↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

第2話_その髪はだれを捕まえるのか

 甲虫をやめて一晩経ったのに、私はまだ看板を角で避けていた。


「レン、また首よけた」

「昨日の名残」

「今日は角ないよ」

「分かってる。身体が分かってないだけ」


 事務所の窓には、昼間のネオンが薄く映っている。

 私はソファに座り、割れた端末へ安物の魔導クリップを噛ませた。画面の半分は死んでいて、触るたびに、じじ、と嫌な音を立てる。


 ついでに背中まで同じ音を出しそうだった。

 肩を回すと、皮膚の下にもうない甲殻の縁が引っかかる。前腕も妙に軽い。さっきからカップを持つたび、力を入れすぎていないか確かめてしまう。


 カシェは机に頬杖をつき、端末より熱心に私を見ていた。


「昨日のレン・硬さ残り版」

「残さないで」

「観察記録、大事」

「事件の記録を優先して」


 端末に残っていたのは地図ではない。途切れた位置情報と、短い通信ログ。それから、何度も消そうとして消しきれなかった痕跡だけだ。


 その時、事務所の扉が遠慮がちに鳴った。


 入ってきたリザは、昨日より顔色が悪かった。首筋の細かな鱗が乾き、いつもの艶を失っている。


「すみません。連絡を待てなくて」

「何か見つかったんですか」

「ユナの古いメッセージが、もう一つ」


 差し出された端末には、軽い調子の文が並んでいた。絵文字と冗談で、後ろめたさを包んだような文章だった。


『リザって、怒る時だけ目が細くなるよね』

『怒らないでね。見学だけ』

『義体屋の裏。配信スタッフが来るって』

『やばそうなら帰る。ほんと』


「ユナ、危ない話ほど“見学だけ”って言うんです」

「それで、帰ってきたことは?」

「一度も」


 怒った声だった。

 そうしていないと、たぶん泣いてしまう。


 私は割れた端末から拾った位置情報を重ねた。生き残った画面の隅に、古い区画コードが浮かぶ。


 アザレアの外れ。廃業した義体修理屋が並ぶ一角だった。


「一致します」

「じゃあ、ユナはそこに」

「いた可能性は高いです。でも、今もいるとは言えません」


 リザが欲しいのは「助かる」という一言だと思う。

 言えない。約束できないことを口にしても、ユナは帰ってこない。


 画面を覗き込んだカシェが、鼻先を近づけた。


「昨日の腕と、ちょっと似てる」

「端末なのに分かるの?」

「残りかす。匂いじゃないけど、匂いみたいなもの」

「外来因子?」

「たぶん。消した人、急いでる」


 カシェにも、誰が何をしたかまでは分からない。

 でも、消す側が急いでいるなら、現場にはまだ何か残っている。


「行きます。リザさんは近くまでです」

「私も探します」

「奥へ入るかは、現場を見てから決めます」


 納得はしていない顔だった。それでもリザは、先に扉へ向かった。


 廃義体通りは、昼なのに夜の後始末みたいな色をしていた。


 看板は消え、シャッターは閉じている。雨は止んでいるのに、油の浮いた水たまりだけが灰色の空を映していた。どこかで古い冷却ファンが回り続けている。


 目当ての修理屋は、通りのいちばん奥にあった。

 私はリザを表の角で止める。


「ここで待っていてください」

「でも」

「人がいたら連絡します。何もいなくても連絡します。だから、私が呼ぶまで来ないでください」


 リザは端末を強く握り、しぶしぶ頷いた。


 カシェと裏へ回る。魔導鍵は受け金ごと壊されていた。扉の隙間から、薬品と焼けた樹脂の臭いが漏れている。


 奥で、金属を引きずる音がした。


「片づけ中」

「間に合った?」

「半分」

「それ、どっち」

「カシェにも分からない」


 珍しく正直だった。


