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大家さん、その部屋だけは笑わせないでください  作者: あーちゃん


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10/10

ただいまが聞こえる家

前書きコピー欄


笑福荘を守るために、住人たちはそれぞれ動き出した。

だんごは親戚と話し合い、こまちは笑福荘への想いを文章にした。

最終ページでは、こまちがこの騒がしくて温かい場所を、自分の居場所だと認めていく。


本文コピー欄


 翌朝、こまちはいつもより早く目を覚ました。

 まだ外は薄暗く、窓の向こうの空は青と灰色の間みたいな色をしていた。

 笑福荘の廊下は静かだった。

 だんごの「生きてるー?」も、すずめの走る音も、ぽん太の独り言も、ちくわの鍋の音も聞こえない。

 静かな朝。

 こまちが最初に望んでいたものだった。

 けれど今は、その静けさが少し不安だった。

「……静かすぎる」

 こまちは布団から起き上がり、窓を開けた。

 雨上がりの空気が入ってくる。

 少し冷たくて、少し土の匂いがした。

 今日は、だんごが親戚に会いに行く日だった。

 笑福荘を残せるかもしれない。

 でも、だめかもしれない。

 修理費の問題もある。

 安全の問題もある。

 土地を売りたい人の考えもある。

 こまちたちは、昨日できることをした。

 すずめは署名を集めた。

 ぽん太は整理リストを作った。

 ちくわは大工に連絡した。

 こまちは文章を書いた。

 それでも、結果はまだ分からない。

 こまちは机の上に置いた原稿を見た。

『笑福荘は、古いアパートです。

 けれど、ここには「おかえり」と言う人がいます。』

 自分で書いた文章なのに、読み返すたび胸が少し熱くなる。

 笑福荘に来たばかりの自分なら、こんな文章は書けなかった。

 家なんて、眠る場所。

 部屋なんて、荷物を置く場所。

 誰かと関わることは、面倒なこと。

 そう思っていた。

 でも今は違う。

 家は、ただ屋根と壁があるだけではない。

 帰ってきた時に、誰かの声が聞こえる場所。

 泣いた夜に、味噌汁の湯気が届く場所。

 失敗しても、笑いながら拾ってくれる場所。

 こまちにとって、笑福荘はいつの間にか、そういう場所になっていた。

 午前九時。

 共同台所に住人たちが集まった。

 だんごはいつもよりきちんとした服を着ていた。

 割烹着ではなく、落ち着いた色のカーディガン。

 けれど手には、なぜか小さな大根のキーホルダーがついた鞄を持っている。

「大家さん、それ持っていくんですか」

 こまちが聞くと、だんごは笑った。

「お守りよ」

「大根が?」

「大根は根を張るでしょ。笑福荘も根を張れますようにって」

「ちょっといい話に聞こえるのが悔しいです」

 すずめは署名用紙を両手で差し出した。

「だんごさん、これ、お願いします!」

「ありがとう」

 ぽん太は整理リストを渡した。

「これは、修理前に住人で片付けられるものの一覧です。木彫りの熊は保留です」

「まだ保留なのね」

「守り神候補なので」

 ちくわは小さな包みを渡した。

「味噌玉だ」

「味噌玉?」

「お湯を入れれば味噌汁になる」

 だんごは包みを見つめ、少し笑った。

「ありがとう。心強いわ」

 最後に、こまちは文章を渡した。

「これ、昨日の」

 だんごは丁寧に受け取った。

「持っていくわね」

「はい」

「こまちちゃん」

「はい」

「書いてくれてありがとう」

 こまちは首を振った。

「私も、残したかったので」

 その言葉を口にした時、こまちは自分の中で何かがはっきりした気がした。

 私は、ここを残したい。

 ただ安いからではない。

 便利だからでもない。

 静かだからでもない。

 ここが好きだからだ。

 だんごが玄関へ向かう。

「じゃあ、行ってきます」

 すずめが泣きそうな顔で言った。

「いってらっしゃい!」

 ぽん太も言う。

「いってらっしゃい。交渉の成功を祈っています」

 ちくわも静かに言った。

「いってらっしゃい」

 こまちは少し遅れて、口を開いた。

「いってらっしゃい」

