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大家さん、その部屋だけは笑わせないでください  作者: あーちゃん


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6/10

洗濯機前、人生相談所

落選した夜、こまちは味噌汁に救われた。

そして翌日、笑福荘では共同洗濯機の順番待ちをきっかけに、なぜか人生相談所が開かれる。

洗濯物と一緒に、住人たちの悩みまで回り始める夜だった。

 笑福荘の共同洗濯機は、一台しかない。


 それは、こまちがこのアパートに住み始めてから、早い段階で知った重要事項のひとつだった。


 家賃三万円。

 築年数かなり古め。

 階段の四段目は五郎。

 大家の距離感は近め。

 そして、洗濯機は一台。


 笑福荘の洗濯機は、共同台所の横に置かれていた。

 白いというより、昔は白かったのだろうな、という色をしている。

 ところどころに小さな傷があり、ふたの端には「やさしくしてね」と、だんごの字で書かれたシールが貼られていた。


 名前は、五郎。


 階段の四段目も五郎。

 洗濯機も五郎。


 こまちは最初、それを聞いた時、だんごに確認した。


「なぜ同じ名前なんですか?」


「覚えやすいでしょ」


「逆に紛らわしいです」


「大丈夫。鳴き声が違うから」


「鳴き声で区別する前提なんですね」


 階段の五郎は「ぐえっ」と鳴く。

 洗濯機の五郎は、脱水の時に「どどどどど」と地鳴りのような音を出す。


 こまちは、その音を初めて聞いた時、地震だと思って机の下に隠れかけた。


 そんな五郎を使うためには、順番を守らなければならない。


 洗濯物は生活の一部だ。

 だが、笑福荘では生活の一部であるはずの洗濯すら、なぜか小さなイベントになってしまう。


 その日の夜。

 こまちは洗濯物を抱えて、一階へ下りた。


 昨日、落選メールを見て落ち込み、ちくわの味噌汁で少し泣いて、少し笑った。

 目覚めた朝、胸の痛みは完全には消えていなかった。

 けれど、味噌汁のおかげなのか、笑福荘の騒がしさのおかげなのか、息はしやすくなっていた。


 泣いた日は、味噌汁を飲む。


 笑福荘の決まりの意味を、こまちは少しだけ理解した気がしていた。


 共同台所へ行くと、すでに住人たちが集まっていた。


 だんごは洗濯かごを抱え、すずめは制服のシャツを山のように持ち、ぽん太は靴下を片方だけ握っている。

 ちくわは、なぜか洗濯機の前に小さな椅子を置いて座っていた。


「……何してるんですか」


 こまちが聞くと、ちくわは静かに答えた。


「五郎の調子を見ている」


「洗濯機の?」


「今日は音が重い」


「分かるんですか」


「分かる」


 だんごがうなずく。


「ちくわちゃんは、五郎係なのよ」


「係があるんですか」


「あるわよ。笑福荘は助け合いだから」


 すずめが元気よく手を挙げた。


「私は玄関の電球が切れた時に騒ぐ係です!」


「交換する係ではなく?」


「騒ぐことで、誰かが気づきます!」


「役割として弱いですね」


 ぽん太が真剣な顔で言った。


「僕は、節約の観点から洗剤の適量を見守る係です」


「それは少し役に立ちそうですね」


「ただし、自分の洗濯物は少ないです」


「なぜ?」


「服を増やすと洗濯代が増えるので」


「清潔感は節約しないでください」


 だんごが手を叩いた。


「はい、それじゃあ今日の洗濯順番会議を始めます」


「洗濯の順番で会議するんですね」


「もちろんよ。洗濯は争いのもとだから」


「プリンも争いのもとでしたよね」


「共同生活は、だいたい小さいものから揉めるの」


 その言葉には、妙な説得力があった。


 だんごは紙を取り出した。


「今日の希望者は、私、すずめちゃん、ぽん太ちゃん、こまちちゃん。ちくわちゃんは?」


「俺は明日でいい」


「じゃあ、五郎係ね」


「分かった」


 こまちは小さくため息をついた。


 洗濯機を使うだけなのに、なぜか人が集まり、会議が始まり、係まである。

 普通なら面倒で仕方ない。

 でも、最近のこまちは少し慣れてきていた。


 いや、慣れてしまっていた。


 だんごは順番を決めようとしたが、すずめが突然手を挙げた。


「私、できれば早めに洗いたいです!」


「理由は?」


「明日、気になる人に会うかもしれないので!」


