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第15話 半妖の夢

 白夜さんが夢を見ていたのは、あとで本人がぽろっと漏らしたから知ったことです。


 あの人は夢なんか見ない、と普段は言っていました。百五十年も生きてりゃ夢にするような記憶も擦り切れる、とかなんとか。嘘ですよ。あの人はなんでもかんでも「知らね」で済ませる癖がありますからね。


 でも、あの夜——儀の一日目が終わった夜——白夜さんは夢を見たそうです。


---


 暗い。


 白夜さんの夢はいつも暗いところから始まるらしいですよ。


 山の中。季節は冬。雪が降っている。木々の枝が白く凍りついて、足元は泥と雪の混じった灰色の道。吐く息が白い。体のあちこちが痛い。右腕から血が出ている。肩も切れている。足を引きずっている。


 白夜さんは若かった。若いといっても見た目は今と変わりませんがね。今より痩せていたかもしれない。銀髪が泥と血で固まっている。狐の耳が伏せている。尻尾が地面を擦っている。


 何かから逃げてきたのか、何かと戦ったあとなのか。白夜さん自身、夢の中ではよく覚えていなかったそうです。ただ痛くて、寒くて、腹が減っていた。


 道の脇に転がるようにして倒れた。


 もういいか、と思ったそうです。このまま死ぬか、と。——まだ不死になる前の話ですよ。死ねる体だった頃の。


 足音が聞こえた。


 軽い足音。草履が雪を踏む音。近づいてくる。白夜さんは片目だけ開けた。


 娘が立っていた。


 小柄な娘。白い着物。黒い髪を一つに結んでいる。手に杖を持っている。杖の先で地面を確かめながら歩いている。


 目が——見えていない。


 白い目。焦点が合わない。でも、こちらを向いている。気配で察したのか、足音で察したのか。


 白夜さんは低い声を出した。唸るような声です。


「近づくな。ぶっ殺すぞ」


 娘は立ち止まった。


「……怪我してるんですか」


「聞こえなかったのか。殺すっつってんだよ。あっちいけ」


「怪我してるんですね。血の匂いがします」


 娘はしゃがんだ。杖を脇に置いて、手を伸ばしてきた。白夜さんの方角に向かって。まっすぐ。


「じっとしてください」


「触んな——」


「じっとしてください」


 声は静かだったそうです。怒ってもいない。怯えてもいない。ただ、じっとしてください、と言っている。


 手が白夜さんの腕に触れた。冷たい手。雪で冷えた、細い指。傷口を探っている。


「ここ、深いですね。布があれば止血できるんですけど」


「おい」


「少し待ってください。着物の端を——」


「おい、お前」


「はい」


「俺、妖怪だぞ」


 娘の手が止まった。一拍。それからまた動いた。


「知ってます」


「……は?」


「耳の形でわかりました。触ったとき」


 布を裂く音。娘は自分の着物の裾を破いて、白夜さんの腕に巻き始めた。


「妖怪でも怪我はしますよね」


「…………」


「じっとしてください。動くと血が止まりません」


 白夜さんは黙った。


 ——この娘が雪です。


 あたしが知っている雪の話は、断片だけです。白夜さんはほとんど語りませんから。でもね、この場面だけは聞いたことがある。夜中に酒を飲んでいるときに、一度だけ。


 あたしが何か聞いたんじゃありませんよ。白夜さんが勝手に喋ったんです。酒が入ると、まれに。本当にまれに。


 喋り終わったあと、「忘れろ」って言われましたがね。


 忘れませんよ、そんなもの。


---


 夢の中で、白夜さんはずっとその場面を見ていたそうです。


 雪が腕に布を巻いている。雪の手は冷たいが、丁寧だった。痛くないように。きつすぎないように。目が見えないのに手先だけで加減している。


 白夜さんはそれを見ている。


 百五十年前の冬の道。


 あの頃はまだ何も始まっていなかった。儀のことも、不死のことも。ただの半妖と、ただの盲目の娘。それだけの出会い。


 ——夢の中で、雪が顔を上げた。白夜さんのほうを向いた。見えない目で。


「血、止まりましたよ」


 その声が——重なった。別の声と。


「——大丈夫ですか」


---


 白夜さんが目を覚ましたのは、声のせいだったそうです。


 座敷。行灯の残り火が天井に揺れている。畳の匂い。虫の声。秋の夜の、冷えた空気。