 裏倉庫には三人いた。


 一人は床へ透明な薬液を撒いている。赤黒い染みが泡立ち、ゴム敷きまで縮れていた。もう一人は壁の監視カメラへ消去札を押しつけている。


 最後の一人だけ、小綺麗な上着を着ていた。細い顔。泥だらけの靴。手には黒い小型端末。


 その足元に、鉄檻がある。

 犬より一回り大きな魔獣が、骨ばった背を丸めて唸っていた。針金のような毛が逆立ち、首輪の赤灯が明滅している。


「昨日の個体は回収前に潰れた。ここまで消せば足はつかない」

「女の端末は?」

「まだだ。ケイルの連れが持ってるかもしれない」


 ケイル。

 ユナの姓だった。


 表のほうで、靴底が水を踏んだ。


 振り返った私の向こうに、リザが立っていた。


「ユナ……?」


 細い顔の男がこちらを見る。驚いたのは一瞬だけだった。すぐに、獲物を見つけたような笑いへ変わる。


「来たか」


「リザさん、表へ!」


 私が叫ぶのと、男が端末を押すのは同時だった。


 檻の赤灯が強く光る。魔獣が扉を内側から蹴り飛ばした。薬液の瓶が倒れ、透明な泡が床を走る。消去札が、外された証拠端末へ振り下ろされる。


 リザは身を翻した。けれど、濡れた床で足を滑らせ、表へ続く通路の向こうに倒れる。


 リザとの間へ、壊れた檻の扉が落ちた。


 人間の腕は二本しかない。

 今だけは、それでは足りなかった。


「カシェ、捕まえる系!」

「うん」

「リザから見えてない?」

「檻と泡で見えない。今は」


 今は、で十分だった。


 私は横倒しの棚を飛び越え、奥の資材室へ滑り込んだ。扉を蹴り戻す。変身するところだけは、見られたくない。


 正体がばれるから。それだけではない。

 人間だった私の形が崩れていく途中を、誰かの記憶に残したくなかった。


 カシェが差し出した箱へ手を入れる。

 手順は覚えている。何度やっても、慣れない。


 指先にぬるい殻が触れた。逃げるように滑るそれを掴み、引き抜く。薄い赤紫のカプセルだった。


 噛み割る。


 生温かい液体が舌へ広がった。海の底を溶かしたような味がする。


 最初に、髪が重くなった。


 雨を吸った重さではない。一本一本が太くなる。首の後ろから背へ、腰へ、床へ。まだ伸びる。


 頭皮が内側から引かれた。

 なのに、首は折れない。髪の根元が肉の奥へ沈み、私の身体を支える器官へ作り替わっていく。


 ありえない長さまで伸びた先が、壁に触れた。


 冷たい。


 手は動かしていない。それでも、濡れた煉瓦の冷たさが分かる。別の先端が配管へ触れ、錆のざらつきを頭皮の裏へ返してきた。


 髪のはずなのに、曲げられる。

 掴める。

 吸いつける。


 胸元から腹へ、ぬるい膜が這った。服と皮膚の境目を埋めながら胸郭を包み、腰で細く締まり、太腿まで流れる。膜の継ぎ目には、縫われたようなくすんだ薔薇色の線が沈んだ。


 二本の脚は残っている。膝も、足首もある。

 それなのに爪先から体重が抜けた。


 髪だったものが壁と床と配管を掴み、私の身体を宙へ吊り上げていた。


『ムカデモモダコかな?』

『かな、じゃない。今かなり嫌な名前が聞こえた』

『髪が腕で便利』

『まだ使ってもいないのに結論を出さないで』


 外へ漏れた声は、言葉にならなかった。喉の奥で水を掻くような、低く湿った音に潰れる。


 資材室の扉を、髪の一本が押し開けた。


 魔導カメラの黒い保護面が、床でこちらを向いている。


 そこに映ったものを見て、私は一瞬、動けなかった。


 濡れた赤紫の触腕が、壁と配管へ何本も張りついている。その中心に、青白い女の身体が吊られていた。胸郭と細い腰、膜に覆われた二本の脚だけは人の線を残している。けれど爪先は床から浮き、顔は触腕の奥へ沈んで、白い口元しか見えない。


