第2話_その髪はだれを捕まえるのか
甲虫をやめて一晩経ったのに、私はまだ看板を角で避けていた。
「レン、また首よけた」
「昨日の名残」
「今日は角ないよ」
「分かってる。身体が分かってないだけ」
事務所の窓には、昼間のネオンが薄く映っている。
私はソファに座り、割れた端末へ安物の魔導クリップを噛ませた。画面の半分は死んでいて、触るたびに、じじ、と嫌な音を立てる。
ついでに背中まで同じ音を出しそうだった。
肩を回すと、皮膚の下にもうない甲殻の縁が引っかかる。前腕も妙に軽い。さっきからカップを持つたび、力を入れすぎていないか確かめてしまう。
カシェは机に頬杖をつき、端末より熱心に私を見ていた。
「昨日のレン・硬さ残り版」
「残さないで」
「観察記録、大事」
「事件の記録を優先して」
端末に残っていたのは地図ではない。途切れた位置情報と、短い通信ログ。それから、何度も消そうとして消しきれなかった痕跡だけだ。
その時、事務所の扉が遠慮がちに鳴った。
入ってきたリザは、昨日より顔色が悪かった。首筋の細かな鱗が乾き、いつもの艶を失っている。
「すみません。連絡を待てなくて」
「何か見つかったんですか」
「ユナの古いメッセージが、もう一つ」
差し出された端末には、軽い調子の文が並んでいた。絵文字と冗談で、後ろめたさを包んだような文章だった。
『リザって、怒る時だけ目が細くなるよね』
『怒らないでね。見学だけ』
『義体屋の裏。配信スタッフが来るって』
『やばそうなら帰る。ほんと』
「ユナ、危ない話ほど“見学だけ”って言うんです」
「それで、帰ってきたことは?」
「一度も」
怒った声だった。
そうしていないと、たぶん泣いてしまう。
私は割れた端末から拾った位置情報を重ねた。生き残った画面の隅に、古い区画コードが浮かぶ。
アザレアの外れ。廃業した義体修理屋が並ぶ一角だった。
「一致します」
「じゃあ、ユナはそこに」
「いた可能性は高いです。でも、今もいるとは言えません」
リザが欲しいのは「助かる」という一言だと思う。
言えない。約束できないことを口にしても、ユナは帰ってこない。
画面を覗き込んだカシェが、鼻先を近づけた。
「昨日の腕と、ちょっと似てる」
「端末なのに分かるの?」
「残りかす。匂いじゃないけど、匂いみたいなもの」
「外来因子?」
「たぶん。消した人、急いでる」
カシェにも、誰が何をしたかまでは分からない。
でも、消す側が急いでいるなら、現場にはまだ何か残っている。
「行きます。リザさんは近くまでです」
「私も探します」
「奥へ入るかは、現場を見てから決めます」
納得はしていない顔だった。それでもリザは、先に扉へ向かった。
廃義体通りは、昼なのに夜の後始末みたいな色をしていた。
看板は消え、シャッターは閉じている。雨は止んでいるのに、油の浮いた水たまりだけが灰色の空を映していた。どこかで古い冷却ファンが回り続けている。
目当ての修理屋は、通りのいちばん奥にあった。
私はリザを表の角で止める。
「ここで待っていてください」
「でも」
「人がいたら連絡します。何もいなくても連絡します。だから、私が呼ぶまで来ないでください」
リザは端末を強く握り、しぶしぶ頷いた。
カシェと裏へ回る。魔導鍵は受け金ごと壊されていた。扉の隙間から、薬品と焼けた樹脂の臭いが漏れている。
奥で、金属を引きずる音がした。
「片づけ中」
「間に合った?」
「半分」
「それ、どっち」
「カシェにも分からない」
珍しく正直だった。
裏倉庫には三人いた。