 だんごは振り返り、にっこり笑った。

「うん。行ってくるわ」

 ドアが閉まる。

 その瞬間、笑福荘は急に広くなったように感じた。

 だんごがいないだけで、こんなに空気が違う。

 すずめは共同台所の椅子に座り、落ち着かない様子で足を揺らした。

「大丈夫でしょうか」

「大丈夫って信じましょう」

 こまちは言った。

 ぽん太は電卓を握っている。

「もし修理費が高かったら、僕の時給を少しずつ」

「自分の生活を先に安定させてください」

「でも、何かしたいんです」

「分かります」

 ちくわは鍋の前に立った。

「味噌汁を作る」

「こういう日だからですか」

 こまちが聞くと、ちくわはうなずいた。

「そうだ」

 待つ時間は長かった。

 すずめは署名用紙の控えを何度も数えた。

 ぽん太は修理費の予想をして、途中で数字が怖くなって電卓を伏せた。

 ちくわは根菜の味噌汁を作った。

 こまちは小説を書こうとしたが、なかなか進まなかった。

 昼を過ぎても、だんごは帰ってこなかった。

 夕方になり、空が茜色に染まり始めた頃。

 玄関の戸が開く音がした。

 全員が同時に立ち上がった。

「ただいま」

 だんごの声だった。

 いつものように明るい声。

 けれど、少し疲れている。

 すずめが走り出した。

「だんごさん!」

 ぽん太も続く。

 こまちも共同台所を出て、玄関へ向かった。

 だんごは靴を脱ぎながら、みんなを見た。

 そして、少しだけ目を潤ませて笑った。

「話してきたわ」

 誰も急かさなかった。

 だんごは鞄から、こまちの文章と署名用紙を取り出した。

「すぐに全部解決、とはいかない。でもね」

 だんごは息を吸った。

「取り壊しは、いったん保留になったわ」

 すずめが口を押さえた。

 ぽん太が目を見開いた。

 こまちは、すぐには言葉が出なかった。

「本当ですか」

 ようやく聞くと、だんごはうなずいた。

「本当。まずは大工さんにちゃんと見てもらって、必要な修理と費用を出すことになったの。その上で、残す方法をもう一度考えようって」

「じゃあ、笑福荘は……」

「今すぐなくなることはないわ」

 すずめが泣き出した。

「よかったあ……!」

 ぽん太も目元を押さえた。

「無料で泣けます……」

「そこ節約にしなくていいです」

 こまちは笑いながら、少し泣いた。

 完全に安心できるわけではない。

 修理の問題は残っている。

 お金のことも、安全のことも、これから考えなければならない。

 でも、今日で終わりではなくなった。

 笑福荘には、まだ明日がある。

 だんごは、こまちの文章を胸に抱いた。

「親戚がね、これを読んで笑ってたわ。プリン裁判のところで」

「そこですか」

「でも、そのあと少し黙ってね。『ただ古い建物だと思ってたけど、こんなふうに暮らしてる人がいるんだな』って言ってくれた」

 こまちは胸が熱くなった。

 届いた。

 自分の書いたものが、誰かに届いた。

 大きな賞ではない。

 本になったわけでもない。

 たくさんの人に読まれたわけでもない。

 けれど、必要な人に、必要なタイミングで届いた。

 それだけで、こまちは泣きそうになるほど嬉しかった。

「こまちちゃんの文章のおかげよ」

 だんごが言う。

 こまちは首を振った。

「私だけじゃないです。みんながいたから書けたんです」

 すずめが涙を拭きながら言った。

「こまちさんの小説、やっぱりすごいです!」

「小説というか、紹介文ですけど」

「でも、届きました!」

 ぽん太もうなずく。

「僕の節約失敗も役に立ったということですね」

「たぶん少しだけ」

「よかったです。失敗にも価値がありました」

 ちくわは静かに言った。

「味噌汁も書かれていた」

「はい」

「ならいい」

 だんごが手を叩いた。

「今日はお祝いね!」

「何を食べますか?」

 すずめが聞く。

「大根!」

「予想通りです!」

 ぽん太が手を挙げた。

「僕、初給料はまだですが、少しだけ何か買ってきます」

「無理しなくていいわよ」

「いえ。働いたので、少しだけ出したいです」

 こまちは笑った。

「じゃあ、プリンはどうですか」

 全員がこまちを見る。

 そして、同時に笑った。

「いいわね」

 だんごが言った。

