第3話_その粉はなにを照らすのか
ユナが怪物の前へ放たれるのは、明日の夜だ。
なのに私は、憲兵局の白い柵の外で、さっきの倉庫に出た「未確認個体」について聞かれていた。
リザは救護用の椅子に座り、さっき私に言ったのと同じことを記録板へ向けて話した。
怖かった。
それでも、助けられたことまで嘘にはしたくない。
セリカは、その二つを混ぜなかった。記録板の別々の欄へ入力した。
「レンさんは、その個体を見ましたか」
「一部だけです。動きが速くて」
「接触は?」
「ありません」
正確には、接触しかしていない。
私はできるだけ普通の顔で答えた。
「分かりました。追加の確認が必要になるかもしれません。それまでは待機してください」
「……はい」
待機。
明日の夜まで何時間残っているか考え始めると、あまり相性のよくない言葉だった。
事務所へ戻ると、私は割れた端末へ数字を打ち込んだ。
倉庫で証拠端末が保全袋へ入れられる直前、画面の隅に一瞬だけ出た観測回線番号。私が読み上げ、カシェが記録していたものだ。
画面が二度明滅し、古い契約先を吐き出す。
廃業済み。
個室端末施設。
アザレア外縁、旧第六回線区。
「見る側の住所?」
「たぶん」
「たぶん多いね」
「確定できる情報が少ないの」
事件端末そのものは憲兵局にある。こちらに残っているのは、保全される直前に拾えた番号だけだった。
十分とは言えない。
でも、待っている理由にもならない。
私はリザへ短く送った。
『観測側の場所を一つ見つけました。私だけで確認します』
すぐに返事が来る。
『待ってます』
『でも、待つのって、こんなにきついんですね』
大丈夫です。
助けます。
任せてください。
どれも打てなかった。
嘘ではない。でも、今の私には保証できない。
『必ず連絡します』
約束できたのは、それだけだった。
個室端末ビルは、アザレアの外れで昼の光に晒されていた。
入口の看板は剥がれ、受付には埃が積もっている。狭い個室が蜂の巣みたいに並び、壁から視聴用の端末アームが垂れていた。
表口には色褪せた憲兵局の封鎖札が残っている。
日付は三年前。今の事件で閉じられた場所ではない。
ただし、表が閉じていても裏まで死んでいるとは限らない。アザレアの古い建物は、口を塞がれても別の隙間から息をする。
隣の違法増築から非常階段へ渡ると、内側の埃に新しい靴跡があった。
「まだ使ってる」
「うん。奥だけ起きてる」
カシェが個室の一つを覗き込む。
割れた画面には、焼け残った文字が並んでいた。
観測枠。
視聴人数。
倍率。
開放。
回収失敗。
椅子の下には薄い賭け札。天井には小型カメラ。壁には厚い防音材。
人を助ける設備ではない。
人が壊れるところを、安心して眺めるための設備だった。
「レン」
別の画面に、止まった映像があった。
女の後ろ姿。
少し明るい髪。肩をすくめるような立ち方。足元には、被写体の位置を示す白い枠が引かれている。
リザから見せてもらったユナの写真と似ていた。
顔も名前も焼けている。断定はできない。
それでも、胸の奥が冷えた。
「ここへ連れてこられた?」
「見るためか、見せるためかは分からない」
「どっちも嫌だね」
「うん」
その時、天井の照明が一斉に点いた。
色は薄い。
なのに、目の奥を細い糸で引かれるような違和感がある。
壁の隙間から、小さな羽虫魔獣が這い出した。薄い翅を震わせ、照明の下をぐるぐる回る。
虫の目はこちらを向いていた。
飛び方だけが、監視カメラに似ている。
その上を誘導ドローンが滑り、レンズをこちらへ向けた。
「監視、まだ生きてる」
「壊す?」
「親機を探したい。追えるものに寄せて」
「見る系?」
「できれば、気持ち悪くない方向で」
「それは選べない」
「知ってた」
私は扉の残った個室へ入り、通路側から見えない位置まで身を引いた。
「人、見てない?」
「カメラは見てる」
「先にそっちを止めて」
カシェが舌でレンズを塞ぎ、胸元から本体の箱を引き出した。
「何が出るかな」
「今は外さないで」
手順は覚えている。
何度やっても、慣れない。
箱へ手を入れる。
指先に触れたのは、乾いた薄い殻だった。
引き抜いたカプセルは、白く濁っている。