一人は床へ透明な薬液を撒いている。赤黒い染みが泡立ち、ゴム敷きまで縮れていた。もう一人は壁の監視カメラへ消去札を押しつけている。
最後の一人だけ、小綺麗な上着を着ていた。細い顔。泥だらけの靴。手には黒い小型端末。
その足元に、鉄檻がある。
犬より一回り大きな魔獣が、骨ばった背を丸めて唸っていた。針金のような毛が逆立ち、首輪の赤灯が明滅している。
「昨日の個体は回収前に潰れた。ここまで消せば足はつかない」
「女の端末は?」
「まだだ。ケイルの連れが持ってるかもしれない」
ケイル。
ユナの姓だった。
表のほうで、靴底が水を踏んだ。
振り返った私の向こうに、リザが立っていた。
「ユナ……?」
細い顔の男がこちらを見る。驚いたのは一瞬だけだった。すぐに、獲物を見つけたような笑いへ変わる。
「来たか」
「リザさん、表へ!」
私が叫ぶのと、男が端末を押すのは同時だった。
檻の赤灯が強く光る。魔獣が扉を内側から蹴り飛ばした。薬液の瓶が倒れ、透明な泡が床を走る。消去札が、外された証拠端末へ振り下ろされる。
リザは身を翻した。けれど、濡れた床で足を滑らせ、表へ続く通路の向こうに倒れる。
リザとの間へ、壊れた檻の扉が落ちた。
人間の腕は二本しかない。
今だけは、それでは足りなかった。
「カシェ、捕まえる系!」
「うん」
「リザから見えてない?」
「檻と泡で見えない。今は」
今は、で十分だった。
私は横倒しの棚を飛び越え、奥の資材室へ滑り込んだ。扉を蹴り戻す。変身するところだけは、見られたくない。
正体がばれるから。それだけではない。
人間だった私の形が崩れていく途中を、誰かの記憶に残したくなかった。
カシェが差し出した箱へ手を入れる。
手順は覚えている。何度やっても、慣れない。
指先にぬるい殻が触れた。逃げるように滑るそれを掴み、引き抜く。薄い赤紫のカプセルだった。
噛み割る。
生温かい液体が舌へ広がった。海の底を溶かしたような味がする。
最初に、髪が重くなった。
雨を吸った重さではない。一本一本が太くなる。首の後ろから背へ、腰へ、床へ。まだ伸びる。
頭皮が内側から引かれた。
なのに、首は折れない。髪の根元が肉の奥へ沈み、私の身体を支える器官へ作り替わっていく。
ありえない長さまで伸びた先が、壁に触れた。
冷たい。
手は動かしていない。それでも、濡れた煉瓦の冷たさが分かる。別の先端が配管へ触れ、錆のざらつきを頭皮の裏へ返してきた。
髪のはずなのに、曲げられる。
掴める。
吸いつける。
胸元から腹へ、ぬるい膜が這った。服と皮膚の境目を埋めながら胸郭を包み、腰で細く締まり、太腿まで流れる。膜の継ぎ目には、縫われたようなくすんだ薔薇色の線が沈んだ。
二本の脚は残っている。膝も、足首もある。
それなのに爪先から体重が抜けた。
髪だったものが壁と床と配管を掴み、私の身体を宙へ吊り上げていた。
『ムカデモモダコかな?』
『かな、じゃない。今かなり嫌な名前が聞こえた』
『髪が腕で便利』
『まだ使ってもいないのに結論を出さないで』
外へ漏れた声は、言葉にならなかった。喉の奥で水を掻くような、低く湿った音に潰れる。
資材室の扉を、髪の一本が押し開けた。
魔導カメラの黒い保護面が、床でこちらを向いている。
そこに映ったものを見て、私は一瞬、動けなかった。
濡れた赤紫の触腕が、壁と配管へ何本も張りついている。その中心に、青白い女の身体が吊られていた。胸郭と細い腰、膜に覆われた二本の脚だけは人の線を残している。けれど爪先は床から浮き、顔は触腕の奥へ沈んで、白い口元しか見えない。
