第20話 囮
織姫は鳥居の上に腰かけ、片膝を立ててこちらを見下ろしていた。ぶらぶら揺れる足先とは裏腹に、目だけがぎらついている。
「せっかく来てくれたのに、入り口で気づいちゃうなんて。——もう少し奥まで入ってきてくれたら、もっと楽しかったのに」
退屈そうに笑って、織姫は鳥居の柱を軽く叩いた。
「この参道、昨夜のうちに糸を張っておいたの。鳥居って便利よね。柱が多いから、巣が作りやすいもの」
睦月さんが短刀を抜く。隣で泉水さんが地面に手を伸ばしかけた、そのとき。
「ああ、薬草の坊やは動かないほうがいいわよ。ほら、足元」
言われて目を落とすと、泉水さんの立つ石段の周りを、見えない糸が幾重にも囲っていた。踏み出せば足首から持っていかれる配置だ。
「私の糸は、張ってるだけなら見えないの。でも、触れたら鳴る。鳴った場所は、すぐわかる。あとは巣が勝手に締まってくれるわ」
織姫の指先がひらりと動いた。
参道の奥から、何かが石段を擦る音がする。次の瞬間、糸に引かれた人影がずるりと現れた。
男だった。刻印持ちの参加者。喉元に糸が食い込み、白目を剥きかけている。死んではいない。ただ、もう自分では動けない。
「今朝の一番乗り。柱が見えて、慌てて飛び込んできたのね」
男の身体がふわりと浮き、鳥居の梁へ吊り上げられる。手足がだらりと垂れた姿は、蝶の標本みたいだった。
「欠片は餌。柱を立てておけば参加者が来る。参加者が来れば、その子の欠片ももらえる。——一石二鳥でしょう?」
にこり、と織姫は笑った。
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正面は巣だ。
参道は使えない。後ろへ引いても安全とは限らない。泉水さんの足元も切られている。奥には欠片がある。だが、織姫がいる限り、まっすぐ取りに行くのは自殺だった。
そのとき、背後で風が裂けた。
「おおっ! やっぱりここにいやがったな! さっきの借りを——」
石段の下から、灰色の影が駆け上がってくる。さっき逃げた鎌鼬だ。勢いのまま鳥居のトンネルへ飛び込み——
ぴん。
細い弦を弾くような音が鳴った。
続けざまに、ぴん、ぴん、ぴん、と。
鎌鼬の体に赤い線が走る。腕、脚、胴。見えなかった糸が一斉に食い込み、そのまま宙へ吊り上げた。
「ぎゃっ——!?」
暴れるたび、別の糸が締まる。脚の鎌で切れば、今度は横から。横を切れば、今度は上から。巣全体が生き物みたいに反応して、鎌鼬を絡め取っていく。
「あはは。もう一匹」
織姫が楽しそうに笑った。
「——今です。睦月さん、走って」
泉水さんの声だった。
振り向くと、石段に細い蔦が這っている。いつの間にか地面から伸びたそれが、泉水さんの足元を囲む糸を押さえ込み、かろうじて身動きできる隙間を作っていた。
「意識があちらに向いてます。今なら抜けられます」
睦月さんはうなずき、参道ではなく脇の斜面へ飛び出した。鳥居の列を外れ、苔むした山肌を回り込む。
織姫の目が、すっと細くなる。
「あら。賢いわね。巣の外を回るの?」
指が動く。
糸が一直線に飛び、睦月さんの肩を狙った。寸前で木の幹に身を滑り込ませる。糸は樹皮を深く裂き、ばり、と嫌な音を立てた。
「でもね——巣の外に出たからって、逃げ切れるとは限らないのよ」
糸が枝から枝へ、岩から木へと渡されていく。織姫は鳥居の上から動いていないのに、巣だけがじわじわと山肌を這ってくる。
足場は悪い。苔と落ち葉で滑る。根が張り出し、杉が空を覆って、朝の光はまだらにしか落ちてこない。
背後では鎌鼬の悲鳴が続いていた。
そのたびに、別の場所で糸の鳴る音がする。織姫の意識が完全にはこちらへ向いていないのがわかった。
今だけだ。
鎌鼬が暴れているあいだだけ、糸の手数が減る。あれが止まれば、全部こちらに来る。
——囮だ。
織姫にとって、鎌鼬は餌だ。欠片に釣られて飛び込んだ参加者と同じ。
だが今この瞬間、睦月さんにとってもそうだった。
あれが暴れてくれているあいだに迂回し、欠片を奪う。鎌鼬がどうなろうと、振り返らない。
胸の奥が、かすかに軋んだ。
清十郎さんの最後の顔がよぎる。影に沈んでいく目。その記憶を噛み潰すように、睦月さんは前を向いた。
