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大家さん、その部屋だけは笑わせないでください  作者: あーちゃん


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9/10

最後の住人会議

笑福荘に持ち上がった取り壊しの話。

住人たちは、ただ悲しむだけではなく、それぞれにできることを探し始める。

笑って、迷って、少し泣きながら、最後になるかもしれない住人会議が開かれる。

 翌朝の笑福荘は、いつもより少しだけ早く動き出していた。


 雨上がりの空は薄い水色で、屋根からはまだ雫が落ちていた。

 階段の五郎は湿気を含んだ音で「ぐえ……」と鳴き、洗濯機の五郎は何もしていないのに、どこか不満そうに見えた。


 こまちはノートを抱えて、共同台所へ向かった。


 昨日、だんごから聞かされた取り壊しの話は、眠っている間も胸の奥に残っていた。

 夢にまで出てきた。

 夢の中で、笑福荘は巨大なプリンになっていて、だんごが「賞味期限が今日までなの」と言いながらスプーンを持っていた。


 目覚めた瞬間、こまちは思った。


 どんな夢だ。


 でも、笑えなかった。


 笑福荘がなくなるかもしれない。

 その現実は、昨日よりも少し重くなっていた。


 共同台所には、すでに全員が集まっていた。


 だんごはテーブルの真ん中に書類を並べている。

 すずめは署名用紙を何枚も作っている。

 ぽん太は電卓とノートを広げ、真剣な顔で数字を書いている。

 ちくわは味噌汁を作りながら、スマホを横に置いていた。


「おはようございます」


 こまちが言うと、みんなが顔を上げた。


「おはよう、こまちちゃん」


 だんごが笑った。

 いつもの笑顔だった。

 でも、こまちはその奥に少し無理があることに気づいた。


 すずめが元気よく手を挙げる。


「こまちさん! 署名用紙、作りました!」


 紙には大きな文字でこう書かれていた。


『笑福荘を残してください署名』


 その下に、すずめの字で小さく、


『誤配達は減らします』


 と書かれている。


「すずめさん」


「はい!」


「下の一文、消しましょう」


「でも、近所の人への誠意として」


「取り壊しと誤配達は関係ないです」


「関係なくても、反省は大事かなって」


「反省は別紙にしましょう」


 すずめは素直にうなずいた。


 ぽん太はノートを見ながら言った。


「僕は修理費節約案を考えました」


「安全に関わるところは節約しないでくださいね」


 こまちが先に言うと、ぽん太は少し残念そうにした。


「先に釘を刺されました」


「刺します」


「では、安全を守りつつ節約する案です。まず、住人たちでできる掃除や片付けをする。業者さんに頼む前に、不要なものを整理することで見積もりを下げる」


「それはいいですね」


 こまちは少し驚いた。


「まともです」


「僕も成長しています」


「次は?」


「洗濯機の五郎に励ましの言葉をかけ、寿命を延ばす」


「急に戻りましたね」


 ちくわが鍋をかき混ぜながら言った。


「機械は励ましでは直らない」


「ちくわさんが言うと説得力ありますね」


「音を聞け」


 ぽん太はノートに書き込んだ。


『五郎は励ましだけでは不可。音を聞く』


 こまちは突っ込む気力を少し失った。


 ちくわはスマホを見た。


「大工に連絡した」


「味噌屋さんの倉庫を直した人ですか?」


 だんごが聞く。


「そうだ。古い木造を見るのが得意らしい。明後日、見に来る」


「本当に?」


 だんごの目が少し明るくなった。


「ありがとう、ちくわちゃん」


「味噌屋の紹介だ」


「味噌に感謝ね」


「そうだ」


 すずめが両手を合わせた。


「味噌様……」


「宗教にしないでください」


 少しだけ笑いが起きた。


 それだけで、共同台所の空気がやわらぐ。


 こまちはノートを開いた。


「私は、笑福荘の文章を書きます」


 だんごがこまちを見る。


「昨日言ってくれたやつね」


「はい。笑福荘がどんな場所なのか、親戚の方にも、近所の人にも、読んでもらえるように。小説というより、紹介文みたいなものになるかもしれません」


「こまちちゃんらしく書いて」


「私らしく?」


「うん。変に立派に書かなくていいわ。笑福荘は立派な場所じゃないもの」


「大家さんが言いますか」


