第1話_その角はなにを止めるのか
人間の肩から生えた三本目の腕が、風俗店の義体シャッターを殴り潰した。
雨上がりのアザレアは、だいたい全部が光る。
ネオン看板。水たまり。割れた魔導灯。
それから今は、ひしゃげたシャッターの前で火花を浴びている男まで、非常灯の赤に濡れていた。
「カシェ。あれ、説得できると思う?」
私は搬入口の陰から、男を見た。
「できたら、ああなってない」
「だよね」
「引く?」
「引かないで済む案を聞きたかったんだけど」
「ない」
「……だよね」
男、と呼んでいいのかは迷う。
顔は人間だった。泣きそうに歪んだ口元も、焦点の合わない目も。
でも、左肩から生えた腕は違う。
黒い金属骨格に、湿った筋肉が無理やり縫い留められている。付け根には注入痕が並び、背中では硬い瘤が服を押し上げていた。
三本目の腕が、半分外れた魔導看板を掴む。
「と……って……」
男は自分の肩を押さえていた。
取ってくれ、と言ったのだと思う。
この人は敵じゃない。
止めないといけない人だ。
数時間前、私の事務所でリザ・ヴェルネも、よく似た顔をしていた。
彼女は泣きながら飛び込んできたわけではない。
募集画面、通話履歴、送金記録、裏配信の切り抜き。証拠を机いっぱいに並べて、それでも両手の震えだけは隠せずにいた。
瞳孔は細く縦に割れ、首筋と手首に薄い鱗がある。焦るたび、言葉の切れ目で舌先が少しだけ覗いた。
『友だちが、高額の身体強化テストに応募したんです』
ユナ・ケイル。
最後の音声は、謝罪なのか予告なのか分からない調子で残されていた。
『リザ、怒らないでね。今回だけ。ほんとに今回だけだから』
『当たったら、あんたの店の違約金、私が払う』
『だから、帰ったら怒って』
リザは笑おうとして、失敗した。
『馬鹿でしょう。私の借りなんて、あの子が背負う話じゃないのに』
『その話、憲兵には?』
『相談しました。でも、成人が自分で応募した仕事で、今の証拠だけじゃ誘拐とは決められないって。店や客に話が広がったら、私もユナも居場所をなくします』
制度が間違っているとは言い切れない。
募集へ応募したのはユナ本人で、画面上の契約も残っている。動くには、危険を示すものが足りない。
しかも白律魔杖は、別区画の暴走事件へ出ていた。
正しい手順が追いつくまで、ユナが待ってくれる保証はない。
『ユナ、馬鹿なんです。でも、馬鹿だからって、怪物にされていい理由にはならないでしょう』
『……分かりました。できるところまで、私が見ます』
『本当に?』
『ただし、危ないと思ったら逃げてください。そこは約束してください』
横からカシェが言った。
『レンは、こういう時あんまり逃げない』
『カシェ。今、依頼人の前』
リザは泣きそうな顔で、少しだけ笑った。
私は、その顔にうなずいた。
うなずいた以上、ここで見なかったことにはできない。
男が看板を振り上げた。
路地の出口には、逃げ遅れた店員が一人。腰を抜かして、濡れた地面を後ずさっている。
「カシェ。人、見てない?」
「店員はあっち見てる。リザは中」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんを消して」
店員には逃げてもらうしかない。
リザは、店の人に頼んで二重扉の奥へ入れてある。
私は搬入口のさらに奥へ半歩下がった。
変身するところだけは、誰にも見られたくない。
カシェが胸元へ手を入れる。
小さな身体には入るはずのない箱が、ずるりと引き出された。
牙の並んだミミックの箱。
抱えているカシェではなく、こちらが本体だ。
「何が出るかな」
「本当に今それ言う?」
「今しか言えない」
「言わなくていいんだよ」
蓋が開いた。
中は暗く、底がない。
手順は覚えている。
でも、この瞬間だけは何度やっても慣れない。
私は箱へ手を入れた。
ぬるい膜が指にまとわりつく。奥で脈打つものが逃げ、爪先を舐めるような感触が走った。
「カシェ」
「かわいい」
「今のどこに、かわいい要素があったの」
指先に硬いものが当たった。
逃げるように転がるカプセルを掴み、引き抜く。
濡れた黒い殻の内側で、鈍い緑が脈打っていた。
「止める系?」
「寄せた」
「防御か拘束?」
「そこから先は、何が出るかな」
「二回目はいらない」
看板を支える金具が、路地へ落ちた。
もう時間がない。
私はカプセルを噛み割った。
硬い。
苦い。
その直後、熱い泥を飲み込んだみたいに喉が焼けた。