「今日は全員分の名前を書きましょう」

 その夜、笑福荘では小さなお祝い会が開かれた。

 共同台所のテーブルには、だんごの大根料理、ちくわの根菜味噌汁、ぽん太が買ってきたプリン、すずめが持ってきた月待ち珈琲のドリップバッグが並んだ。

 プリンのふたには、それぞれの名前が書かれている。

『だんご』

『こまち』

『すずめ』

『ぽん太』

『ちくわ』

 そして、なぜか木彫りの熊の前にも小さなプリンが置かれていた。

「守り神候補にも?」

 こまちが聞くと、ぽん太が真面目に答えた。

「保留中ですが、念のため」

「念のためが独特です」

 すずめは笑いながら、コーヒーを淹れた。

「ぽん太さん、コーヒーの淹れ方、上達しました?」

「インスタントからドリップへ進化しました」

「すごいです!」

「いつか、あなたの淹れるコーヒーが好きですと言われる日まで」

「まだ目指してるんですね」

 ちくわはコーヒーを飲み、少し考えた。

「味噌汁とは違う」

「もう聞き慣れました」

 だんごはみんなを見回して、しみじみと言った。

「笑福荘、もう少し頑張れそうね」

 その言葉に、こまちは胸がいっぱいになった。

 もう少し。

 その言葉は、完璧な約束ではない。

 永遠でもない。

 けれど、今の笑福荘には十分だった。

 今すぐなくならない。

 明日もここに帰ってこられる。

 それだけで、こんなに嬉しい。

 お祝い会のあと、こまちは一人で外に出た。

 夜風が涼しかった。

 笑福荘の前に立ち、建物を見上げる。

 古いアパート。

 少し傾いているようにも見える。

 看板の「笑」の字はやっぱり大きい。

 階段は鳴く。

 壁は薄い。

 共同冷蔵庫は小さい。

 洗濯機は古い。

 でも、窓からは明かりがこぼれている。

 中からは笑い声が聞こえる。

 ここに帰ってきたら、誰かがいる。

 こまちは、そっとつぶやいた。

「ただいま」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 笑福荘に。

 住人たちに。

 それとも、少し前まで一人で平気なふりをしていた自分に。

 すると、玄関の戸が開いた。

 だんごが顔を出す。

「おかえり、こまちちゃん」

 こまちは驚いた。

「聞こえてたんですか」

「大家だからね」

「理由になってません」

 だんごは笑った。

「中に入りなさい。プリン、ぽん太ちゃんが守り神候補の分まで食べようとしてるわ」

「それは止めないと」

 こまちは笑って、玄関をくぐった。

 その瞬間、階段の五郎が「ぎし」と鳴った。

 洗濯機の五郎が、なぜか小さく「こぽん」と音を立てた。

「喜んでるわね」

 だんごが言う。

「湿気です」

 ちくわの声が奥から聞こえた。

 みんなが笑った。

 こまちは靴を脱ぎ、共同台所へ戻った。

 すずめが手を振る。

「こまちさん、おかえりなさい!」

 ぽん太がプリンを持ったまま言う。

「おかえりなさい。守り神候補のプリン、半分だけなら食べてもいいと思いますか?」

「だめです」

 ちくわが味噌汁を温め直している。

「おかえり」

 その一言が、こまちの胸に静かに落ちた。

 おかえり。

 ずっと、なくても平気だと思っていた言葉。

 でも本当は、どこかで欲しかった言葉。

 こまちは少し笑って、答えた。

「ただいま」

 それは、初めて心から言えた「ただいま」だった。

 その夜、こまちは部屋に戻り、パソコンを開いた。

『第10ページ ただいまが聞こえる家』

 タイトルを打つ。

 そして、最後の文章を書き始めた。

『彼女が欲しかったのは、静かな部屋だった。

 誰にも邪魔されず、誰にも期待されず、傷つかずに済む場所だった。

 けれど本当に必要だったのは、帰ってきた時に「おかえり」と言ってくれる声だった。』

 こまちは指を止めなかった。

『笑福荘は、相変わらず騒がしい。

 大家は近すぎるし、配達員は慌てるし、節約家は時々ずれるし、隣人は味噌汁で世界を語る。

 それでも、彼女はこの場所が好きだった。

 くだらないことで笑い合い、泣いた日には湯気を分け合い、失敗したら届け直せばいいと教えてくれるこの場所が。』

 こまちは少し泣きながら、少し笑った。

『家賃三万円の罠だと思っていた。

