第4話_その跳躍はどこに届くのか
レールの先で、車輪が鳴った。
十三分前の記録は、まだ音になって残っている。
地下搬送路は途中で二つに分かれていた。片方は黒い水に沈み、もう片方には細いレールが続いている。人ひとりを寝かせた台車なら通せる幅だ。魔導灯は死んでいるのに、金属の擦れた跡だけが新しい。
「こっち」
カシェが暗がりを指した。
私は端末の照明を絞り、レール沿いに急ぐ。変身は解けている。それでも背中には重い翅が垂れたままで、水滴が落ちるたび、ないはずの触角が光を探した。
身体は、人間へ戻ったことをすぐには納得してくれない。
レールの終点には、錆びた昇降台があった。床板の向こうから、低い駆動音が響いてくる。
「上。高架につながってる」
「もう出る?」
「たぶん。さっきの記録と、音の間隔が同じ」
昇降台の脇で、作業端末が半分潰れていた。カシェが割れ目へ指を差し込み、画面を一度だけ明滅させる。
搬出便番号――〇四。
積載数――三。
識別列――YK―22。
ユナ・ケイル。二十二歳。
偶然で片づけるには、近すぎた。
「上へ行こう」
「正面は白い人たち」
「……別の出口は?」
「横に保守梯子」
梯子へ手をかけたところで、端末が震えた。
リザから位置情報が届いている。高架西側の古い階段口。ここから支柱三本ぶん先だ。
私はすぐに通話を入れた。
『レンさん。地下の出口、そこでしょう』
「どうして来たんですか」
『ユナの交通札に、古い貨物線の履歴が残っていました。私だって調べられます』
声の震えを、早口で押さえ込んでいる。
「階段を上がらないでください」
『待つ場所を、少し近くしただけです』
「それを上がるって言うんです」
『でも――』
「見つかれば、あなたも運ばれます。憲兵に踏み込まれれば、今度は運営側の関係者として疑われるかもしれない」
言葉が強くなった。
でも、ここだけは譲れない。
「夜蘭の人と一緒ですね?」
通話の向こうで、低い女の声が答えた。
『いるよ。階段には近づけさせない』
少なくとも、ひとりではない。
『……ユナを見つけたら』
「連絡します」
『約束じゃなくていいです。連絡だけ、してください』
「はい」
助けます、とは言えなかった。
言いたい言葉ほど、今は軽くしたくない。
梯子を上りきると、斜めの雨が頬を打った。
古い貨物高架の下には太い支柱が何列も並び、廃レールの上へ看板、配管、違法増築の足場が重なっている。頭上では、現役の魔導車道が唸っていた。
出口のすぐ先で、白い封鎖灯が回っている。
「レンさん。また現場ですか」
聞き覚えのある硬い声に、片足が梯子へ残った。
封鎖柵の向こうに、セリカ・ランバートが立っている。濃紺のスーツに雨粒を並べ、記録端末をこちらへ向けていた。
「……仕事です」
「前回の情報は正確でした。今回は何を見つけました」
「先に追い返すところじゃないんですか」
「情報を聞いてから追い返します」
「追い返すのは決まってるんですね」
セリカは否定しなかった。
私は梯子口を指した。
「地下に新しい搬送レールがあります。上へ出る便は〇四。積載は三人。識別列にYK―22」
「情報源は?」
「壊れた作業端末です。画面はまだ残っています」
セリカは近くの憲兵へ顎を引いた。
「保全員を二名。梯子下の端末とレール痕を確認してください」
鵜呑みにはしない。
でも、聞き流しもしない。
それからセリカは、私の肩に残った灰白の粉へ視線を落とした。
「地下で付着したものですか」
「たぶん」
「あとで採取します。レンさんは白柵の外へ」
「情報提供したのに」