 空気が一瞬、止まった。


 こまちはすずめを見た。

 ぽん太も目を丸くする。

 だんごの顔がにやりと変わった。


「あら」


 だんごの声が低く弾んだ。


「すずめちゃん、気になる人?」


「えっ、あっ、いや、その、配達先の人で、いつも優しく受け取ってくれる人がいて」


「へえ」


 だんごが椅子を引き寄せた。


「詳しく聞きましょうか」


「洗濯順番会議は?」


 こまちが聞く。


「今から人生相談所に変更します」


「変更が急です」


 だんごはテーブルに紙を置き、真ん中に大きく書いた。


『洗濯機前、人生相談所』


「タイトルつけないでください」


 こまちは思わず言った。


「こまちちゃん、小説家なんだから、こういうタイトル好きでしょ」


「嫌いではないですけど」


「ほら」


「でも勝手に話を進めないでください」


 すずめは顔を真っ赤にしていた。


「相談ってほどじゃないんです! ただ、その人、いつも『ありがとう』って目を見て言ってくれるんです」


「それは好きになるわね」


 だんごが即答した。


「早いです」


 こまちは言う。


 ぽん太は腕を組んだ。


「ありがとうは無料で使えるのに、人の心を動かす。非常にコスパの高い言葉です」


「恋愛を節約目線で語らないでください」


 ちくわは洗濯機を見ながら言った。


「目を見て言うのは大事だ」


「ちくわさんまで参加するんですね」


「味噌汁を渡す時も、目を見る」


「味噌汁基準」


 すずめはもじもじしながら続けた。


「でも、私、よく配達間違えるし、慌てると変なこと言っちゃうし。明日その人に会ったら、また変なことしそうで」


「例えば?」


 だんごが聞く。


「前に、『お荷物です』って言うつもりが、『お持ち帰りです』って言っちゃいました」


「飲食店ですね」


 こまちが言う。


「その前は、『こちらにサインお願いします』って言うつもりが、『こちらに人生お願いします』って言いました」


「重すぎます」


「相手の人、笑ってくれました」


 すずめは照れたように笑った。


 だんごは優しい顔で言った。


「笑ってくれる人なら、大丈夫かもしれないわね」


「でも、好きとかじゃなくて、ただ配達先の人ですし」


「今はそれでいいのよ。気になる人がいるだけで、明日の髪型を少し気にしたり、洗濯を急いだりするでしょ。それは楽しいことよ」


 すずめは小さくうなずいた。


 こまちは、すずめの顔を見て少し笑った。

 いつも元気いっぱいで、何も悩みがなさそうに見えるすずめにも、こういう顔があるのだと思った。


 洗濯機前の人生相談所。

 最初の相談は、すずめの恋のような、恋になる前のような話だった。


 次に、ぽん太が手を挙げた。


「僕も相談があります」


「どうぞ、ぽん太ちゃん」


 だんごが言う。


「アルバイト先から返信が来ました」


「おお!」


 すずめが拍手する。


「面接に来てください、と」


「すごいじゃないですか」


 こまちが言うと、ぽん太は青ざめた。


「でも、面接が怖いです」


「まあ、緊張しますよね」


「何を着ればいいのか分かりません」


「清潔な服ならいいんじゃないですか」


「清潔な服……」


 ぽん太は自分の手元の靴下を見た。


「片方しかありません」


「なぜ片方だけ持ってきたんですか」


「もう片方を探すために洗濯場へ来ました」


「洗濯場は探し物センターではありません」


 だんごが笑った。


「ぽん太ちゃん、面接は相手に立派に見せる場所じゃなくて、ちゃんと話す場所よ」


「ちゃんと話す……」


「無理にすごく見せようとしなくていいの。働きたいです。覚えます。よろしくお願いします。それが言えれば、まずは十分」


 ぽん太は真剣にうなずいた。


「僕、職歴に自信がなくて」


 その言葉に、場の空気が少しだけ落ち着いた。


「前の仕事も長続きしなかったし、途中で逃げるみたいに辞めたこともあります。面接で聞かれたら、どうしようって」


 こまちは、ぽん太を見た。


 節約に失敗してばかりで、いつも変なことを言っている人。

 でも、その奥にはちゃんと不安がある。


 笑いにしているだけで、本人はずっと気にしていたのかもしれない。


 ちくわが言った。


「逃げたことがある人は、逃げ方を知っている」


 全員がちくわを見た。