噛み割る。
口の中に、絹糸を噛み切ったような感触が広がった。
箱が薄く畳まれ、左の腰へ噛みつく。
その直後、私の皮膚が乾き始めた。
汗が引いたのではない。
肌そのものが、細かな粉を作っている。
喉の内側が狭まり、舌の付け根が硬くなる。唇の感覚が消え、その代わりに小さな口器が折り畳まれていく気配がした。
肩甲骨の位置が分からなくなる。
尾骨の上へ節のある白い腹部が押し込まれ、背骨に沿って腰裏へ貼りついた。その両脇で、薄いものが二対、畳まれたまま育っていく。
胸郭は白い繊維に押し包まれた。布ではない。皮膚から生えた繭糸と短い毛が固まり、胸から腰へ、生体の外皮を作っていく。
腰は勝手に細く締まり、周囲に重なった膜が短い外套の裾みたいに垂れた。脚は人の線を残したまま、足首から白い節へ覆われていく。爪先が割れ、床を掴む鉤爪になった。
最後に、顔の上半分が硬い面で塞がれた。
視界が細かな升目に割れる。
端末。埃。照明。カシェ。
同じものが少しずつ角度を変え、いくつも見えた。また複眼だった。
頭上で羽毛状の触角が震える。片側だけ、黒い絹糸の束が頬へ重く垂れた。
背中の翅が落ちる。
大きい。
薄い。
白灰色で、外套みたいに重い。
翅がある。
なのに、身体は飛び方を知らなかった。
『ヨルヒキカイコ。かわいい』
『飛べる?』
『落ちるのが、少しゆっくり』
『それは飛べるって言わない』
割れたモニターに、白い怪物が映った。
暗い琥珀色の複眼面。その下に、小さな虫の口器。
胸から腰には女の輪郭が残っているのに、表面は繭糸と毛と薄い殻だった。背中から垂れた翅は、衣装ではなく、粉をこぼす重い器官にしか見えない。
首元と腰だけに、くすんだ薔薇色の縫い目が走っていた。
誘導ドローンが奥へ動く。
照明も、通路の先へ流れた。
身体が勝手に追おうとした。
蛾が光へ寄ることは、前の生活でも知っていた。
知識で知るのと、足が勝手に出るのは別だった。
鉤爪が床を掻く。
飛びたいのではない。ただ、光へ行けと身体の奥から繰り返し命じられている。
『レン、そっちは罠』
『分かってる』
『足は分かってなさそうだよ?』
『実況しないで』
私は壁へ爪を立て、翅を一度だけ震わせた。
灰白の粉が舞う。
粉は空中で薄い筋になり、見えなかった光の流れを浮かび上がらせた。
天井裏へ曲がる線。
小型ドローンが戻る線。
床下へ沈む線。
弱点だった。
でも、弱点だからこそ辿れた。
そういうところが、いちばん腹立たしい。
私は翅粉をカメラへ浴びせ、ふらついたドローンを細い繭糸で引っかけた。止められるのは一瞬だけ。それで十分だった。
光の線が集まる床板へ爪を差し込み、引き上げる。
黒い搬送口が現れた。
人が一人、横になって通れるほどの穴。
下から、冷たい空気と薬品と古い血の臭いが上がってくる。
床には細いレール。
壁には、何かをぶつけながら運んだ新しい傷。
光の先に、出口はなかった。
代わりに、地下へ続く搬送路があった。
次の瞬間、穴の底から羽虫魔獣が噴き上がった。
翅音が重なり、耳の奥を削る。
虫は噛みつくより先に、私の複眼と口器へ群がった。目を潰し、搬送口へ入らせないつもりらしい。
翅を振る。
粉で押し返す。
細い糸で何匹かを絡める。
数が多すぎる。
後ろへ下がろうとした、その時だった。
通路の反対側から、まっすぐな白い光が差し込んだ。
羽虫魔獣が一斉に私から剥がれ、白へ向かう。
空いた口器へ、やっと空気が入った。
助かった。
そう思った直後、私の鉤爪まで床から浮きかけた。
この光は、誘導灯よりずっと強い。
光の向こうに、白銀のロングブーツが見えた。
そこから上へ、淡青の線が走る白い魔法衣が続いている。高い襟と小さな肩章。胸元の認可宝石が白く脈打ち、腰では儀礼軍装の直線を取り込んだスカートパネルが重なっていた。
白い外套の向こうで、背中まで伸びた銀白の髪が流れている。
右手には白い魔杖。
目元には、淡い橙色を帯びた半透明のバイザー。その内側を、警告と照準の表示が走った。
白律魔杖。
前の世界で、魔法少女は物語の中にいた。
綺麗な姿に変身して、怪物の前に立ち、誰かを安心させる女の子。
この世界では職業だ。