 だんごは笑った。


「古いし、騒がしいし、階段は鳴くし、洗濯機も鳴くし、住人は変だし」


「否定できないです」


「でも、私は好きなの」


 その言葉に、こまちはペンを止めた。


「だから、こまちちゃんが見た笑福荘を書いてくれたら嬉しいわ」


 こまちはうなずいた。


「書きます」


 その日の住人会議は、今までで一番真面目だった。


 ただし、真面目だけでは終わらないのが笑福荘だった。


 まず、署名活動の担当を決めた。


 すずめは近所の人と顔見知りが多いため、署名集めの先頭に立つことになった。

 しかし、最初の練習で問題が起きた。


「こんにちは! 笑福荘を壊さないでください! あと、私は誤配達を減らします!」


「すずめさん、やっぱりそこ入ってます」


「だめですか?」


「だめです」


 だんごが見本を見せる。


「いつもお世話になっております。笑福荘のことで、少しお願いがありまして――」


「丁寧です!」


 すずめが感動する。


「大人です!」


「すずめちゃんも大人よ」


「でも、だんごさんは大人の中の大人です!」


「それ、年齢を感じるわね」


 ぽん太は署名活動に同行することになった。

 理由は、最近働き始めたことで少しだけ社会性が上がったからだ。


「僕、社会性上がってますか?」


「少しね」


 だんごが言う。


「一昨日よりは」


 こまちも言う。


「基準が低い」


 ぽん太は胸を張った。


「でも、上がっているならいいです」


 次に、建物の整理について話し合った。


 笑福荘には、長年放置されている物がいくつもあった。

 古い植木鉢。

 壊れた傘。

 誰のものか分からない段ボール。

 なぜか玄関脇に置かれている木彫りの熊。


「この熊は?」


 こまちが聞くと、だんごは首を傾げた。


「気づいた時にはいたのよ」


「怖いですね」


「笑福荘の守り神かしら」


「木彫りの熊に責任を背負わせないでください」


 ちくわが熊を見て言った。


「鮭をくわえていない」


「そこですか」


「未完成だ」


「そういう問題ですか」


 不要な物を整理し、危険な箇所を確認し、見積もりに備える。

 ぽん太は意外にも役に立った。


「この傘、骨が折れてます。危ないので処分候補です」


「いいですね」


「この段ボール、中身は古い雑誌です。売れるかもしれません」


「さすが節約の人」


「この熊は……」


「守り神候補です」


「処分保留ですね」


 すずめは署名用紙を持って、近所へ出ていった。

 ぽん太も一緒に行く。

 出発前、二人は玄関で妙に緊張していた。


「こまちさん、私、ちゃんとお願いできるでしょうか」


「できますよ」


「もし噛んだら?」


「言い直せばいいです」


「もし間違えて違うアパートの署名を集めたら?」


「それは気をつけてください」


 ぽん太は真剣な顔で言った。


「僕は、労働者として社会に出た経験を生かします」


「まだ数日ですよね」


「数日でも社会です」


「それはそうかもしれません」


 だんごが二人に頭を下げた。


「無理しないでね。ありがとう」


 すずめは大きくうなずいた。


「笑福荘のためです!」


 ぽん太も続けた。


「家賃三万円のためです!」


「そこも大事だけど、言い方」


 二人が出ていくと、共同台所は少し静かになった。


 こまちはだんごと一緒に、書類を整理した。

 建物の修理履歴。

 土地の名義に関する書類。

 親戚からの手紙。


 そこには、だんごが一人で抱えてきた現実が詰まっていた。


「大家さん」


「なあに」


「一人で、ずっと考えてたんですか」


 だんごは手を止めた。


「まあね」


「どうして、もっと早く言わなかったんですか」


「言ったら、みんな心配するでしょ」


「します」


「だからよ」


 こまちは眉を寄せた。


「大家さん、自分が近づくのは得意なのに、自分のことは遠ざけますよね」


 だんごは目を丸くした。


「あら、言うわね」


「思ったので」


「こまちちゃんに言われるとはねえ」


「私も人のこと言えないですけど」


 二人は少し笑った。


 だんごは書類を撫でるように整えた。


「ここを守りたいって気持ちはあるの。でも、みんなの安全や生活も守らないといけない。古い建物に住み続けることが、本当にいいことなのか。私のわがままじゃないのか。ずっと考えてた」


