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第19話 千本鳥居

 さて、白夜さんと雅楽さんが西で欠片を探していた頃——睦月さんと泉水さんは南に向かっていたそうです。


 伏見のほうですね。東山から南に下ると、町並みが少し変わる。田畑が増えて、道が広くなる。枯れ穂の匂い。


 泉水さんが検知を使ったのは、辻を二つ過ぎたあたりだったそうです。左手の甲の刻印に血をつけて、目が赤みを帯びる。


「……南に二本。一本は稲荷の近く。もう一本はそこから東、山の裾のほう」


「近いのは」


「稲荷です。走れば四半刻くらい」


 睦月さんは頷いた。「行きましょう」と短く。


 二人は走り出した。


---


 走りながら、泉水さんが口を開いたそうです。


「睦月さん。一つ、気になっていたことがあるんですが」


「何ですか」


「検知のこと。血をつけても反応しなかったでしょう」


「……はい」


「あれ、僕なりに考えてみたんです」


 泉水さんは走りながらも、声が乱れなかったそうですよ。息が整っている。鴉衆の訓練を受けたにしては体の使い方が柔らかすぎる、と睦月さんはあとで言ってました。


「蘭方の本に書いてあったんですが——人の血にはそれぞれ性質があるそうです。同じ赤い血でも、合う合わないがある。ある人の血を別の人に入れると、体が拒むことがある」


「……拒む」


 一拍置いてから、泉水さんが続けたそうです。


「体が、自分のものじゃない血を弾くんです」


「刻印の側が睦月さんの血を弾いているのか、睦月さんの血が刻印を弾いているのか——そこまではまだわかりません」


「…………」


 睦月さんは黙って走っていた。


「検知が使えなくても大丈夫ですよ。僕がいますから。二人で補い合えばいい」


 泉水さんはそう言って、前を向いた。走る速度は変わらない。


---


 伏見稲荷に向かう途中のことです。


 背後から風が鳴った。


 風じゃない。何かが空を裂いて飛んできた。睦月さんは首を傾けて避けた。鴉衆の反射です。


 道の脇の杭に、鎌のような刃が突き刺さっていた。三日月形の薄い刃。まだ震えている。


「おおっと、避けるかい! なかなかやるじゃねえか!」


 声は上からでした。道沿いの屋根の上に、妖怪が立っている。


 鎌鼬です。


 細身。毛並みは灰色で、風になびいている。二足で立っていて、両腕の先が鎌になっている。目がぎらぎら光っていて、口元が裂けたように笑っている。


「こいつはいい朝だ! 刻印持ちが二人も歩いてるじゃねえか! 欠片もってんだろ? 置いてきな!」


 泉水さんが一歩引いた。「睦月さん——」


「俺の速さについてこれるかな? ついてこれめぇ!」


 鎌鼬が屋根から飛んだ。速い。風を纏って、斜めに突っ込んでくる。鎌が朝日を弾く。


 睦月さんは半歩横にずれた。


 鎌鼬の軌道を読んで、半歩。それだけ。


 鎌が空を切った。睦月さんの髪が数本、風に散った。


 すれ違いざまに短刀が閃いた。


 一閃。


 鎌鼬の脇腹に赤い線が走った。浅い。でも速い。着地した鎌鼬が自分の脇を見て——目を丸くした。


「いってぇ! いつ斬った!? 見えなかったぞ!」


「次は避けてください。深く入ります」


 声は静かだった。切れ長の目が、鎌鼬をまっすぐ見ている。


 鎌鼬は傷口を押さえて舌打ちした。歯を剥いて、もう一度飛びかかろうとして——睦月さんの構えを見て、止まった。


 半歩も引いていない。短刀の切っ先が、朝の光の中で微かに揺れているだけ。


「……ちっ。おぼえてろよ」


 鎌鼬は屋根に跳び上がって、三軒先の角を曲がって消えた。足が速いのは本当らしい。逃げ足だけは。


 泉水さんが「……さすがですね」と言った。睦月さんは短刀を鞘に収めて、何も言わずに歩き出した。


---


 伏見稲荷に着いたのは、朝の五つ時を少し過ぎた頃だったそうです。


 千本鳥居。


 ご存知ですか? あの朱色の鳥居が、山の斜面にずらりと並んでいるんですよ。何百本も、何千本も。人ひとりがやっと通れるくらいの狭い通路が、鳥居のトンネルになって山の奥へ続いていく。朝日が鳥居の隙間から差し込んで、朱色の中に光の縞模様ができる。


 美しいですよ。本当に。——ただし、あの日は別でした。


 参道の入り口に、睦月さんは立ち止まったそうです。


 朱色の鳥居が連なっている。その向こうは薄暗い。木々が覆いかぶさって、奥に行くほど日が届かなくなる。苔の匂い。湿った石段。鳥居の朱が、奥のほうでは暗い赤に沈んでいる。


「……柱は、この奥ですか」


「はい。参道を登った先。稲荷山の中腹あたりです」


 泉水さんの検知はもう切れていた。でも方角は覚えている。


 睦月さんは参道に足を踏み入れた。鳥居の下をくぐる。一本、二本、三本。足音が石段に反響する。自分の足音だけが、朱色のトンネルの中にこだまする。


 人がいない。


 伏見稲荷は参拝客が多い場所です。朝でも商人や参拝者がちらほらいるはず。なのに、参道には誰もいなかった。


 泉水さんも気づいていたそうです。


「……静かですね」


「はい」


 二人は黙って登っていった。鳥居が続く。途中で道が二股に分かれる。右は山の裾を回る道。左は急な石段を登る道。


 泉水さんが立ち止まった。


「睦月さん。何か——おかしい」


「何がですか」


「鳥の声がしません。さっきまで鳴いてたのに」


 睦月さんの足が止まった。耳を澄ませる。


 風の音。木の葉の擦れる音。遠くの水音。——鳥の声はない。虫もいない。


 空気が変わっていた。鳥居の朱色が、少し違って見える。光の加減か。いや——


 糸だ。


 鳥居と鳥居の間に、細い糸が張られていた。朝日が角度を変えた瞬間、ほんの一瞬だけ光って見えた。一本じゃない。何本も。鳥居の柱から柱へ。頭上の梁から石段の端へ。斜めに、縦に、横に。


 蜘蛛の巣だ。


 参道全体に張り巡らされた、目に見えないほど細い糸。鳥居の赤い柱に紛れて、鳥居の影に溶けて、朱色のトンネルそのものが罠になっている。


「——下がって」


 睦月さんが泉水さんの腕を掴んで引いたのと、糸が動いたのは同時だった。


 頭上の鳥居の梁から、糸が降りてきた。蜘蛛が巣を揺らすように。しゅるしゅると。


「あら」


 声は上だった。鳥居の上に、女が座っていた。


 赤と黒の着物。長い黒髪。細い指の先から糸が何本も伸びている。


 織姫でした。

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