視界の端で、ミミックの箱が平たく畳まれる。黒い箱は私の腰へ吸いつき、輪郭の内側へポーチのように沈んだ。
ここからが、一番嫌だ。
自分で噛み割ったくせに、身体が私の許可を待たなくなる。
肩甲骨の位置が消えた。
背中の皮膚の下で、左右へ硬い板が育つ。肩が外へ押し広げられ、胸郭が持ち上がった。息を吸うたび、肋骨ではなく甲殻の内側が擦れる。
頭皮が引かれる。
濡れた髪が根元から束ねられ、額の上へ持ち上がった。髪の間を割って硬い芯が伸び、重さが首の前へ落ちる。
前腕が膨らんだ。
骨の周りへ黒い塊を詰められたように重くなり、指先の感覚が遠ざかる。代わりに、腕の外側で雨粒が弾ける位置まで分かった。
腰の左右では、硬い板が何枚も重なった。黒い皮膜が、その隙間から濡れたスカートの裾みたいに震える。
膝が逆へ折れた気がして、思わず壁へ手をつく。
折れてはいない。脚の重心が、人間だった時より前へ移っただけだ。
身体だけが、新しい立ち方を先に知っている。
「カシェ、これ――」
そう言ったつもりだった。
外へ出たのは、低い羽音と甲殻を擦る濁った鳴き声だった。
『聞こえてる』
カシェの声が、耳ではなく腰元から背骨へ響く。
『外には?』
『鳴いてる』
『やっぱり!』
『ベリルオオカブト。止める系、当たり』
『止めたいとは言った。カブトムシになりたいとは言ってない』
『かわいくてかっこいいよ』
『今はそれで納得できない』
視界が無数の小さな面へ割れた。
赤い非常灯も、青い看板も、水たまりの白い反射も、全部が細かく砕けている。
歪んだシャッターに、黒い女型の怪物が映った。
大型の複眼。
額から前へ伸びた太い角。
肩甲殻は襟を立てた外套のように開き、胸郭から絞られた腰へ黒い縫い目が走っている。腰甲は何層にも広がり、太腿だけは人間の線を残したまま、膝下で節のある虫脚へ変わっていた。
首元には、私の薔薇色のチョーカーを縫い込んだような細い線。
腰では、カシェのポーチが甲殻の隙間に口を開けている。
怪物だった。
カブトムシが硬くて力持ちなのは、前の世界で見た図鑑にも書いてあった気がする。
でも、自分の腕が盾になるとは書いていなかった。
『今日のレン、硬くてつやつや版』
『記録名をつけないで』
男が看板を投げた。
考えるより先に、脚が路面を蹴った。
重い。
なのに遅くない。
私は店員と看板の間へ滑り込み、両前腕を上げた。
衝撃。
魔導文字が砕け、赤い光の破片が雨の中へ散った。
腕は痺れた。
でも、折れていない。
『レン、後ろ』
店員が這って裏口へ逃げていく。
よかった。鳴き声が通じたのではなく、私が怖かっただけだとしても、今はそれでいい。
男が私を見た。
「ひ……」
怯えた声だった。
胸の奥が少し痛む。
分かる。でも、止める。
三本目の腕が男の身体を引きずって突っ込んできた。本人は足を踏ん張っているのに、増設腕の力が強すぎる。
私は角を下げた。
刺すためじゃない。受けるためだ。
黒い腕と角がぶつかった。
路面が割れる。
爪が石畳の隙間を掴み、太腿の奥へ力が集まった。腰甲が重なって鳴り、肩の甲殻がきしむ。
突進を止めた。
真正面から。
「っ、止まって……!」
外へは濁った咆哮しか出ない。
裏口まで逃げた店員が、壁の緊急通報板を叩いた。
「暴走者です! いや、二人――二体います! 黒い、角のあるやつが、もう一人を押さえつけて……!」
『アザレア第七歓楽区、通報内容を更新。暴走個体、複数の可能性――』
『レンも数に入った』
『聞こえてる』
『二体目』
『丁寧に言い直さなくていい!』
助けた人に通報された。
でも、あの店員から見れば当然だった。
人の言葉を話さない角の怪物が、男をシャッターへ押しつけようとしている。事情を知らなければ、私だって通報する。
増設腕が前腕の盾を殴った。
一回。二回。三回。
黒い甲殻へ白い傷が走る。
痛い。ちゃんと痛い。
けれど、人間の腕なら骨ごと飛んでいた。
『左。シャッター』
『分かった』
私は角の内側で増設腕を受け流した。
男の身体ではなく、腕だけをひしゃげたシャッターへ追い込む。
押し潰さない。
折らない。
逃がさない。
三本目の腕がシャッターの裂け目へ食い込んだ。
私は両前腕で挟み込み、体重を預ける。
額の角が上のネオン看板へ引っかかった。
『角』
『分かってる!』
首を引けば看板まで剥がれそうになる。
動けない私の前で、増設腕がまた暴れた。