 けれどそれは、彼女を一人ぼっちの部屋から連れ出すための、少し騒がしい幸運だったのかもしれない。』

 書き終えた時、外はすっかり夜だった。

 こまちは完成した原稿を読み返した。

 うまいかどうかは分からない。

 誰かに評価されるかも分からない。

 賞を取るかどうかも分からない。

 でも、この物語は確かに書けた。

 笑福荘で暮らした自分だから書けた。

 ここで笑って、泣いて、怒って、突っ込んで、味噌汁を飲んだから書けた。

 こまちは深く息を吐いた。

 その時、ドアの向こうから声がした。

「こまちちゃーん、明日の朝、生きてるか確認するからねー!」

 だんごだった。

 こまちは笑った。

「しなくていいです!」

「遠慮しないでー!」

「遠慮じゃないです!」

 すずめの声も聞こえる。

「こまちさん、明日私、絶対誤配達しません!」

「それ毎日言ってます!」

 ぽん太が続ける。

「僕、明日も働きます!」

「それは頑張ってください!」

 ちくわの低い声。

「朝は味噌汁」

「ありがとうございます!」

 こまちは、ドアの向こうの騒がしさを聞きながら笑った。

 静かな暮らしは、たぶんしばらく手に入りそうにない。

 でも、もうそれでよかった。

 笑福荘は今日も古い。

 今日も少しうるさい。

 今日もどこかで何かが鳴っている。

 けれど、ここには「ただいま」がある。

 そして、「おかえり」が返ってくる。

 それだけで、こまちには十分だった。

 家賃三万円では安すぎるくらいの、くだらなくて温かい居場所。

 それが、こまちの見つけた家だった。


後書きコピー欄


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

こまちが最初に求めていたのは、静かに一人で暮らせる部屋でした。

けれど笑福荘での騒がしい日々を通して、彼女は「おかえり」と言ってくれる人たちの温かさに気づきます。

笑福荘はまだ完璧に守られたわけではありませんが、住人たちはこれからも笑いながら、少しずつ明日へ進んでいきます。

 翌朝、こまちはいつもより早く目を覚ました。


 まだ外は薄暗く、窓の向こうの空は青と灰色の間みたいな色をしていた。

 笑福荘の廊下は静かだった。

 だんごの「生きてるー?」も、すずめの走る音も、ぽん太の独り言も、ちくわの鍋の音も聞こえない。


 静かな朝。


 こまちが最初に望んでいたものだった。


 けれど今は、その静けさが少し不安だった。


「……静かすぎる」


 こまちは布団から起き上がり、窓を開けた。

 雨上がりの空気が入ってくる。

 少し冷たくて、少し土の匂いがした。


 今日は、だんごが親戚に会いに行く日だった。


 笑福荘を残せるかもしれない。

 でも、だめかもしれない。

 修理費の問題もある。

 安全の問題もある。

 土地を売りたい人の考えもある。


 こまちたちは、昨日できることをした。

 すずめは署名を集めた。

 ぽん太は整理リストを作った。

 ちくわは大工に連絡した。

 こまちは文章を書いた。


 それでも、結果はまだ分からない。


 こまちは机の上に置いた原稿を見た。


『笑福荘は、古いアパートです。

 けれど、ここには「おかえり」と言う人がいます。』


 自分で書いた文章なのに、読み返すたび胸が少し熱くなる。


 笑福荘に来たばかりの自分なら、こんな文章は書けなかった。

 家なんて、眠る場所。

 部屋なんて、荷物を置く場所。

 誰かと関わることは、面倒なこと。


 そう思っていた。


 でも今は違う。


 家は、ただ屋根と壁があるだけではない。

 帰ってきた時に、誰かの声が聞こえる場所。

 泣いた夜に、味噌汁の湯気が届く場所。

 失敗しても、笑いながら拾ってくれる場所。


 こまちにとって、笑福荘はいつの間にか、そういう場所になっていた。


 午前九時。


 共同台所に住人たちが集まった。


 だんごはいつもよりきちんとした服を着ていた。

 割烹着ではなく、落ち着いた色のカーディガン。

 けれど手には、なぜか小さな大根のキーホルダーがついた鞄を持っている。


「大家さん、それ持っていくんですか」


 こまちが聞くと、だんごは笑った。


