりざまに相手の膝の裏を払う。若い男がよろめいて、石垣に肩からぶつかった。
三合。
数えるほどもなかったそうです。
年嵩の男が尻餅をついた。手首を押さえている。脇差は二間ほど先に転がっている。
若いほうは石垣にもたれたまま、棍棒を握ってはいるが立ち上がれない。膝が笑っている。
力量差は一目でわかったそうです。
睦月さんがその気なら、最初の一合で終わっていた。
睦月さんは二人の前に立っていました。短刀の切っ先が、年嵩の男の喉に届く距離にある。
一寸踏み込めば届く。
年嵩の男の懐から、欠片が少し見えていた。布の端から、土器の褐色。とくん、とくん、と脈打っている。
朝、決めた線引き。
向こうから狩りに来た相手なら、ためらわない。
この二人は、その中にいる。
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後ろから泉水さんの声がしました。
「時間がありません」
穏やかな声です。いつも通りの。
「睦月さん。僕がやりましょうか」
露骨な言い方じゃなかったそうです。
脅すでもない。煽るでもない。ただ、合理的なことを口にしただけ。あの場にいる全員が頭では考えていたことを、代わりに言葉にしただけの声。
睦月さんは振り返らなかった。
「……いえ。私が」
短刀を握り直した。柄を握る指先が白くなっていたそうです。
一歩、前に出る。
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年嵩の男が顔を上げた。
さっきまで獣のようだった目が、変わっていたそうです。
もっと単純な、もっと古い感情。剥き出しの恐怖です。
「待ってくれ」
声が震えていた。
「頼む。殺すな」
睦月さんの切っ先は、男の喉から逸れていない。逸れていないのに、踏み込みが来ない。
「まだ……死ねねえんだ」
男が息を呑んだ。唇が震えている。目を見開いたまま、睦月さんを見上げていた。
「帰らなきゃならねえ」
少し間があったそうです。
「うちのが……もうすぐで」
喉が鳴った。次の言葉がうまく出ない。
「子が——生まれるんだ」
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睦月さんの足が、そこで止まりました。
短刀を握っている。喉元に届く間合いにいる。一寸踏み込めば終わる。
届くはずの足が、土を噛んだまま離れなかった。
鴉衆は感情を殺すように育てられます。
任務に徹しろ。対象を見るな。見れば迷う。迷えば死ぬ。
見ている。見えている。
男の顔が見えていた。頬のかすり傷。血走った目。恐怖で引きつった口元。
その向こうに、見たこともない家族の姿まで、見えてしまうような気がしたんでしょうね。
睦月さんは柄を強く握っていた。手には力が入っている。足も動く。息もできる。
それでも、前に出ない。
獅童さんが低く言ったそうです。
「……おい、大丈夫か」
小さな声でした。
相手に聞かせるためじゃない。止まった睦月さんにだけ届けばいい、そんな声だったそうです。
雅楽さんは何も言わなかった。白夜さんも。
泉水さんだけが、半歩前に出かけて、止まった。
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地面が揺れました。
ほんのわずか。足の裏から膝へ抜けるくらいの震え。
鳥が飛んだ。杉の枝から一斉に。五羽、六羽。ばさばさと慌てた羽音が林の中に散っていく。
遠くで木が折れる音がした。太い木が根元からへし折られるような、鈍く重い音。
もう一度、地面が震えた。
今度はさっきより強い。
山の下のほう——東の斜面から、爆ぜるような音が響いた。続けて悲鳴。男の声。複数。短く上がって、途中でぶつりと切れた。
空気が変わった。
気温が下がったわけじゃない。風が吹いたわけでもない。
それでも、肌がざわついたそうです。
虫の声が消えた。
年嵩の男が顔色を変えた。睦月さんの切っ先のことなど忘れたように、音のほうを見た。
若いほうが先に走り出した。棍棒を持ったまま、転ぶように。
年嵩の男も立ち上がる。膝が震えていた。睦月さんの前を横切って、若いほうの後を追った。
欠片を握りしめたまま。
睦月さんは追わなかった。
——追えなかった、というべきかもしれません。
足は動いた。けれどその足は、二人の背中を追うほうへは出なかった。
二人の姿が杉林の暗がりに消えていく。枝を掻き分ける音がして、すぐに聞こえなくなった。
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その直後でした。
山の下から、また音がした。
さっきの爆音とは違う。もっと湿っていて、もっと嫌な音。
ずるり。
ずる、ずる、と。
重いものが地面を這う音。湿った土の上を、長い体が引きずられていくような音。
木の間に、何かが見えた。
杉の幹と幹の隙間。暗い斜面のさらに奥。黒いものが動いている。でかい。地面に沿って、うねるように。
太い木が一本、根元から折れた。乾いた音が林に反響した。
全貌は見えなかったそうです。
見えなくてよかった、と獅童さんはあとで言ってました。
ただ、木々の隙間をすべる体表の一部だけが見えた。光沢のある黒い殻。節がある。脚がある。何本も、何十本も。地面を掻くように蠢いている。
白夜さんの耳が伏せた。
「——神獣だ」
声が低かったそうです。
前の夜、東山で虎の影を見たときと同じ声。
「前の虎とは違う。こいつは——蟲だ」
雅楽さんの顔から、いつもの軽さが消えていました。扇子を握ったまま、木々の向こうの黒を見ている。
誰も動かなかった。
あの四つの欠片がある場所。その正体が、いま、目の前にある。
雅楽さんが小さく息を吐いた。
それから、いつもの調子に少しだけ似せた声で言ったそうです。
「……整理しよう」
一拍。
扇子を、ぱちりと閉じる。
「うん。最悪だね」
次のお話をしましょうか。