「それと立入許可は別です」
前にも聞いた。
たぶん、正しい。
だから困る。
頭上で、重い駆動音が鳴った。
黒い搬送車が、ひとつ上の側道を横切る。窓はない。側面の企業章は黒く塗り潰され、後部の認証灯だけが青く瞬いた。
カシェが私の袖を引く。
「同じ薬の匂い」
搬出便〇四。
セリカも車両を見上げ、すぐ端末を開いた。
「西側側道、黒の無窓搬送車。車両照会」
『登録照合中。側道は規制範囲外です』
「次の合流口を閉鎖。急行箒を回してください」
判断は速い。
それでも車は、もう次の支柱を抜けている。
「レンさん、白柵の外で待っていてください」
セリカが憲兵へ向き直る。
私は一度だけ頷き、支柱の陰まで下がった。
そこから走った。
「待ってって言われたよ?」
「聞こえてた」
「待つ?」
「待てない」
「だよね」
高架側道へ上がる階段は遠い。人間の脚では間に合わない。
「追えるのを」
「追う系に寄せる」
「止まれるやつで」
「そこは……出てから」
「そこを先に決めたいの」
私は支柱の陰を確かめた。
人はいない。監視灯も、今は車両を追っている。
カシェが胸元から本体の箱を引き出した。
「何が出るかな」
「今度こそ、移動できるものを」
暗い口へ腕を入れる。
硬い毛の束が、指の腹を逆撫でした。その奥で何かが弾むように逃げる。爪を立てて捕まえ、引き抜いた。
黄褐色のカプセル。
噛み割ると、乾いた草と鉄の味がした。
箱が畳まれ、腰へ噛みつく。
太腿の奥が熱くなった。
筋肉が膨らむより先に、骨盤が後ろへ引かれる。腰の位置がずれ、膝が遠ざかる。踵が浮き、足首だった場所が、歩くためではない角度へ折れ曲がっていく。
胸郭が前へ押し出された。肋骨の下だけがきつく絞られ、その下で腹部が硬く閉じる。細くなった腰を挟んで、太腿は別の生き物みたいに太く、長く育った。
立っているだけなのに、前へ倒れそうになる。
違う。
倒れたいんじゃない。
跳びたい。
身体が、私より先に答えを出していた。
腰の後ろが裂けるように重くなる。太い尾が伸び、濡れた路面を叩いた。自分では動かしていないのに、尾は私の傾きを知っている。
耳が頭上へ引っ張られた。
雨粒。車輪。ドローンの羽音。高架の継ぎ目を走る振動。拾わなくていい音まで、一度に頭へ流れ込む。
首から肩、腰、太腿の外側へ灰褐色の獣毛が広がった。服を着たのではない。皮膚がざらつき、そのまま短い毛と張りつめた腱へ変わっていく。
腹の前では、毛皮と硬い外皮の合わせ目が、ぴったりと噛み合った。柔らかい袋ではない。指先ほどのものを隠せそうな、厚い収納フラップだった。
『わ。アルザントビワラビーだ』
『……これ、カンガルーじゃないの?』
『ワラビーだよ?』
『その訂正、今いる?』
水たまりに影が揺れた。
大きな耳。前へ伸びた獣面。黒髪の名残が、片側だけ長い毛束になって頬へ垂れている。
厚い胸郭から腰へ絞られ、そこから巨大な太腿へ広がる輪郭。膝下は長く、獣脚の爪が人間とは違う重心で路面を掴んでいた。
可愛い耳をつけただけの姿ではない。
跳ぶために、人の輪郭まで獣の身体へ組み直した姿だった。
私は一歩踏み出した。
一歩のつもりだった。
次の瞬間、高架柱が目の前にあった。
大きな足が柱へぶつかる。反射的に蹴る。尾が空気を切り、身体の向きを変えた。
景色が横へ流れる。
看板の上へ落ち、看板ごと沈みかけ、その反動でもう一度跳ぶ。
『今日のレンは跳ねすぎ版』
『記録するの早くない?』
外へ出たのは、低い獣声だった。
搬送車は二本先の高架を走っている。
