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第23話 墓

 夜が更けていきました。


 泉水さんは座敷の隅で薬草の整理をしていた。白夜さんの包帯を替えて、新しい薬を当てて。


 雅楽さんは柱にもたれて何か考えている。扇子を開いたり閉じたりしている。


 獅童さんはもう寝ている。大の字で。鼾がでかい。天下一の鼾ですよ。


 白夜さんは——座敷の隅で、酒を飲んでいた。


 あたしが出した酒です。古い壺に入れてある、安い濁酒。寒い夜にはちょうどいい。白夜さんが酒を飲むこと自体は珍しくない。でも黙って飲んでるときは、放っておいたほうがいい。いつもはそうしてます。


 睦月さんは、しばらく窓の外を見ていたそうです。赤い月が四つ。行灯の灯が畳に揺れている。


 それから、音を立てないように立ち上がった。


 あたしは台所にいましたからね、足音までは聞こえませんでしたが、戸の開く気配はわかるんですよ。猫ですから。


 睦月さんは外へ出た。裏庭の、井戸の脇の、物干し竿も何もない狭い土間。月明かりは薄くて、曇りがちな夜の光が庭石をぼんやり濡らしていたそうです。


 そして、ほんの一瞬だけ。蛍より少し明るいくらいの、頼りない灯。すぐに消えた。


 短刀を抜く。


 構える。


 静かに踏み込む。


 睦月さんの手が少しだけ震えた。


 左の指先が赤くなっていたそうです。軽いやけどですね。皮が薄く焼けていた。


 もう一度。


 短刀を返して、息を整えて、踏み込む。


「……何やってんだ、お前」


 声は背後からでした。


 睦月さんが振り向くと、白夜さんが縁側に立っていたそうです。片手に杯。もう片方の手は袖の中。いつもの気だるい顔。でも、酒が入ってるときの目ってのは、少しだけ違うんですよ。


「訓練です」


「夜中に?」


「眠れませんので」


「そうかよ」


 白夜さんは縁側から降りてきた。睦月さんの手元を一度だけ見た。赤くなった指先。抜き身の短刀。


「やめとけ。今やることじゃねえだろ」


「……少しでも、できることを増やしたいんです」


「できること増やして、その前に手ぇ潰したら意味ねえよ」


 白夜さんはそう言って、睦月さんの横を通り過ぎた。庭の奥へ、すたすた歩いていく。


 睦月さんが短刀を納めた。


「白夜さんこそ、何を」


 白夜さんは答えなかったそうです。


 庭の奥。塀ぎわ。あたしでも普段はあまり近づかない、草の生えた隅に、小さな石が積んであるんですよ。墓というにはあまりに簡素な、名もない塚みたいなものです。


 白夜さんはそこにしゃがんで、懐から何かを出した。


 白い花でした。山に咲く、名もない花。派手じゃない。香りも薄い。でも毎回、同じ花なんです。


 それを石の前に置いた。


 睦月さんは少し離れたところで立っていたそうです。近づきすぎもせず、離れすぎもせず。あの人はそういう間合いを取りますね。


「……墓、ですか」


 白夜さんはしばらく答えなかった。


 花の位置を指で少し直して、それからようやく、


「まあな」


 とだけ言ったそうです。


 睦月さんも、それ以上は聞かなかった。


 聞かなかったんですがね。白夜さんのほうが、ぽつりと漏らしたそうです。あの人、たまにそういうことがあるんですよ。こっちが聞いてないときに限って。


「さっきの獣」


 白夜さんは石を見たままでした。


「——あれに似たやつに、やられたんだ。こいつは」


 睦月さんは黙っていた。


 白夜さんがこういうとき、合いの手なんか入れたら二度と喋らなくなるのを、なんとなくわかってたんでしょうね。


「昔の話だ。前の儀のとき」


 夜風が吹いた。庭の草が揺れた。どこかで虫が一声だけ鳴いて、すぐにやんだ。


「馬鹿な女がいてな」


 白夜さんの声は、いつもの怠そうな調子でした。でもね、酒が入ると、ほんの少しだけ声の底が変わるんですよ。百年も付き合ってりゃわかります。


「馬鹿で、弱くて、目も見えなくて」


 一拍。


「盲だった。杖ついて歩いてた」


 白夜さんは石の前にしゃがんだまま、空を見たそうです。曇った夜空。赤い月が四つ。


「——なのに俺なんかを守ろうとしやがった。目が見えねえのに、いつも俺の前に立とうとした」


 睦月さんは、やっぱり何も言わなかった。踏み込まない。聞かない。あの人もまあ、不器用ですからね。


 その沈黙がよかったのかもしれませんね。あの人は余計な慰めなんか嫌うでしょうから。


 しばらくして、白夜さんが立ち上がった。


「……戻るぞ。冷える」


「はい」


 二人はそれだけ言って、座敷へ戻っていったそうです。


 睦月さんの指先のやけどに、白夜さんは最後まで触れませんでした。薬を塗れとも、もうやるなとも、改めては言わなかった。


 でもね、部屋に戻る前に一度だけ、ちらっと睦月さんの手元を見たそうですよ。


 ああいうのが、あの人なりなんでしょうね。


---


 さて。


 あたしは帳場を閉めて、算盤を片づけました。


 五人分の夕飯。五人分の宿泊費。五人分の茶。それと酒一壺。帳簿に書き込んで、算盤を弾いて、蝋燭を消す。


 台所で膳を洗いながら、ちょっとだけ思ったんです。


 五つ。いい数です。四つより多い。三つよりもっと多い。


 増えたのは二つ。でも、それは清十郎さんの分が消えて、雅楽さんと獅童さんの分が加わった、差し引きの結果です。帳簿と同じ。入りと出がある。数字は合ってる。


 でもね、数字が合ってることと、勘定が合うことは違うんですよ。


 清十郎さんの分の膳は、もう誰にも出せない。あの膳は帳簿の上では消えたけど、あたしの棚の中にはまだあるんです。ちゃんと洗って、拭いて、しまってある。いつでも出せるようにね。


 出す日は来ないんですけど。


 ……まあ、そういうことは言いませんよ。商人ですからね。数字を合わせて、帳簿を閉じる。それだけです。


 ——さて、二日目が終わりました。


 長い一日でした。雅楽さんが来て、獅童さんが来て、五人になった。欠片も五つ揃えた。贄の刻も乗り越えた。


 でもね、あの獣を見たでしょう。あれがいる。明日も、明後日も。しかも増えるかもしれない。


 赤い月が、あと四つ。


 お茶、冷めてませんか?

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