「お守りよ」


「大根が?」


「大根は根を張るでしょ。笑福荘も根を張れますようにって」


「ちょっといい話に聞こえるのが悔しいです」


 すずめは署名用紙を両手で差し出した。


「だんごさん、これ、お願いします!」


「ありがとう」


 ぽん太は整理リストを渡した。


「これは、修理前に住人で片付けられるものの一覧です。木彫りの熊は保留です」


「まだ保留なのね」


「守り神候補なので」


 ちくわは小さな包みを渡した。


「味噌玉だ」


「味噌玉?」


「お湯を入れれば味噌汁になる」


 だんごは包みを見つめ、少し笑った。


「ありがとう。心強いわ」


 最後に、こまちは文章を渡した。


「これ、昨日の」


 だんごは丁寧に受け取った。


「持っていくわね」


「はい」


「こまちちゃん」


「はい」


「書いてくれてありがとう」


 こまちは首を振った。


「私も、残したかったので」


 その言葉を口にした時、こまちは自分の中で何かがはっきりした気がした。


 私は、ここを残したい。


 ただ安いからではない。

 便利だからでもない。

 静かだからでもない。


 ここが好きだからだ。


 だんごが玄関へ向かう。


「じゃあ、行ってきます」


 すずめが泣きそうな顔で言った。


「いってらっしゃい!」


 ぽん太も言う。


「いってらっしゃい。交渉の成功を祈っています」


 ちくわも静かに言った。


「いってらっしゃい」


 こまちは少し遅れて、口を開いた。


「いってらっしゃい」


 だんごは振り返り、にっこり笑った。


「うん。行ってくるわ」


 ドアが閉まる。


 その瞬間、笑福荘は急に広くなったように感じた。


 だんごがいないだけで、こんなに空気が違う。


 すずめは共同台所の椅子に座り、落ち着かない様子で足を揺らした。


「大丈夫でしょうか」


「大丈夫って信じましょう」


 こまちは言った。


 ぽん太は電卓を握っている。


「もし修理費が高かったら、僕の時給を少しずつ」


「自分の生活を先に安定させてください」


「でも、何かしたいんです」


「分かります」


 ちくわは鍋の前に立った。


「味噌汁を作る」


「こういう日だからですか」


 こまちが聞くと、ちくわはうなずいた。


「そうだ」


 待つ時間は長かった。


 すずめは署名用紙の控えを何度も数えた。

 ぽん太は修理費の予想をして、途中で数字が怖くなって電卓を伏せた。

 ちくわは根菜の味噌汁を作った。

 こまちは小説を書こうとしたが、なかなか進まなかった。


 昼を過ぎても、だんごは帰ってこなかった。


 夕方になり、空が茜色に染まり始めた頃。


 玄関の戸が開く音がした。


 全員が同時に立ち上がった。


「ただいま」


 だんごの声だった。


 いつものように明るい声。

 けれど、少し疲れている。


 すずめが走り出した。


「だんごさん!」


 ぽん太も続く。


 こまちも共同台所を出て、玄関へ向かった。


 だんごは靴を脱ぎながら、みんなを見た。

 そして、少しだけ目を潤ませて笑った。


「話してきたわ」


 誰も急かさなかった。


 だんごは鞄から、こまちの文章と署名用紙を取り出した。


「すぐに全部解決、とはいかない。でもね」


 だんごは息を吸った。


「取り壊しは、いったん保留になったわ」


 すずめが口を押さえた。


 ぽん太が目を見開いた。


 こまちは、すぐには言葉が出なかった。


「本当ですか」


 ようやく聞くと、だんごはうなずいた。


「本当。まずは大工さんにちゃんと見てもらって、必要な修理と費用を出すことになったの。その上で、残す方法をもう一度考えようって」


「じゃあ、笑福荘は……」


「今すぐなくなることはないわ」


 すずめが泣き出した。


「よかったあ……!」


 ぽん太も目元を押さえた。


「無料で泣けます……」


「そこ節約にしなくていいです」


 こまちは笑いながら、少し泣いた。


 完全に安心できるわけではない。

 修理の問題は残っている。

 お金のことも、安全のことも、これから考えなければならない。


 でも、今日で終わりではなくなった。