「わがままじゃないと思います」


「そう言ってもらえるのは嬉しいわ。でも、現実は現実だから」


 こまちは黙った。


 だんごは明るくて、お節介で、何でも笑いに変える人だ。

 でも、その笑顔の裏で、ずっと一人で悩んでいた。


 こまちは胸が痛くなった。


 自分は、ここに来て何度も助けられた。

 だんごの近すぎる優しさに、最初は戸惑った。

 けれど、その優しさがあったから、こまちは少しずつ笑福荘に馴染めた。


 今度は、自分も何か返したい。


「文章、今日中に一度書きます」


 こまちは言った。


「無理しないでね」


「無理じゃないです。書きたいんです」


 だんごは、少しだけ泣きそうな顔をして笑った。


「ありがとう」


 午後。


 こまちは部屋に戻り、パソコンを開いた。


 何を書けばいいのか、最初は分からなかった。

 笑福荘を残してください。

 そう頼むだけなら簡単だ。

 でも、それだけでは足りない気がした。


 この場所の何が大切なのか。

 どうして残したいのか。

 ただ古いアパートだからではない。

 ただ家賃が安いからでもない。


 こまちは、最初に笑福荘へ来た日のことを思い出した。


 大根を持っただんご。

 味噌汁をくれたちくわ。

 節約研究家のぽん太。

 元気すぎるすずめ。

 階段の五郎。


 最初は、全部が変だった。

 逃げ出したいくらい騒がしかった。


 でも、その騒がしさが、いつの間にか自分を救っていた。


 こまちは書き始めた。


『笑福荘は、古いアパートです。

 階段は鳴きます。

 洗濯機も鳴きます。

 共同冷蔵庫のプリンには、必ず名前を書かなければなりません。』


 書いていて、少し笑った。


『けれど、ここには「おかえり」と言う人がいます。

 泣いた日に味噌汁を出してくれる人がいます。

 失敗した人を笑いながら、ちゃんと隣に座ってくれる人がいます。』


 指が止まらなかった。


『笑福荘は、立派な建物ではありません。

 でも、誰かが一人で抱え込まないための場所です。

 誰かの小さな楽しみを、みんなで大事にできる場所です。

 プリンひとつで裁判が開かれるほど、くだらなくて温かい場所です。』


 書きながら、こまちは泣きそうになった。


 自分は、こんなにもここを見ていたのだ。

 こんなにも、ここで受け取っていたのだ。


 夕方、すずめとぽん太が帰ってきた。


「ただいまー!」


 すずめの声が響く。


「おかえり!」


 だんごがすぐに返す。


 こまちも部屋を出た。


「どうでした?」


 すずめは署名用紙を掲げた。


「集まりました!」


 思ったより多くの名前が書かれていた。


 近所の八百屋。

 パン屋。

 月待ち珈琲の店主。

 その常連さんらしき女性。

 いつもすずめが誤配達してしまう隣家の人。


「すごい」


 こまちは素直に言った。


 すずめは目を潤ませた。


「みんな、笑福荘のこと知ってました。だんごさんに煮物もらったことがあるとか、ちくわさんの味噌汁を分けてもらったことがあるとか、ぽん太さんがスーパーで半額シールを待ってるのを見たことがあるとか」