「だから、次は逃げる前に休めばいい」


 ぽん太が瞬きをした。


「休む?」


「逃げるほど苦しくなる前に、誰かに言え」


 ちくわはそれだけ言って、また洗濯機を見た。


 だんごがやわらかく笑った。


「そうね。ぽん太ちゃん、ここには私たちがいるんだから。働き始めてしんどくなったら、いきなり消えないで、まず共同台所に来なさい」


「共同台所に?」


「そう。味噌汁でも大根でも出すから」


「大根は少し怖いです」


「選べるようにしておくわ」


 ぽん太は笑った。


「ありがとうございます」


 こまちはそのやり取りを見ながら、胸が少し温かくなった。


 このアパートでは、人の不安が大げさな励ましで押し流されない。

 笑いに変えながらも、ちゃんと受け止める。


 それは、簡単そうで難しいことだ。


 次は、だんごが自分で手を挙げた。


「じゃあ、大家さんも相談していい?」


「大家さんもあるんですか?」


 こまちが聞くと、だんごは笑った。


「あるわよ。人間だもの」


「たしかに」


 だんごは洗濯かごの中から、なぜか大根柄のエプロンを取り出した。


「最近ね、腰が痛いの」


「それは病院に行ってください」


 こまちは即答した。


「相談終了です」


「早いわねえ」


「体のことは専門家に」


「でも、病院って面倒じゃない」


「大家さんがそれ言います?」


 すずめが心配そうに言う。


「だんごさん、ちゃんと行ってください。だんごさんが倒れたら笑福荘が困ります」


「大げさねえ」


「大げさじゃないです!」


 ぽん太も言った。


「大家さんが倒れたら、僕の無料大根供給が止まります」


「心配の方向が最低です」


「でも本当に心配です」


 ちくわが静かに言う。


「腰は大事だ」


「ちくわちゃんまで」


「味噌汁を作るにも腰がいる」


「やっぱり味噌汁基準なのね」


 だんごは困ったように笑った。


「分かったわよ。今度、病院行くわ」


「今度じゃなくて予約してください」


 こまちが言うと、だんごは目を丸くした。


「あら、こまちちゃんが一番厳しい」


「近すぎる大家さんが急に倒れたら困るので」


 言ってから、こまちは少し恥ずかしくなった。


 だんごは嬉しそうに笑った。


「困るの?」


「家賃の振込先が分からなくなるので」


「照れ隠しが下手ねえ」


「違います」


 みんなが笑った。


 その時、洗濯機の五郎が突然、低い音を出した。


 どどどどどどど。


 共同台所の食器が小さく揺れる。


「五郎が怒ってます!」


 すずめが叫ぶ。


「これは怒りじゃない。脱水だ」


 ちくわが冷静に言った。


「洗濯機って、こんなに揺れるものですか?」


 こまちが聞くと、だんごは言った。


「古いからねえ」


「そろそろ買い替えた方がいいのでは」


「そうしたいけど、なかなかね」


 だんごの声が、ほんの少しだけ曇った。


 こまちはその変化に気づいた。

 でも、だんごはすぐ笑顔に戻した。


「まあ、五郎も頑張ってるから」


 ちくわが洗濯機に手を置いた。


「まだ動く」


「ちくわさん、洗濯機と会話してます?」


「音を聞いている」


 五郎の脱水が終わると、だんごの洗濯物が仕上がった。

 次はすずめ。

 その次がぽん太。

 最後にこまち。


 待ち時間は長かった。

 けれど、その間に人生相談所は続いた。


 すずめは、気になる配達先の人に自然に挨拶する練習を始めた。


「こんにちは! お荷物です! 人生ではありません!」


「それを言ったら逆に変です」


 こまちが突っ込む。


「じゃあ、こんにちは! 今日もいい天気ですね! あなたの笑顔も!」


「踏み込みすぎです」


「難しい!」


 ぽん太は面接の練習をした。


「志望動機は?」


 だんごが面接官役をする。


「時給に感動しました」


「正直すぎるわね」


「品出しの仕事に興味があります」


「いいじゃない」


「あと、時給に感動しました」


「戻らないで」


 ちくわは、だんごの腰痛対策として、重いものを持つ時の姿勢を説明していた。


「腰だけで持つな。膝を使え」


「ちくわちゃん、詳しいのね」


「味噌の箱は重い」


「味噌から学んでる」


 こまちは、ずっと聞き役だった。


 みんなの相談を聞きながら、時々突っ込み、時々笑った。


 自分の番が来るとは思っていなかった。