 長かった片側の髪は、他より太い一本になっていた。裏返った先に灰桃色の吸盤が並び、生き物みたいに縮む。


 助けに来たものの姿ではない。


「な、なんだよ、それ」


 男の声が裏返った。

 気持ちは分かる。私だって曲がり角で今の自分に会ったら、同じ声を出す。


 小型魔獣が、倒れたリザへ跳んだ。


 考えるより先に髪が動く。


 一本が魔獣の顎を横から包み、噛み合わせる寸前で止めた。潰さない。閉じるだけ。


 二本目が証拠端末を吸いつけ、消去札の下からさらう。


 三本目は細い顔の男の足首へ巻きついた。走り出した男が、情けない声を上げて転ぶ。


 四本目を外套のように広げ、リザと魔獣の間へ垂らす。先端で床の泡を押し、古い排水溝へ流し込んだ。


 リザの息を呑む音がした。


 彼女の前にあるものは、濡れた髪に見えて、髪ではない。内側の吸盤が順番に縮み、先だけが落ち着きなく震えている。


 悲鳴は上がらなかった。

 上げられなかっただけだと思う。


 便利だった。

 便利なのが、いちばん嫌だった。


 工具を振り上げた男の手首へ、別の触腕が伸びる。柄だけを巻き、奪って床へ落とす。


 薬液を撒いていた男は上着の背を掴んだ。首には巻かない。締めすぎない。人間は、思ったより簡単に壊れる。


『レン、首輪』

『あの魔獣の?』

『昨日の腕に残ってたものと似てる。たぶん、外から足してる』

『本人からは取らないで』

『首輪だけ』


 腰へ沈んだポーチが開く。くすんだ薔薇色の細い舌が伸び、魔獣の首輪へ触れた。


 赤灯が激しく明滅する。

 首輪の隙間から、糸のような光が引き抜かれた。魔獣の身体からではない。金具の奥へ継ぎ足されていた何かだけが、薄皮みたいに剥がれていく。


 唸り声が細くなった。

 私は顎を押さえていた触腕を緩める。魔獣は床へ伏せ、荒い息を吐いた。怯えている。襲うための道具にされていただけだ。


 腹が立った。


 足首を捕まえられた男が、それでも笑う。


「そいつ、配信に出したら売れるぞ」


 答えても、人の言葉にはならない。

 代わりに、触腕へ少しだけ力を入れた。


 足首ではなく、靴だけに。


 泥だらけの靴が、すぽんと脱げた。


「やめろ! 高いんだぞ!」


 少しだけ、気が晴れた。


 遠くで警告音が鳴った。

 白い封鎖灯が裏口の外を走り、床のひびへ沿って光の線を引く。


 憲兵局だ。


『リザの通報』

『いつの間に』

『待ってる時。匿名で』


 来るなとは言った。

 通報するなとは言っていない。


 私は証拠端末をリザの手が届く床へ滑らせた。彼女が拾うより先に、配管を掴んで身体を引き上げる。


 リザの前で戻るわけにはいかない。


 高窓を触腕で押し開け、雨樋の裏へ身体を滑り込ませる。最後に見えたリザは、端末ではなく私を見上げていた。


 怖がっていた。

 でも、逃げずに見ていた。


 隣の建物の非常階段まで回り、物陰で変身を解く。


 壁や配管に置きっぱなしにしていた感覚が、頭皮へぞろぞろ戻ってきた。胸元の膜が剥がれるたび、皮膚まで一緒に持っていかれそうになる。爪先へ体重が落ち、膝が崩れた。


 二本の腕だけになる。

 髪が、ただの髪へ戻る。


 ただの髪なのに、まだ錆のざらつきを覚えていた。


 カシェが腰のポーチから、ぬるりと人型へ抜け出す。


「記録名、決まった」

「今じゃなくていい」

「今日のレン・腕が多くて便利版」

「今後も見せなくていい」


 裏路地を回って戻ると、倉庫は白い仮設柵で囲まれていた。


 リザは柵の外にいた。膝を汚し、手首の鱗を逆立てたまま、救護員に簡易処置を受けている。


「リザさん」

「レンさん、どこに」

「裏へ逃げた人がいないか見ていました」


 嘘ではない。私も裏へ逃げた側ではある。