 顔の横に、誰かがいる。


 黒い髪。切れ長の目。——睦月さんが、すぐそばにしゃがんでいた。


「うなされてたので」


 白夜さんはしばらく黙っていたそうです。


 目の焦点が合わない。夢と現実の境目がまだ曖昧な、あの数秒間。雪の声と、睦月さんの声が、まだ頭の中で混ざっている。


「……雪」


 口が勝手に動いた。


 一拍。


 睦月さんの目が、少しだけ動いた。聞き取れたのか、聞き取れなかったのか。


 白夜さんはすぐに目を逸らした。天井を見た。


「……覗き見たぁ趣味悪いな」


「うなされてたんです。起こしただけです」


「寝言くらい放っといてくれよ」


「寝言じゃなくて、苦しそうだったので」


「…………」


 白夜さんは寝返りを打って、睦月さんに背を向けたそうです。


 それきり、何も言わなかった。


 睦月さんは何も聞かなかった。雪、という名前のことも。白夜さんの夢のことも。


 自分の布団に戻った。


 ——あとで睦月さんに聞いたんですがね。


「白夜さん、何かおっしゃってましたよ。寝言で」


「何と?」


「……聞き取れませんでした」


 嘘でしょうね。聞こえてたと思いますよ。聞こえてたけど、聞かなかったことにした。


 あの人もまあ、不器用でしょう。


 白夜さんはそれから眠れなかったようです。しばらくして起き上がって、縁側に出ていった気配がしました。あたしはもう寅の刻前に目が覚めてましたからね。台所で水瓶の水を汲もうとしたら、白夜さんが縁側に立っていた。


 空を見ていましたよ。赤い月が五つ。あの目をしているときは、放っておくに限るんです。


 あたしは声をかけずに台所に戻りました。


---


 翌朝。秋晴れでした。


 抜けるような青い空。昨日の重い空気が嘘みたいに、朝の光が町を洗っていた。


 あたしは朝飯の支度をしてましたよ。いつも通り。米を炊いて、出汁を引いて、味噌汁を仕込む。今日は鮭です。切り身に塩を振って、炭火でじりじり焼く。皮がぱりっと焦げて、脂が落ちて、いい匂いがする。


 白夜さんが台所に顔を出した。いつもの気だるい顔。夢のことなんか見なかったみたいな顔。


「飯」


「おはようくらい言えませんかね。——膳は奥に出しますから座ってなさい」


 睦月さんも起きていた。短刀を帯に差して、座敷で正座している。泉水さんは薬草の束を整理しながら「おはようございます」と丁寧に挨拶してきた。——この人はいつでも丁寧ですね。


 鮭の塩焼き。大根おろし。白飯。なめこの味噌汁。昆布の佃煮。


 白夜さんは黙って食い始める。睦月さんは一口、また一口。泉水さんが「おいしいですね、この味噌汁」と言った。


 食えてるなら大丈夫でしょう。食えなくなったらおしまいですからね。


---


 朝飯が終わって、茶を出したところでした。


 表の戸が、からりと開いた。


 あたしは振り返った。朝のこの時間に客が来ることはあまりない。常連は昼前か夕方が多い。


 入ってきたのは——小柄な男でした。


 派手な着物。深緑に金の雲模様。こんな裏路地で着るもんじゃないですよ、あれは。長い黒髪をゆるく束ねて、前髪を分けている。猫みたいな目。涼しい顔。片手に扇子。


 その男は店の中をぐるりと見回して——白夜さんの顔を見て、睦月さんを見て、泉水さんを見て——それからあたしを見た。


「朝飯、まだいけますか?」


「……お客さん、うちは看板出してませんけど」


「知ってますよ。百膳堂でしょう。裏で評判の飯屋だって聞いてたんだ。——鮭の匂いがしたから間違いないなと思って」


 男は勝手に上がり込んで、白夜さんの向かいに座った。胡坐をかいて、扇子をぱちりと閉じた。


「はじめまして。——いや、はじめましてじゃないか。昨日、ちょっと見てたんだよね」


 白夜さんが茶碗を置いた。


「……誰だよ、お前」


「雅楽。ただの死刑囚」


「死刑囚?」


「元、かな。今は幕府の帳簿では死人になってるから。まあ、どっちでもいいけど」


 男——雅楽さんは扇子の先で自分の右手の甲を指した。そこに刻印がある。参加者の印。


「同業者だよ。よろしく」


 次のお話をしましょうか。

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