 しかし、だんごは見逃さなかった。


「こまちちゃんは?」


「え?」


「相談」


「私は特に」


「昨日、泣いたでしょ」


 こまちは固まった。


 すずめが口を押さえる。

 ぽん太が気まずそうに天井を見る。

 ちくわは黙っている。


「大家さん」


 こまちは小さく言った。


「そういうの、普通に言わないでください」


「あ、ごめん」


 だんごは素直に謝った。


 その素直さに、こまちは少しだけ力が抜けた。


「……落選しただけです」


 こまちは言った。


「小説の賞に、また落ちました。それだけです」


「それだけじゃないわよ」


 だんごが言う。


「こまちちゃんが頑張って書いたものなんだから、落ち込んで当たり前よ」


 こまちは視線を落とした。


「でも、いつまでも落ち込んでても仕方ないし。もっと上手い人はいっぱいいるし。私なんかが小説家って言うのも、変だし」


「こまちさん」


 すずめが言った。


「私、こまちさんの小説、読みたいです」


「まだ読んでないですよね」


「はい! だから読みたいです!」


「勢いがすごい」


 ぽん太も言う。


「僕も読みたいです。節約の参考になる場面があれば」


「たぶんありません」


「じゃあ、人生の参考にします」


「急に広げましたね」


 だんごは、こまちの顔をまっすぐ見た。


「賞に落ちたら、小説家じゃなくなるの?」


 こまちは答えられなかった。


「本になってなかったら、小説家って言っちゃいけないの?」


「……分からないです」


「じゃあ、私は料理人じゃないわね」


「え?」


「お店を出してるわけじゃないし、資格もないし、賞も取ってない。でも、みんなにご飯作るのは好きよ」


 ちくわが言った。


「俺も味噌汁屋ではない」


「それはそうですね」


「でも味噌汁は作る」


 ぽん太が続けた。


「僕も節約王ではありません」


「それは知ってます」


「でも節約を考えるのは好きです」


 すずめが笑顔で言った。


「私も、完璧な配達員じゃありません!」


「そこは少し改善してください」


「でも配達の仕事、好きです!」


 こまちは、みんなを見た。


 だんご。

 すずめ。

 ぽん太。

 ちくわ。


 みんな、完璧ではない。

 むしろ穴だらけだ。


 でも、それぞれ好きなものや、大事にしているものを持っている。


 肩書きが完璧じゃなくても。

 結果が出ていなくても。

 失敗しても。


 それでも、続けている。


「こまちちゃんは、書くのが好き?」


 だんごが聞いた。


 こまちはすぐに答えられなかった。


 好き。

 たぶん好きだ。

 でも、苦しい。

 評価されないとつらい。

 書けない日は自分が空っぽに思える。

 好きだけでは続けられない日もある。


 それでも、昨日、落選して泣いたあと。

 味噌汁を飲んで、また書いた。


 書きたいと思った。


「……好きです」


 こまちは小さく言った。


「でも、怖いです」


 その言葉は、自然に出た。


「書いても読まれないのが怖い。落ちるのが怖い。自分には才能がないって分かるのが怖い。でも、やめるのも怖いです」


 共同台所が静かになった。


 五郎の中で水が揺れる音だけが聞こえる。


 だんごは、こまちの前に温かいお茶を置いた。


「怖いままでも、書いていいんじゃない?」


 こまちは顔を上げた。


「怖くなくなってから始めようと思ったら、たぶん一生始められないわよ」


 だんごは笑った。


「私だって、人に近づくの怖い時あるもの」


「大家さんが?」


「あるわよ。近づきすぎて嫌がられたらどうしようって。でも、離れすぎて気づけない方が、私はもっと怖いの」


 こまちは、第2ページの日のだんごの話を思い出した。

 昔、誰にも何も言わずに出ていった住人のこと。


 だんごの距離感の近さには、ちゃんと理由があった。

 ただのお節介ではなく、後悔から生まれた優しさだった。


 すずめも、ぽん太も、ちくわも、それぞれの不安を抱えている。

 笑福荘は、悩みのない人たちが集まる場所ではない。

 悩みを隠しきれない人たちが、笑いながらなんとか暮らしている場所なのかもしれない。


 こまちはお茶を飲んだ。


「私……書きます」


 小さく言った。


「怖いけど、書きます」


 だんごが笑った。


「うん」