「さっきの、見ましたか」

「音だけです。何がいたんです?」


 リザは倉庫の高窓を見上げた。


「分かりません。でも、私を助けました」


 声はまだ震えている。それでも、そこだけは言い切った。


「怖くなかったんですか」

「怖かったです」


 即答だった。


「怖かったけど、助けられたことまで嘘にはしたくないので」


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 私は彼女の隣へしゃがむ。


「リザさん。ここから先は、現場へ来ないでください」

「ユナは、私の友だちです」

「だからです。さっき、向こうはあなたを“ケイルの連れ”と呼びました。次に捕まったら、証人ではなく関係者として消されます」

「でも」

「あなたまで消えたら、ユナさんが帰る場所がなくなります」


 リザの瞳孔が細くなる。

 ユナのメッセージは、こういうところだけ正確だった。


 長い沈黙のあと、リザは悔しそうに頷いた。


「……連絡は、してください」

「必ず」


「そちらのお二人」


 硬い声が割って入った。


 暗いスーツの女性が、白柵の内側に立っている。乱れのない髪。磨かれた靴。片手には記録板。もう片方の手袋には、中和剤の白い粉が付いていた。


 彼女は先にリザの処置札を確かめ、それから倒れた男たち、小型魔獣、証拠端末の順に視線を移した。


「イリディア市憲兵局、魔災二係のセリカ・ランバートです。通報者は?」


 リザが、そっと目を逸らす。


「匿名の意味、あります?」

「身元は記録上保護します。ですが、現場にいる以上、無事の確認は必要です」


 融通は利かなそうだ。でも、最初に聞いたのは犯人の名前でも証拠でもなく、リザの怪我だった。


「あなたは?」

「レンです。便利屋をしています。依頼人に同行しました」

「レンさん。ここから先は封鎖区域です。白柵の外へ」

「もう外にいます」

「片足が内側です」


 見ると、しゃがんだ時に右足だけ白線を越えていた。

 私は黙って引っ込めた。


 セリカは満足せず、私の視線の先を追った。


 搬入口には、雨垢のついた古い封鎖札が一枚残っていた。途中で裂け、濡れた表側ではなく、乾いた裏面がこちらを向いている。


「その札、外から破られたんじゃありません」

「なぜそう思います」

「乾いた面が内側へめくれています。誰かが封鎖のあと、倉庫側から出ています」


 セリカはすぐ札の前へ屈んだ。指では触れず、記録板の光を当てる。


「……第二班。搬入口西側、旧封鎖札の破断を確認。内側からです。路地側の捜索を」


 無線を切ってから、彼女は私を見る。


「情報提供に感謝します。レンさんは白柵の外へ」

「情報提供したのに」

「それと立入許可は別です」


 やっぱり融通は利かない。

 ただ、話を聞かない人でもなかった。


 回収された証拠端末が透明な保全袋へ収められる。ひび割れた画面には、消し残された文字がまだ浮かんでいた。


 観測枠。

 檻番号。

 開放時刻。

 回収失敗。


 事故の記録ではなかった。

 予定表だった。


「暴れたんじゃない」


 私の声に、リザが顔を上げる。


「昨日の人も、さっきの魔獣も。誰かが、場所と時間を決めて放っています」


 リザは何かを思い出したように、保全袋の中の端末を見た。


「拾った時、次の枠が出ていました。対象の名前は消えていたけど、端末番号が残っていて」


 そこで声が詰まる。


「ユナの番号です」


 セリカの目つきが変わった。


「開放時刻は」

「明日の夜」


 ユナは、行方不明なのではなかった。


 怪物の前へ放たれる順番を、待たされていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。