私は地面を走らなかった。
柱を蹴る。屋根の縁を踏む。張り出した配管を足場にして、上へ、前へ跳んだ。
壁はもう壁ではない。
今の脚には、方向を変えるための床だった。
搬送車の後部が開き、円盤型の警備ドローンが二機飛び出した。赤い照準線が雨を切る。
一機目の射線を、尾が先に避けた。
腰を引かれ、身体が空中で半回転する。爪先で機体の縁を押す。砕くのではなく、角度だけを変えたドローンが二機目へぶつかり、そろって防音板へ火花を散らした。
続いて、荷台から小さな檻が落ちた。
地面へ当たる前に扉が開き、灰色の小型魔獣が飛び出す。後脚だけが異様に長い。
囮まで跳ねるらしい。
魔獣は柱を蹴り、私の喉へ一直線に飛んできた。
倒している時間はない。
私は看板支柱を踏み切り、空中で身体をひねる。尾で脇腹を押し、進む向きだけを変えた。
魔獣は私の横を抜け、工事用の落下防止網へ突っ込んだ。網の中で暴れている。
怪我はしていない。
たぶん。
確認しようとして、着地点を見失った。
跳びすぎた。
搬送車を追い越している。
『レン、行きすぎ』
『分かってる!』
尾を振る。
身体が大きな弧を描き、搬送車の屋根へ落ちた。
天板が、足の下で深くへこんだ。
荷台の奥から、三つの呼吸が聞こえた。
ひとつは浅く、ひとつは咳を堪え、もうひとつは何も言わずに震えている。
人がいる。
この脚なら、車軸を折れる。
前へ回り込み、車体ごと止めることもできる。
でも、止め方を間違えれば、三人ごと高架から落とす。
私は屋根を蹴り抜く代わりに、爪を立てて姿勢を低くした。
運転席との境にある点検ハッチが開く。黒い補助義体を肩から腕へ這わせた男が、上半身を乗り出した。片手に短い衝撃杖。胸元には青い認証タグ。
「離れろ、化け物!」
杖が振られる。
私は屋根を蹴り、男の横をすり抜けた。爪先が天板を裂く。伸ばした手で、胸元のタグを引きちぎる。
小さすぎる。
今の指では、次の着地で落とす。
腹部の閉じ目が、ぞわりと短く開いた。
袋ではない。
そう思うことにして、硬いフラップの裏へタグを滑り込ませる。
閉じ目が噛み合った。
『便利』
『今は言わないで』
男が振り向きざまに衝撃杖を突き出す。
先端が脇腹をかすめた。筋肉が一瞬だけ固まり、尾が大きく跳ねる。
その瞬間、搬送車が急に車線を変えた。
男の足が、点検口から外れた。身体が宙へ投げ出される。
下層の貨物線まで、三階ではきかない高さがある。
私は前を見た。
搬送車はまだ近い。
次の柱を蹴れば、もう一度追いつける。
背後で、男の叫び声が落ちていく。
脚は、考えるより先に屋根を蹴っていた。
前ではなく、後ろへ。
尾を振り、空中で身体を返す。落ちていく男の補助義体を掴んだ。
重い。
片腕では止めきれない。
男を抱えたまま、下層の防音板へ両足を向ける。
着地ではなかった。
衝突だった。
板が割れ、衝撃が足裏から膝、太腿、骨盤へ突き抜けた。腹部フラップが硬く締まり、内側のタグを守る。
さらに一段落ち、廃レール脇の濡れた砂利へ転がった。
尾が男を避けて地面を打つ。
私は背中から落ちた。
見上げた時には、搬送車の認証灯は高架の曲がり角へ消えていた。
届かなかった。
今度こそ、すぐそこにいたのに。
腕の中で、護送員が咳き込む。
生きている。
ユナへ届くはずだった跳躍を、この人に使った。
それでも、見捨てるという答えだけは選べなかった。
『レン』
『分かってる。タグは取った』
男の腰から拘束索を抜き、その手首と補助義体をまとめて巻いた。近くの非常通報器を爪で押し、位置情報だけを送る。