ここで足を止めれば、自分も泉水さんも死ぬ。
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山肌を回り込んだ先に、古い石の祠があった。
苔むした小さな社。両脇には狐の石像。落ち葉の下で、かすかな脈動が打っている。
欠片だ。
睦月さんはしゃがみ込み、落ち葉をかき分けた。土器の破片がひとつ、手のひらに収まるほどの大きさで埋まっている。拾い上げると、鼓動が指先に伝わった。
とくん。
次の瞬間、背後で空気が裂けた。
咄嗟に祠の裏へ身を転がす。追ってきた糸が狐の石像に食い込み、首を斬り落とした。重い音を立てて石の頭が転がる。
「見つけちゃったのね。——でも、それを持って帰れるかしら」
織姫の声が近い。
参道から動いてきたのだ。木々のあいだから、糸だけが四方へ伸びる。上から、左右から、地面すれすれからも。
退路が消える。
そのとき、下のほうから声がした。
「はなせっ……てめえ……はなしやがれ……!」
鎌鼬だ。さっきよりもずっと弱い。喉を潰されたみたいな声だった。
睦月さんは欠片を握りしめる。
助けに戻る——それは選択肢にならない。
戻れば、織姫の巣のど真ん中へ飛び込むことになる。自分が死ぬ。泉水さんも死ぬ。欠片も失う。
ここで取るべき手は一つしかない。
睦月さんは祠の影から飛び出した。
斜面を一気に下る。木のあいだを縫い、岩を飛び越える。糸が追う。幹に巻きつき、枝を断ち、一本が頬を浅く裂いた。熱い線が走る。血が出る。
それでも止まらない。
背後で、もう一度だけ鎌鼬の声がした。
「おい……鴉……! 助けて——」
足が、ほんの一瞬だけ鈍った。
けれど、止まらなかった。
睦月さんは前だけを見て走った。
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参道の入り口には泉水さんがいた。蔦で糸を押さえたまま、こちらへ手を伸ばす。
「睦月さん! こっちです!」
二人は鳥居の列を大きく迂回し、そのまま表の道へ飛び出した。伏見の町屋の屋根が見えるまで、振り返らずに走る。
追ってはこない。
織姫は巣を離れてまで獲物を追う気はないらしかった。
人通りのある辻まで来て、ようやく二人は足を止めた。
睦月さんは荒い息のまま、手のひらを開く。欠片はまだ脈打っていた。
「……一つ、確保しました」
「はい」
泉水さんが頷く。それから睦月さんの頬の傷に気づき、地蔵の脇へ促した。
「座ってください。すぐ済みます」
泉水さんが地面に触れると、薬草が芽吹いた。葉を摘み、指先ですり潰して傷口に当てる。ひやりとした感触が熱を奪っていった。
「痛みますか」
「……いえ」
遠くで、鴉が鳴いた。本物の鴉だ。伏見稲荷の方角から、乾いた声がひとつ。
鎌鼬がどうなったのか、睦月さんは見ていない。最後に聞こえたのは、名前も知らない妖怪が、自分に助けを求める声だった。
「……睦月さん」
「はい」
「冷静な判断でした」
泉水さんの声はいつもどおり穏やかだった。傷に薬を塗る手つきも、やさしい。
「あの場で助けに戻っていたら、二人とも巻き込まれていました。欠片も失っていたでしょう。あなたが退いたから、こうして持ち帰れたんです」
睦月さんは答えなかった。
欠片を見つめたまま、ただ指先に力を込める。とくん、とくん、と鼓動が返ってくる。自分の脈より、少し遅い。
「……そうでしょうか」
落ちた声だった。
泉水さんは小さく目を細め、布で血を拭った。
「そうですよ」
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——あの鎌鼬がどうなったか、あたしは知りません。
名前も聞いてませんしね。名前のない奴の話は、どうにも語りづらい。
ただ、あとで睦月さんに「今日は大変だったでしょう」と聞いたことはあります。
少し間を置いて、睦月さんは言いました。
「任務ですから」
いつもの文句です。けれど、あの日ばかりは、同じ言葉に聞こえませんでした。
まあ、あたしの気のせいかもしれませんけどね。
さて、次のお話をしましょうか。