 笑福荘には、まだ明日がある。


 だんごは、こまちの文章を胸に抱いた。


「親戚がね、これを読んで笑ってたわ。プリン裁判のところで」


「そこですか」


「でも、そのあと少し黙ってね。『ただ古い建物だと思ってたけど、こんなふうに暮らしてる人がいるんだな』って言ってくれた」


 こまちは胸が熱くなった。


 届いた。


 自分の書いたものが、誰かに届いた。


 大きな賞ではない。

 本になったわけでもない。

 たくさんの人に読まれたわけでもない。


 けれど、必要な人に、必要なタイミングで届いた。


 それだけで、こまちは泣きそうになるほど嬉しかった。


「こまちちゃんの文章のおかげよ」


 だんごが言う。


 こまちは首を振った。


「私だけじゃないです。みんながいたから書けたんです」


 すずめが涙を拭きながら言った。


「こまちさんの小説、やっぱりすごいです!」


「小説というか、紹介文ですけど」


「でも、届きました!」


 ぽん太もうなずく。


「僕の節約失敗も役に立ったということですね」


「たぶん少しだけ」


「よかったです。失敗にも価値がありました」


 ちくわは静かに言った。


「味噌汁も書かれていた」


「はい」


「ならいい」


 だんごが手を叩いた。


「今日はお祝いね!」


「何を食べますか?」


 すずめが聞く。


「大根!」


「予想通りです!」


 ぽん太が手を挙げた。


「僕、初給料はまだですが、少しだけ何か買ってきます」


「無理しなくていいわよ」


「いえ。働いたので、少しだけ出したいです」


 こまちは笑った。


「じゃあ、プリンはどうですか」


 全員がこまちを見る。


 そして、同時に笑った。


「いいわね」


 だんごが言った。


「今日は全員分の名前を書きましょう」


 その夜、笑福荘では小さなお祝い会が開かれた。


 共同台所のテーブルには、だんごの大根料理、ちくわの根菜味噌汁、ぽん太が買ってきたプリン、すずめが持ってきた月待ち珈琲のドリップバッグが並んだ。


 プリンのふたには、それぞれの名前が書かれている。


『だんご』

『こまち』

『すずめ』

『ぽん太』

『ちくわ』


 そして、なぜか木彫りの熊の前にも小さなプリンが置かれていた。


「守り神候補にも?」


 こまちが聞くと、ぽん太が真面目に答えた。


「保留中ですが、念のため」


「念のためが独特です」


 すずめは笑いながら、コーヒーを淹れた。


「ぽん太さん、コーヒーの淹れ方、上達しました?」


「インスタントからドリップへ進化しました」


「すごいです!」


「いつか、あなたの淹れるコーヒーが好きですと言われる日まで」


「まだ目指してるんですね」


 ちくわはコーヒーを飲み、少し考えた。


「味噌汁とは違う」


「もう聞き慣れました」


 だんごはみんなを見回して、しみじみと言った。


「笑福荘、もう少し頑張れそうね」


 その言葉に、こまちは胸がいっぱいになった。


 もう少し。

 その言葉は、完璧な約束ではない。

 永遠でもない。


 けれど、今の笑福荘には十分だった。


 今すぐなくならない。

 明日もここに帰ってこられる。

 それだけで、こんなに嬉しい。


 お祝い会のあと、こまちは一人で外に出た。


 夜風が涼しかった。

 笑福荘の前に立ち、建物を見上げる。


 古いアパート。

 少し傾いているようにも見える。

 看板の「笑」の字はやっぱり大きい。

 階段は鳴く。

 壁は薄い。

 共同冷蔵庫は小さい。

 洗濯機は古い。


 でも、窓からは明かりがこぼれている。

 中からは笑い声が聞こえる。


 ここに帰ってきたら、誰かがいる。


 こまちは、そっとつぶやいた。


「ただいま」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 笑福荘に。

 住人たちに。

 それとも、少し前まで一人で平気なふりをしていた自分に。


 すると、玄関の戸が開いた。


 だんごが顔を出す。


「おかえり、こまちちゃん」


 こまちは驚いた。


「聞こえてたんですか」


「大家だからね」