長かった片側の髪は、他より太い一本になっていた。裏返った先に灰桃色の吸盤が並び、生き物みたいに縮む。
助けに来たものの姿ではない。
「な、なんだよ、それ」
男の声が裏返った。
気持ちは分かる。私だって曲がり角で今の自分に会ったら、同じ声を出す。
小型魔獣が、倒れたリザへ跳んだ。
考えるより先に髪が動く。
一本が魔獣の顎を横から包み、噛み合わせる寸前で止めた。潰さない。閉じるだけ。
二本目が証拠端末を吸いつけ、消去札の下からさらう。
三本目は細い顔の男の足首へ巻きついた。走り出した男が、情けない声を上げて転ぶ。
四本目を外套のように広げ、リザと魔獣の間へ垂らす。先端で床の泡を押し、古い排水溝へ流し込んだ。
リザの息を呑む音がした。
彼女の前にあるものは、濡れた髪に見えて、髪ではない。内側の吸盤が順番に縮み、先だけが落ち着きなく震えている。
悲鳴は上がらなかった。
上げられなかっただけだと思う。
便利だった。
便利なのが、いちばん嫌だった。
工具を振り上げた男の手首へ、別の触腕が伸びる。柄だけを巻き、奪って床へ落とす。
薬液を撒いていた男は上着の背を掴んだ。首には巻かない。締めすぎない。人間は、思ったより簡単に壊れる。
『レン、首輪』
『あの魔獣の?』
『昨日の腕に残ってたものと似てる。たぶん、外から足してる』
『本人からは取らないで』
『首輪だけ』
腰へ沈んだポーチが開く。くすんだ薔薇色の細い舌が伸び、魔獣の首輪へ触れた。
赤灯が激しく明滅する。
首輪の隙間から、糸のような光が引き抜かれた。魔獣の身体からではない。金具の奥へ継ぎ足されていた何かだけが、薄皮みたいに剥がれていく。
唸り声が細くなった。
私は顎を押さえていた触腕を緩める。魔獣は床へ伏せ、荒い息を吐いた。怯えている。襲うための道具にされていただけだ。
腹が立った。
足首を捕まえられた男が、それでも笑う。
「そいつ、配信に出したら売れるぞ」
答えても、人の言葉にはならない。
代わりに、触腕へ少しだけ力を入れた。
足首ではなく、靴だけに。
泥だらけの靴が、すぽんと脱げた。
「やめろ! 高いんだぞ!」
少しだけ、気が晴れた。
遠くで警告音が鳴った。
白い封鎖灯が裏口の外を走り、床のひびへ沿って光の線を引く。
憲兵局だ。
『リザの通報』
『いつの間に』
『待ってる時。匿名で』
来るなとは言った。
通報するなとは言っていない。
私は証拠端末をリザの手が届く床へ滑らせた。彼女が拾うより先に、配管を掴んで身体を引き上げる。
リザの前で戻るわけにはいかない。
高窓を触腕で押し開け、雨樋の裏へ身体を滑り込ませる。最後に見えたリザは、端末ではなく私を見上げていた。
怖がっていた。
でも、逃げずに見ていた。
隣の建物の非常階段まで回り、物陰で変身を解く。
壁や配管に置きっぱなしにしていた感覚が、頭皮へぞろぞろ戻ってきた。胸元の膜が剥がれるたび、皮膚まで一緒に持っていかれそうになる。爪先へ体重が落ち、膝が崩れた。
二本の腕だけになる。
髪が、ただの髪へ戻る。
ただの髪なのに、まだ錆のざらつきを覚えていた。
カシェが腰のポーチから、ぬるりと人型へ抜け出す。
「記録名、決まった」
「今じゃなくていい」
「今日のレン・腕が多くて便利版」
「今後も見せなくていい」
裏路地を回って戻ると、倉庫は白い仮設柵で囲まれていた。
リザは柵の外にいた。膝を汚し、手首の鱗を逆立てたまま、救護員に簡易処置を受けている。
「リザさん」
「レンさん、どこに」
「裏へ逃げた人がいないか見ていました」
