笑福荘、取り壊し危機
すずめの誤配達騒動も落ち着き、笑福荘にはいつもの騒がしい日常が戻っていた。
けれど、その日常は突然、終わりを告げる知らせによって揺らぎ始める。
家賃三万円の古いアパートに、取り壊しの話が持ち上がったのだ。
笑福荘に、少しだけ平和な日々が戻っていた。
すずめは、例の誤配達以来、配達前に宛名を三回確認するようになった。
一回目は仕事として。
二回目は反省として。
三回目は恋の傷を忘れないためらしい。
「でも、最近は間違えてません!」
すずめは胸を張った。
「それが普通です」
こまちが言うと、すずめは満面の笑みで答えた。
「普通って、すごいですね!」
ぽん太は、品出しのアルバイトに採用された。
初出勤の日、彼は共同台所で深々と頭を下げた。
「皆さん、今まで無職の僕をありがとうございました」
「引退会見みたいですね」
こまちが言うと、ぽん太は真剣な顔で続けた。
「これからは、時給と共に生きます」
「言い方が重いわねえ」
だんごが笑った。
ちくわはぽん太に味噌汁を差し出した。
「働く前に飲め」
「ありがとうございます。労働の味がします」
「まだ働いてません」
ぽん太の初出勤は、思ったより無事に終わった。
帰ってきた彼は、疲れ切った顔で共同台所に現れたが、その目は少しだけ誇らしげだった。
「棚に商品を並べました」
「お疲れさまです」
「商品は、整列すると美しいですね」
「新しい発見ですね」
「あと、時給は本当に発生するらしいです」
「信じてなかったんですか」
すずめは配達を頑張り、ぽん太は働き始め、ちくわは相変わらず味噌汁を作り、だんごは腰の病院を予約した。
こまちは、毎日少しずつ小説を書いた。
投稿サイトの数字は大きく変わらない。
落選の痛みも完全には消えていない。
それでも、書ける日が増えた。
笑福荘の出来事は、毎日どこかおかしくて、どこか温かかった。
大根を煮すぎただんご。
コーヒーを濃くしすぎたぽん太。
配達先で「お世話になっております」を噛みすぎて「お世話になっておりましゅ」と言ったすずめ。
味噌汁の具に悩みすぎて三十分無言だったちくわ。
こまちは、それらをノートに書き留めた。
いつか全部、小説にしたいと思った。
けれど、そんな日常は、突然揺らいだ。
その日は、朝から雨だった。
細い雨が、笑福荘の屋根をぽつぽつと叩いていた。
廊下には少し湿った木の匂いが漂っている。
階段の五郎は、雨の日になるといつもより重い音を出す。
「ぐえ……」
「五郎さん、今日しんどそうですね」
こまちが階段を下りながら言うと、ちくわが下から答えた。
「湿気だ」
「洗濯物も乾かなそうですね」
「味噌も湿気に弱い」
「また味噌基準ですね」
共同台所では、だんごが珍しく黙っていた。
いつもなら、朝から大根だの味噌汁だの誰かの生存確認だのと騒いでいるのに、その日は台所の椅子に座り、一枚の封筒を見つめていた。
こまちは足を止めた。
「大家さん?」
だんごは顔を上げた。
「あら、こまちちゃん。おはよう」
「おはようございます。どうしたんですか」
「ううん。ちょっとね」
だんごは笑った。
でも、その笑顔はいつもより薄かった。
こまちは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
だんごが「ちょっとね」で済ませる時ほど、たいていちょっとではない。
しばらくして、すずめが雨に濡れた帽子を押さえながら入ってきた。
「おはようございます! 今日は雨なので配達が大変です!」
「滑らないようにね」
だんごが言う。
「はい! 今日は荷物も恋も滑らせません!」
「恋はもう休ませてあげてください」
こまちが突っ込むと、すずめは笑った。
ぽん太も出勤前の制服姿で現れた。
「おはようございます。今日は雨なので、お客様が少ない可能性があります。つまり、仕事が少し楽かもしれません」