「理由になってません」


 だんごは笑った。


「中に入りなさい。プリン、ぽん太ちゃんが守り神候補の分まで食べようとしてるわ」


「それは止めないと」


 こまちは笑って、玄関をくぐった。


 その瞬間、階段の五郎が「ぎし」と鳴った。

 洗濯機の五郎が、なぜか小さく「こぽん」と音を立てた。


「喜んでるわね」


 だんごが言う。


「湿気です」


 ちくわの声が奥から聞こえた。


 みんなが笑った。


 こまちは靴を脱ぎ、共同台所へ戻った。


 すずめが手を振る。


「こまちさん、おかえりなさい!」


 ぽん太がプリンを持ったまま言う。


「おかえりなさい。守り神候補のプリン、半分だけなら食べてもいいと思いますか?」


「だめです」


 ちくわが味噌汁を温め直している。


「おかえり」


 その一言が、こまちの胸に静かに落ちた。


 おかえり。


 ずっと、なくても平気だと思っていた言葉。

 でも本当は、どこかで欲しかった言葉。


 こまちは少し笑って、答えた。


「ただいま」


 それは、初めて心から言えた「ただいま」だった。


 その夜、こまちは部屋に戻り、パソコンを開いた。


『第10ページ ただいまが聞こえる家』


 タイトルを打つ。


 そして、最後の文章を書き始めた。


『彼女が欲しかったのは、静かな部屋だった。

 誰にも邪魔されず、誰にも期待されず、傷つかずに済む場所だった。

 けれど本当に必要だったのは、帰ってきた時に「おかえり」と言ってくれる声だった。』


 こまちは指を止めなかった。


『笑福荘は、相変わらず騒がしい。

 大家は近すぎるし、配達員は慌てるし、節約家は時々ずれるし、隣人は味噌汁で世界を語る。

 それでも、彼女はこの場所が好きだった。

 くだらないことで笑い合い、泣いた日には湯気を分け合い、失敗したら届け直せばいいと教えてくれるこの場所が。』


 こまちは少し泣きながら、少し笑った。


『家賃三万円の罠だと思っていた。

 けれどそれは、彼女を一人ぼっちの部屋から連れ出すための、少し騒がしい幸運だったのかもしれない。』


 書き終えた時、外はすっかり夜だった。


 こまちは完成した原稿を読み返した。


 うまいかどうかは分からない。

 誰かに評価されるかも分からない。

 賞を取るかどうかも分からない。


 でも、この物語は確かに書けた。


 笑福荘で暮らした自分だから書けた。

 ここで笑って、泣いて、怒って、突っ込んで、味噌汁を飲んだから書けた。


 こまちは深く息を吐いた。


 その時、ドアの向こうから声がした。


「こまちちゃーん、明日の朝、生きてるか確認するからねー!」


 だんごだった。


 こまちは笑った。


「しなくていいです!」


「遠慮しないでー!」


「遠慮じゃないです!」


 すずめの声も聞こえる。


「こまちさん、明日私、絶対誤配達しません!」


「それ毎日言ってます!」


 ぽん太が続ける。


「僕、明日も働きます!」


「それは頑張ってください!」


 ちくわの低い声。


「朝は味噌汁」


「ありがとうございます!」


 こまちは、ドアの向こうの騒がしさを聞きながら笑った。


 静かな暮らしは、たぶんしばらく手に入りそうにない。


 でも、もうそれでよかった。


 笑福荘は今日も古い。

 今日も少しうるさい。

 今日もどこかで何かが鳴っている。


 けれど、ここには「ただいま」がある。

 そして、「おかえり」が返ってくる。


 それだけで、こまちには十分だった。


 家賃三万円では安すぎるくらいの、くだらなくて温かい居場所。


 それが、こまちの見つけた家だった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

こまちが最初に求めていたのは、静かに一人で暮らせる部屋でした。

けれど笑福荘での騒がしい日々を通して、彼女は「おかえり」と言ってくれる人たちの温かさに気づきます。

笑福荘はまだ完璧に守られたわけではありませんが、住人たちはこれからも笑いながら、少しずつ明日へ進んでいきます。

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