嘘ではない。私も裏へ逃げた側ではある。
「さっきの、見ましたか」
「音だけです。何がいたんです?」
リザは倉庫の高窓を見上げた。
「分かりません。でも、私を助けました」
声はまだ震えている。それでも、そこだけは言い切った。
「怖くなかったんですか」
「怖かったです」
即答だった。
「怖かったけど、助けられたことまで嘘にはしたくないので」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
私は彼女の隣へしゃがむ。
「リザさん。ここから先は、現場へ来ないでください」
「ユナは、私の友だちです」
「だからです。さっき、向こうはあなたを“ケイルの連れ”と呼びました。次に捕まったら、証人ではなく関係者として消されます」
「でも」
「あなたまで消えたら、ユナさんが帰る場所がなくなります」
リザの瞳孔が細くなる。
ユナのメッセージは、こういうところだけ正確だった。
長い沈黙のあと、リザは悔しそうに頷いた。
「……連絡は、してください」
「必ず」
「そちらのお二人」
硬い声が割って入った。
暗いスーツの女性が、白柵の内側に立っている。乱れのない髪。磨かれた靴。片手には記録板。もう片方の手袋には、中和剤の白い粉が付いていた。
彼女は先にリザの処置札を確かめ、それから倒れた男たち、小型魔獣、証拠端末の順に視線を移した。
「イリディア市憲兵局、魔災二係のセリカ・ランバートです。通報者は?」
リザが、そっと目を逸らす。
「匿名の意味、あります?」
「身元は記録上保護します。ですが、現場にいる以上、無事の確認は必要です」
融通は利かなそうだ。でも、最初に聞いたのは犯人の名前でも証拠でもなく、リザの怪我だった。
「あなたは?」
「レンです。便利屋をしています。依頼人に同行しました」
「レンさん。ここから先は封鎖区域です。白柵の外へ」
「もう外にいます」
「片足が内側です」
見ると、しゃがんだ時に右足だけ白線を越えていた。
私は黙って引っ込めた。
セリカは満足せず、私の視線の先を追った。
搬入口には、雨垢のついた古い封鎖札が一枚残っていた。途中で裂け、濡れた表側ではなく、乾いた裏面がこちらを向いている。
「その札、外から破られたんじゃありません」
「なぜそう思います」
「乾いた面が内側へめくれています。誰かが封鎖のあと、倉庫側から出ています」
セリカはすぐ札の前へ屈んだ。指では触れず、記録板の光を当てる。
「……第二班。搬入口西側、旧封鎖札の破断を確認。内側からです。路地側の捜索を」
無線を切ってから、彼女は私を見る。
「情報提供に感謝します。レンさんは白柵の外へ」
「情報提供したのに」
「それと立入許可は別です」
やっぱり融通は利かない。
ただ、話を聞かない人でもなかった。
回収された証拠端末が透明な保全袋へ収められる。ひび割れた画面には、消し残された文字がまだ浮かんでいた。
観測枠。
檻番号。
開放時刻。
回収失敗。
事故の記録ではなかった。
予定表だった。
「暴れたんじゃない」
私の声に、リザが顔を上げる。
「昨日の人も、さっきの魔獣も。誰かが、場所と時間を決めて放っています」
リザは何かを思い出したように、保全袋の中の端末を見た。
「拾った時、次の枠が出ていました。対象の名前は消えていたけど、端末番号が残っていて」
そこで声が詰まる。
「ユナの番号です」
セリカの目つきが変わった。
「開放時刻は」
「明日の夜」
ユナは、行方不明なのではなかった。
怪物の前へ放たれる順番を、待たされていた。