認可番号と規則と出動記録を背負い、災害現場へ出る人たちの呼び名だった。
違うはずなのに、目の前の彼女は、私が知っていた魔法少女そのものに見えた。
綺麗だった。
白は白でも、私の白は粉と毛と繭の白だ。
彼女の白は、人前に立つために整えられた白だった。
あの姿なら、助けた相手に「怖かった」と言わせずに済むのかもしれない。
そう思った瞬間、身体が光へ一歩出た。
私は翅を壁へ叩きつけた。
痛みで足先を取り戻し、鉤爪を床へ食い込ませる。
「白盾、展開」
半透明の盾が搬送口を塞ぎ、地上へ抜けようとした羽虫魔獣を押し戻す。続いて白い帯がほどけ、光へ群がった虫をまとめて巻き取った。
殺していない。
潰してもいない。
飛ぶ向きだけを奪っている。
正しい制圧だった。
淡い橙色のバイザーが、こちらを向いた。
その内側で、対象を囲う枠が私を捉える。
「未確認個体、停止してください。こちらの言葉が分かりますか」
分かる。
止まりたい。
話せるなら、話したかった。
でも、この喉から出るのは粉を擦るような音だけだ。
私が人間だと示すものは、何もない。
白灯が私の輪郭を追う。
また身体が引かれた。
『レン』
『分かってる。逃げる』
白灯に勝てないなら、光路を濁らせる。
私は翅をすぼめ、搬送口へ身を沈める直前に、一気に開いた。
灰白の翅粉が爆ぜた。
白い光が濁る。
複眼いっぱいに粉と残像が広がる。
「待ちなさい!」
私は穴へ身体を投げた。
飛ぶのではなく、落ちる。
重い翅が空気を受け、落下をほんの少しだけ遅くした。
上から白帯は降りてこなかった。
白い盾の向こうでは、まだ羽虫魔獣が暴れている。
私は地下の暗がりへ落ちた。
白律魔杖は、搬送口の縁で足を止めた。
白灰色の翅。
暗い金色の複眼面。
その下にのぞく、小さな口器。
人型に近い胸郭と腰。
白灯へ引かれながら、痛みを使って踏みとどまった動き。
羽虫魔獣には襲われていた。
搬送口を露出させたのも、あの個体だ。
だが、制止には応じず、白灯の光路を乱して逃走した。
事実が、きれいに一つの結論へ並ばない。
白帯の中では、まだ羽虫魔獣が暴れている。盾を外せば地上へ流出する。開いた搬送口には、人を運んだらしいレール痕も残っていた。
第一は流出防止。
第二は搬送路の保全。
未確認個体の追跡は、その後だ。
「羽虫型の未確認個体を確認。地下搬送路へ逃走。人型に近い外形。知性の有無は未確定です」
『追わなくていい。粉を採取なさい』
ヘイズ・オルブライトは、報告の途中で結論を出した。
「まだ追跡可否を報告していません」
『見れば分かるでしょう。白帯で群れを保持したまま地下へ入る気?』
「ありません」
『なら決まり。清掃班を止めて、搬送口、光路上、壁際の三か所から採取なさい』
白律魔杖は、縁に積もった灰白の粉を見た。
「対象は、翅粉で白灯の光路を乱しました」
『術式干渉性あり。普通の翅粉ではないわ』
「正体を断定しますか」
『まだしない。今見えた性質だけ拾うの。対象が残したものを、勝手に掃除させないで』
「採取班へ指示します」
『それで結構』
通信が切れる。
白律魔杖は記録欄へ二行を加えた。
未確認個体による民間人への攻撃、確認できず。
地下搬送口露出への関与、要検証。
危険性と、搬送路を露出させた事実。
その両方が、同じ記録に残った。
地下搬送路の曲がり角まで落ちてから、私は変身を解いた。
翅が消えても背中は重い。
複眼の感覚が抜けても、白灯の残像が細かく割れて見える。髪と肩には灰白の粉が残っていた。
腰のポーチが開き、カシェがぬるりと人型へ戻る。
「記録名、決まった」
「聞きたくない」
「今日のレン・白くて飛べない版」
「欠点を名前にしないで」
「でも、道は見つけた」
「……うん」
端末が震えた。
リザからだった。
『まだ、待っています』
私は搬送路の暗がりを見た。
壁際に、管理用らしい小さな端末が残っている。画面は割れていたが、搬送記録だけは消えていなかった。
対象名――ユナ・ケイル。
事前観測、完了。
第四搬送口へ移送中。
最終更新、十三分前。
足元のレールは、暗闇の先へ続いている。
明日の夜は、始まりではなかった。
見世物に出される時間だ。
ユナを運ぶのは、もう始まっていた。