カシェのポーチが開く。
くすんだ薔薇色の細い舌が伸び、男の皮膚ではなく、金属骨格の割れ目へ触れた。
『継ぎ足された分だけ取る』
『本人は傷つけない?』
『取らない。レンが嫌だから』
『そこは絶対でお願い』
『うん』
舌の先が、赤黒い光を糸のように引き出した。
増設腕が痙攣する。
男の口から長い息が漏れた。
「かえ……り……」
今度は、聞き間違えなかった。
帰りたい。
「大丈夫」
私の声は、やっぱり怪物の唸りにしかならなかった。
通報板の前で、店員がもう一度息を呑む音がした。
それでも、押さえる力だけは少しずつ緩めた。
薔薇色の糸が最後まで抜ける。
三本目の腕から力が消え、重い金属の塊として垂れ下がった。
男は膝から崩れた。
私は慌てて肩甲殻で受け、路面へ頭を打たせないよう寝かせる。
胸が上下している。
首筋にも脈がある。
助かった。
通報板から、派遣音声が重なった。
『負傷者一名、甲虫型未確認個体一体。通常憲兵隊および救護班を派遣します。白律魔杖は隣接区画へ対応中――』
『甲虫型未確認個体』
『復唱しないで』
『レンのこと』
『分かってるから急ぐの!』
『解除する?』
『する。今すぐ』
私は男を裏口の庇へ寄せ、搬入口の陰へ戻った。
角を看板から外すだけで、ぎぎ、と嫌な音がした。
腰のポーチが開く。
解除は変身より早い。
楽ではある。
気持ちよくはない。
背中の甲殻が皮膚の下へ沈む。
広かった肩が狭まり、胸郭が元の呼吸へ戻る。腰甲の重なりがほどけ、脚の関節が人間の位置へ引き戻された。
複眼の視界が一枚になる。
世界の光が、雑にひとつへまとまった。
最後に角の重さが消える。
なのに私は、まだ上の看板を避けるように首をすくめていた。
壁へ手をつく。
前腕が軽すぎる。
皮膚が薄い。背中が狭い。
いつもの身体へ戻っただけなのに、頼りなく感じた。
腰元がぬるりと開き、カシェが濡れた猫みたいに出てくる。
「今日のレン、硬かった」
「出てきて最初に言うことがそれ?」
「つやつやもしてた」
「増やさないで」
自分の声が出た。
それだけで、少しだけ息が楽になった。
上着は破れていない。袖口に黒い欠片がつき、首元のチョーカーが熱を持っているくらいだ。
裏口の二重扉が開いた。
先に店員が顔を出し、その後ろからリザが飛び出してくる。
縦に細い瞳孔が、倒れた男と、壊れた看板と、ずぶ濡れの私を順番に見た。
「レンさん……?」
「暴れていた人は止まりました。呼吸もあります」
「どうやって止めたんですか」
「……力仕事です」
「便利屋って、そういう仕事でしたっけ」
「たまにあります」
リザは納得していない。
当然だと思う。
けれど、問い詰めなかった。
今はそれだけで助かる。
通報板の前では、店員が管制へ必死に説明を続けていた。
「黒い怪物が男を壁に押さえつけて、それから……たぶん、倒したんです。食べてはいません。そこは見ました。でも、角があって、腕が盾みたいで……」
助けた、とは言われなかった。
襲った、とも言い切られなかった。
今の私に望める証言としては、それでも上等なのかもしれない。
カシェが私の後ろで、満足そうに手を振った。
私は余計な説明を始める前に、その靴を軽く踏む。
「いたい」
「今は黙ってて」
倒れた男のそばに、割れた端末が落ちていた。
私はハンカチ越しに拾う。
画面の半分は死んでいる。
残っていたのは、高額短期、身体強化テスト、危険なし、一発逆転――そんな言葉ばかりだった。
リザが私の肩越しに画面を見る。
「同じです。ユナが見ていた募集と」
彼女の声が震えた。
募集タグと識別コードは一致している。
けれど、位置情報は途中で千切れ、参加者名も黒い欠損に潰されていた。
画面のいちばん下で、消し残された文字だけが明滅する。
【次枠、搬――】
そこから先は読めなかった。
「場所は?」
「今は分かりません。壊れすぎています」
「直せますか」
「残っているものがあれば。事務所へ持ち帰って、拾えるところまで拾います」
すぐに追える場所はない。
今夜のうちにユナへ届くという約束もできない。
それでも、これは昨日までなかった手掛かりだ。
私は割れた端末を上着の内側へ入れた。
遠くで救護車の音が近づいてくる。
通報された二体目の怪物は、もうここにはいない。
残ったのは、助かった男と、壊れた端末。
そして、次があるという文字だけだった。
ユナがその「次」に並んでいない保証は、どこにもなかった。