「そういうこと言ってると忙しくなるわよ」
だんごが言った。
ちくわは鍋の前で味噌汁をよそっている。
「今日は里芋」
「雨の日っぽいですね」
こまちが言うと、ちくわはうなずいた。
「雨の日は、根菜がいい」
いつも通りの朝。
そう思えたのは、ほんの数分だけだった。
だんごが、封筒をテーブルの真ん中に置いた。
「みんな、夜に少し話があるの」
すずめが首を傾げた。
「住人会議ですか?」
「そうね。住人会議」
ぽん太が少し身構える。
「プリンですか?」
「違うわ」
「洗濯機ですか?」
「違う」
「大根ですか?」
「違うわよ」
だんごは、少しだけ息を吸った。
「笑福荘のこと」
その言葉だけで、共同台所の空気が変わった。
こまちは何となく、聞きたくないと思った。
夜。
雨はまだ降っていた。
共同台所には、全員が集まっていた。
だんご。
すずめ。
ぽん太。
ちくわ。
こまち。
いつもの住人会議と同じ顔ぶれ。
けれど、誰もふざけていなかった。
テーブルの上には、朝見ただんごの封筒が置かれている。
だんごはしばらく黙っていた。
それから、いつもより小さな声で言った。
「笑福荘を、取り壊す話が出ています」
音が消えたような気がした。
外の雨音だけが聞こえる。
ぽつぽつ、ぽつぽつ。
古い屋根を叩く音。
すずめが最初に口を開いた。
「取り壊しって……このアパートをですか?」
「そう」
だんごはうなずいた。
「建物が古くなってきていてね。修理しないといけないところが増えているの。階段も、屋根も、水回りも。五郎も、いつまで動いてくれるか分からない」
洗濯機の五郎なのか、階段の五郎なのか分からなかった。
でも今は誰も突っ込まなかった。
「親戚からも言われていたの。もう土地を売った方がいいんじゃないかって」
ぽん太が震える声で言った。
「家賃は……」
「すぐにどうこうじゃないわ。でも、話は進んでいる」
すずめは椅子から立ち上がった。
「嫌です!」
その声は、いつもの元気とは違っていた。
「私、ここが好きです。帰ってきたら、だんごさんが『おかえり』って言ってくれて、こまちさんが突っ込んでくれて、ぽん太さんが変な節約してて、ちくわさんが味噌汁作ってて……それがなくなるなんて、嫌です」
ぽん太もうつむいた。
「僕も、やっと働き始めたばかりで……ここに帰るのが、少し楽しみになってきたところです」
ちくわは黙っていた。
でも、鍋の横に置いた手に力が入っているのが見えた。
こまちは何も言えなかった。
笑福荘に来た時、自分は静かに暮らせればそれでいいと思っていた。
家賃が安ければ、どこでもよかった。
住人とは関わらず、一人で小説を書ければよかった。
それなのに今、胸が苦しい。
取り壊し。
この場所がなくなる。
階段の五郎が鳴ることも。
共同冷蔵庫に名前を書いたプリンが並ぶことも。
洗濯機前で人生相談所が開かれることも。
隣から味噌汁の声が届くことも。
だんごの「生きてるー?」で朝起こされることも。
全部、なくなるかもしれない。
「大家さんは……」
こまちはようやく声を出した。
「大家さんは、どうしたいんですか」
だんごは、少し困ったように笑った。
「私はね、残せるなら残したいわ」
「なら」
「でも、気持ちだけでは建物は直せないのよ」
その言葉は重かった。
だんごは続けた。
「修理にはお金がかかる。安全のこともある。古い建物にみんなを住ませ続けて、何かあったら困るでしょう」
誰も何も言えなかった。
だんごは笑福荘を大事にしている。
それは誰よりも分かっている。
だからこそ、簡単に「残したい」とだけ言えないのだ。
すずめがぽろぽろ泣き始めた。
「私、もっと気をつけて配達します。誤配達もしないようにします。だから、笑福荘なくならないでください」
「すずめちゃん、それは関係ないわ」