それから、憲兵が来る前に保守通路へ跳んだ。
低く跳ぶつもりだった。
屋根を一つ越えた。
やっぱり止まれない。
変身を解くと、世界が急に狭くなった。
耳が戻っても、車輪の音が頭の奥を走っている。尾が消えたせいで、立っているだけなのに背中側が足りない。
一歩進む。
半歩余る。
「歩きにくい」
「さっきより遅い」
「人間は普通、あんなに跳ばないの」
腰元のポーチが開き、カシェがぬるりと人型へ戻った。腹部フラップが消える直前に吸い上げていたらしく、手には青い認証タグがある。
「落とさなかった」
「それは認める」
保守通路の端末へタグを重ねる。
一度拒否された。
もう一度、カシェが端子を舐める。
車両側に残っていた直前の経路記録だけが開いた。
最終搬入先――旧東部義体倉庫、第三棟。
最終枠――零時四十分。
開催時刻――変更済み。
明日の夜だったはずの予定が、今夜へ繰り上げられている。
積載者一覧の二番目に、名前があった。
ユナ・ケイル。
生体反応あり。
因子投与、待機中。
音声欄に、短い確認記録が残っている。
『ユナ・ケイル。二十二。……聞こえてるなら、リザに――』
そこで切れた。
弱い声だった。
でも、生きていた。
私はリザへ通話を入れた。
『レンさん?』
「ユナさんを確認しました。生きています」
息を呑む音がした。
『どこですか』
「旧東部義体倉庫、第三棟です」
『私も――』
「来ないでください」
『また、それですか』
「はい。またです」
今度の沈黙は短かった。
『じゃあ、帰ってくる場所を空けておきます』
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「お願いします」
通話を切り、倉庫までの経路を表示する。
零時四十分まで、あと二十七分。
今度は道でも、記録でもない。
ユナ本人へ届かなければならない。
高架下の移動指揮車では、三つの記録が同じ地点を指していた。
個室端末ビルから続く地下搬送路。
黒い無窓搬送車が抜けた側道。
拘束された護送員の補助義体に残っていた目的地キャッシュ。
旧東部義体倉庫、第三棟。
セリカ・ランバートは照合画面を閉じた。
『レンという便利屋の情報とも一致するわ』
通信越しのヘイズは、すでに突入用の術式負荷を計算している。
「情報提供者として記録してください。ただし、現場への同行は認めません」
『本人にも言った?』
「言いました」
『聞いた?』
セリカは一拍置いた。
「今、捜索中です」
『でしょうね』
別画面には、高架監視機が拾った灰褐色の影が止まっていた。
大きな耳。
異様に発達した脚。
落下した護送員を追って、搬送車から離れる姿。
「跳躍獣型の未確認個体。護送員を救助した可能性があります」
『可能性じゃなくて、救助でいいわ。落下予測線から自分で外れて拾いに行ってる』
「では、そのように記録します」
危険性と救助行動。
今回も、片方だけを消す理由はなかった。
「突入許可が下りました」
通信係の声に、セリカは認可宝石へ手を添えた。
白い光が一度だけ指揮車の遮蔽板を満たす。
光が消えた時、そこには白い外套と白銀のブーツ、淡い橙色のバイザーを備えた公認魔法少女が立っていた。
白律魔杖は白い魔杖を取り、待機していた急行箒へ跨る。
「救護班を先行待機。搬出口を二か所とも封鎖してください。積載者は最低三名です」
『未確認個体がまた出るかもしれないわよ』
「その場合も、市民保護を優先します」
認可灯が雨を裂いた。
白律魔杖もまた、旧東部義体倉庫の第三棟へ向かった。