「最後は何か違いますね」


 ぽん太は真剣に言った。


「地域に根づいています」


「半額待ちで?」


「はい」


 だんごは署名用紙を見て、何も言わなかった。


 ただ、深く頭を下げた。


「ありがとう」


 その声は震えていた。


 夜。


 最後の住人会議が開かれた。


 最後といっても、今日で本当に終わるわけではない。

 でも、だんごの親戚に話をする前の、大事な会議だった。


 テーブルの上には、署名用紙。

 ちくわが呼んだ大工の予定。

 ぽん太の整理リスト。

 こまちの文章。


 だんごは、こまちの文章を読んだ。


 途中で何度も笑った。

 プリン裁判のくだりで、すずめが吹き出した。

 ぽん太の節約失敗のところで、ぽん太が「僕の扱いが現実的」とつぶやいた。

 ちくわの味噌汁のところで、ちくわは黙って味噌汁をよそった。


 最後まで読み終えた時、共同台所は静かになった。


 だんごは紙を胸に抱いた。


「こまちちゃん」


「はい」


「これ、親戚に見せてもいい?」


「もちろんです」


「ありがとう」


 だんごは涙を拭いた。


「私、明日話してくるわ。署名も、見積もりの予定も、みんなの気持ちも、ちゃんと持っていく」


 すずめが言った。


「私たちも行きます!」


「いいえ」


 だんごは首を振った。


「まずは私が話す。大家だから」


「でも」


「大丈夫。みんなが一緒にいるって分かったから、一人でも行ける」


 その言葉に、こまちは胸が熱くなった。


 一人でも行ける。

 それは、一人ぼっちという意味ではない。

 帰る場所があるから、誰かが待っているから、一人で向かえるという意味だった。


 ぽん太が手を挙げた。


「では、僕たちは待機ですね」


「そうね」


「待機中の食費は?」


「普通に食べなさい」


「はい」


 すずめが涙を拭きながら笑った。


「私、明日も署名集めます」


「無理しないでね」


「大丈夫です。今度こそ誤配達しません」


「署名は配達物じゃないです」


 ちくわが言った。


「明日は根菜の味噌汁を作る」


「こういう日だからですか?」


 こまちが聞くと、ちくわはうなずいた。


「そうだ」


 会議が終わったあと、こまちはしばらく共同台所に残った。


 皆が少しずつ片付けていく。

 すずめは署名用紙を丁寧に重ね、ぽん太は電卓をしまい、ちくわは鍋を洗う。

 だんごは書類を鞄に入れていた。


 何でもない光景だった。

 でも、こまちはこの光景を忘れたくないと思った。


「こまちちゃん」


 だんごが声をかけた。


「はい」


「ここに来てくれて、ありがとうね」


 突然の言葉に、こまちは戸惑った。


「まだ、何も終わってませんよ」


「うん。でも、言いたくなったの」


 だんごは笑った。


「最初は、すぐ出ていくかと思ってた」


「私も思ってました」


「正直ねえ」


「でも……出ていかなくてよかったです」


 こまちがそう言うと、だんごの目がやわらかくなった。


「そう言ってもらえるなら、笑福荘も喜んでるわ」


 その時、階段の五郎が誰も踏んでいないのに「ぎし」と鳴った。


 こまちは目を丸くした。


「今、鳴りました?」


「喜んでるのよ」


「本当に?」


 ちくわが廊下を見て言った。


「湿気だ」


「現実的」


 みんなが笑った。


 その夜、こまちは部屋に戻り、パソコンを開いた。


『第9ページ 最後の住人会議』


 今日のことを書き始める。


『最後になるかもしれない会議は、思ったより騒がしかった。

 署名用紙には誤配達の反省が混ざり、修理費の話には洗濯機への励ましが混ざり、味噌汁の湯気が書類の上を揺れていた。』


 こまちは笑いながら、少し泣いた。


『それでも、誰も諦めていなかった。

 古いアパートを守る方法なんて、簡単には見つからない。

 けれど、誰かが「嫌だ」と言い、誰かが「やってみよう」と言い、誰かが味噌汁を作る。

 それだけで、人は少し前に進める。』


 書き終えた頃、夜は深くなっていた。


 外は静かだった。

 でも、壁の向こうにはちくわがいる。

 一階にはだんごがいる。

 別の部屋には、すずめとぽん太がいる。


 こまちは、初めてこの部屋で「一人じゃない」と思った。


 翌日、だんごは親戚に会いに行く。


 笑福荘が残るのか。

 取り壊されるのか。

 まだ何も分からない。


 でも、こまちは決めていた。


 どんな結果になっても、自分はこの場所で受け取ったものを書く。

 笑福荘が教えてくれた「おかえり」の温度を、ちゃんと残す。


 そして、いつか胸を張って言いたい。


 ここが、私の帰る場所だったと。


 こまちは布団に入り、目を閉じた。


 明日の朝、だんごの「生きてるー?」が聞こえるかもしれない。

 すずめが元気に走る音がするかもしれない。

 ぽん太が時給に感謝しているかもしれない。

 ちくわが味噌汁を作っているかもしれない。


 その全部を、当たり前だと思わないようにしよう。


 そう思いながら、こまちは眠りについた。


 そして次の日。

 笑福荘の運命を少しだけ変える知らせが、だんごの口から告げられることになる。

第9ページでは、笑福荘を守るために住人たちがそれぞれ動き出しました。

すずめは署名を集め、ぽん太は整理と節約案を考え、ちくわは大工に連絡し、こまちは笑福荘の文章を書きます。

最後になるかもしれない住人会議を通して、こまちはこの場所が自分にとって本当に大切な居場所になっていたことを実感しました。

次回はいよいよ最終ページ「ただいまが聞こえる家」です。

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