だんごが優しく言う。
「でも、何かしたいんです」
ぽん太も言った。
「僕、家賃を少し多く払います」
「ぽん太ちゃん、まだ初給料も出てないでしょ」
「でも、時給があります」
「気持ちだけ受け取るわ」
ちくわが静かに口を開いた。
「修理に、どれくらいかかる」
だんごは首を振った。
「ちゃんと見積もりを取らないと分からない。でも、かなりかかると思う」
「土地を売れと言っているのは誰だ」
「親戚。私一人の判断だけでは難しいの」
「説得できるか」
だんごは黙った。
こまちは、テーブルの上の封筒を見つめた。
そこには、建物調査の案内と、土地売却に関する書類が入っているらしかった。
現実だ。
プリン裁判のように、笑って終われる話ではない。
ぽん太の節約失敗のように、煮物を食べて励ませる話でもない。
笑福荘が、本当になくなるかもしれない。
こまちは、自分の胸の奥にある感情に驚いていた。
嫌だ。
はっきり、そう思った。
こんなにうるさい場所なのに。
こんなに面倒な人たちばかりなのに。
静かな暮らしを壊されてばかりなのに。
ここがなくなるのは、嫌だ。
「何か、できることはないんですか」
こまちは言った。
だんごが顔を上げる。
「こまちちゃん」
「お金を集めるとか、修理できるところを探すとか、親戚の方に話すとか。何か」
「簡単じゃないわよ」
「分かってます」
こまちは、自分でも驚くほど強い声で言っていた。
「でも、何もしないでなくなるのを待つのは嫌です」
共同台所が静かになった。
だんごは、こまちをじっと見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「最初は、静かに暮らしたいって言ってたのにね」
「今でも静かに暮らしたいです」
「そう?」
「はい。でも……」
こまちは言葉を探した。
「静かじゃなくても、ここがいいと思ってしまったので」
すずめが涙を拭きながら笑った。
「こまちさん……」
ぽん太が感動した顔で言った。
「つまり、騒音に勝ちましたね」
「そういうことではありません」
ちくわが言った。
「味噌汁の力だ」
「それだけでもありません」
少しだけ、みんなが笑った。
重たい空気の中に、小さな笑いが戻る。
だんごは目元を押さえた。
「まったく、困った住人たちね」
「大家さんが集めたんですよ」
こまちが言うと、だんごは笑った。
「そうね」
その夜の住人会議は、すぐには終わらなかった。
まず、現状を確認した。
笑福荘は古い。
修理が必要な場所は多い。
土地を売りたい親戚がいる。
だんご一人では決められない。
取り壊しがすぐ明日というわけではないが、このままでは遠くない未来に決まってしまうかもしれない。
「署名を集めるのはどうですか!」
すずめが言った。
「近所の人に、笑福荘を残してほしいって」
「近所の人、笑福荘のこと知ってるんですか?」
こまちが聞く。
「私がよく誤配達するので知ってます!」
「理由がよくないですね」
「でも、顔見知りは多いです!」
ぽん太が手を挙げる。
「僕は、修理費節約案を考えます」
「安全に関わるところは節約しないでください」
「分かっています。まず、五郎を励ますところから」
「洗濯機は励ましても直りません」
ちくわは静かに言った。
「古い家に詳しい人を探す」
「知り合いがいるんですか?」
だんごが聞く。
「味噌屋の倉庫を直した大工がいる」
「味噌経由で人脈が」
こまちは少し考えていた。
自分にできること。
お金はない。
建物の修理も分からない。
親戚を説得する力もない。
でも、書くことならできる。
「私、笑福荘のことを書きます」
こまちは言った。
全員がこまちを見る。
「ここがどういう場所なのか。どんな人たちが住んでいて、どんな毎日があって、どれだけくだらなくて、どれだけ温かいか。小説でも、文章でも、何でも」