 すずめが拍手した。


「私、読みます!」


 ぽん太も手を挙げる。


「僕も、面接が終わったら読みます!」


「面接前でも読めますよ」


「緊張で文字が節約されそうなので」


「意味が分かりません」


 ちくわは静かに言った。


「書いた日は残る」


 こまちは少し笑った。


「それ、昨日も言ってましたね」


「大事なことは何度でも言う」


「味噌汁みたいですね」


「そうだ」


 その時、洗濯機の五郎が止まった。


 こまちの洗濯が終わった合図だった。


 ふたを開けると、洗い終わった服が少し絡まっていた。

 こまちはそれを一つずつ取り出した。


 待ち時間は長かった。

 でも、悪くなかった。


 洗濯物と一緒に、胸の中の重たいものも少しだけ回って、少しだけ軽くなった気がした。


 夜遅く、こまちは部屋に戻った。


 干した洗濯物が、窓際で揺れている。

 外からは少し涼しい風が入ってきた。


 こまちはパソコンを開いた。


『第6ページ 洗濯機前、人生相談所』


 タイトルを打つ。


 そして、今日のことを書き始めた。


『洗濯機を待つだけの時間が、誰かの本音を待つ時間に変わることがある。

 回っているのは洗濯物だけではない。

 言えなかった不安や、隠していた弱さや、少し照れくさい願いも、同じ場所でゆっくり回る。』


 こまちは指を止めなかった。


 すずめの恋になる前の話。

 ぽん太の面接への不安。

 だんごの腰痛と、近づく怖さ。

 ちくわの短い言葉。

 そして、自分の「怖いけど書きたい」という気持ち。


 書きながら、こまちは思った。


 小説にするには、あまりにも日常だ。

 でも、その日常の中に、人はたぶん何度も救われている。


 翌朝。


 共同台所に行くと、すずめが鏡の前で髪を整えていた。


「こまちさん!」


「おはようございます」


「今日、例の配達先に行くかもしれません!」


「頑張ってください」


「変なこと言わないように練習しました!」


「何て言うんですか?」


 すずめは胸を張った。


「こんにちは! お荷物です! 人生ではありません!」


「練習の成果が不安です」


 ぽん太は面接用のシャツを着ていた。

 少ししわが残っているが、本人なりに頑張ったのだろう。


「こまちさん、どうですか」


「いいと思います」


「本当ですか」


「はい。清潔です」


「清潔……最高の褒め言葉です」


「そうですか?」


 だんごは腰に手を当てて言った。


「私、今日病院予約するわ」


「本当ですか」


「みんなに言われたからね」


 ちくわは味噌汁をよそいながら言う。


「今日はなめこ」


「朝から豪華ですね」


「人生相談所の翌日だから」


「関係あります?」


「ある」


 こまちは笑った。


 笑福荘の日常は、今日も変わらず騒がしい。


 でも、昨日までとは少し違う。

 こまちはもう、その騒がしさの外側に立っているだけではなかった。


 いつの間にか、自分も輪の中にいた。


 だんごが言う。


「こまちちゃん、今日も書くの?」


 こまちは少し照れながら答えた。


「はい。書きます」


「怖い?」


「怖いです」


「そっか」


 だんごは笑った。


「じゃあ、怖いままいってらっしゃい」


「部屋に戻るだけですけど」


「気持ちの問題よ」


 すずめが大きく手を振る。


「こまちさん、いってらっしゃい!」


 ぽん太も続ける。


「いってらっしゃい!」


 ちくわも、小さく言った。


「いってらっしゃい」


 こまちは一瞬、返事に迷った。


 そして、少しだけ笑って言った。


「……いってきます」


 自分の部屋へ戻るだけなのに。

 たったそれだけの言葉なのに。


 胸の奥が、少し温かかった。


 その日の午後。

 すずめが配達先で手紙を間違えるという、笑福荘史上なかなか面倒な騒動を起こすことを、こまちはまだ知らない。

第6ページでは、共同洗濯機の順番待ちから、笑福荘らしい人生相談所が始まりました。

すずめの淡い恋、ぽん太の面接への不安、だんごの優しさの理由、そしてこまちの「怖いけど書きたい」という本音。

こまちは少しずつ、笑福荘の輪の中に入っていきます。

次回は、すずめの配達ミスから恋と勘違いの大騒動が起こります。

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