「こまちちゃん……」
だんごがつぶやく。
「それで何か変わるかは分かりません。でも、ここがただの古いアパートじゃないって、誰かに伝えたいです」
ぽん太がうなずいた。
「僕、登場しますか?」
「します」
「かっこよく?」
「節約に失敗する人として」
「現実に忠実ですね」
すずめが手を挙げる。
「私は?」
「恋の誤配達をする人として」
「もう少し可愛くお願いします!」
ちくわが言った。
「俺は味噌汁でいい」
「人間として書きます」
だんごが笑った。
でも、その目には涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
その言葉は、とても小さかった。
こまちは首を振った。
「まだ何もできてません」
「でも、何かしようとしてくれてる」
雨は夜遅くまで降り続いた。
会議が終わったあと、こまちは部屋に戻った。
いつもの部屋。
六畳一間。
隣の壁。
小さな机。
窓の外の暗い雨。
何も特別ではない。
でも、今はこの部屋が、少しだけ大切に見えた。
ここで書いた。
ここで落ち込んだ。
ここで味噌汁を飲んで泣いた。
ここで笑福荘の人たちの声を聞いた。
なくなるかもしれないと思った途端、何でもないものが急に愛おしくなる。
こまちはパソコンを開いた。
『第8ページ 笑福荘、取り壊し危機』
タイトルを打つ手が、少し震えた。
書かなければ。
今の気持ちを、残さなければ。
こまちはゆっくり書き始めた。
『古いアパートは、ただ古いだけではなかった。
そこには、誰かの「おかえり」が染み込んでいた。
プリンをめぐる裁判も、洗濯機前の人生相談も、味噌汁の湯気も、全部が壁や床や階段の音に混ざっていた。』
涙が出そうになった。
でも、こまちは書いた。
『家は、建物だけではない。
でも、建物がなくなれば、そこで生まれた声の居場所も少し変わってしまう。
だから彼女は初めて、失いたくないと思った。
静かではないこの場所を。
面倒くさいこの人たちを。
自分を少しずつ変えてくれた、家賃三万円の古いアパートを。』
書きながら、こまちは気づいた。
自分はもう、笑福荘の外側の人間ではない。
ここがなくなると聞いて苦しくなるくらいには、ここにいる。
だんごの近さも、すずめの明るさも、ぽん太の変な節約も、ちくわの味噌汁も、いつの間にか自分の日常になっていた。
夜遅く、隣の壁から声がした。
「味噌汁、いるか」
ちくわだった。
こまちは少し笑った。
「今日は大丈夫です」
「そうか」
少し間があって、ちくわが言った。
「でも、明日は作る」
「はい」
「根菜多め」
「雨の日だからですか」
「こういう日だからだ」
こまちは目を閉じた。
「ありがとうございます」
壁の向こうは、それ以上何も言わなかった。
翌朝。
雨は上がっていた。
共同台所に行くと、だんごがいつものように大根を切っていた。
すずめは署名用紙を作ると言って紙を広げ、ぽん太は修理費節約案を書き出し、ちくわは味噌屋の大工に連絡すると言った。
こまちは、ノートを持って席についた。
「私も、書きます」
だんごが笑った。
「じゃあ、今日は最後の住人会議じゃなくて、始まりの住人会議ね」
こまちはその言葉を聞きながら、ノートの端に小さく書いた。
『第9ページ 最後の住人会議』
まだ、最後にはしたくない。
でも、もし本当に最後になるなら、悔いのないように。
笑福荘を守るための会議が、今、始まろうとしていた。
第8ページでは、笑福荘に取り壊しの話が持ち上がりました。
いつも騒がしくてくだらない日常が、実はこまちにとって大切な居場所になっていたことが明らかになります。
住人たちは笑福荘を守るため、それぞれにできることを探し始めました。
次回は、皆で本気になって笑福荘を守る方法を考える「最後の住人会議」です。




