隣の味噌汁は泣ける味
ぽん太の節約失敗を笑った夜、こまちは自分の夢の不安にも気づいてしまう。
そんなこまちの隣から、いつものように味噌汁の声が届く。
笑福荘で一番静かな住人・ちくわの料理が、こまちの固まった心を少しずつほどいていく。
笑福荘の朝は、相変わらず騒がしい。
ぽん太は共同台所で求人サイトを見ながら、時給の数字に向かって手を合わせていた。
「時給千二百円……ありがたい……時給という仕組みを考えた人に感謝したい……」
こまちは水を飲みながら、その横顔を見た。
「まだ働いてないのに感謝が早いですね」
「働く前から感謝することで、採用されやすくなる気がします」
「たぶんなりません」
ぽん太は真剣な顔でスマホを見つめる。
「でも、応募ボタンを押すのって怖いですね」
「まあ、分かります」
「押した瞬間、社会が僕に気づく気がします」
「今まで気づかれずに生きてきたんですか」
「できるだけ」
「節約だけじゃなくて存在感も節約してたんですね」
ぽん太は少し笑った。
すずめは朝から配達の制服姿で、紙袋を抱えて走り回っていた。
「だんごさん! この荷物、笑福荘宛てですけど、笑福荘の誰宛てか書いてません!」
「中身は?」
「開けちゃだめです!」
「じゃあ匂いは?」
「だんごさんもなかなか攻めますね!」
だんごは割烹着の袖をまくりながら、今日も大根を切っている。
「こまちちゃん、朝ごはん食べた?」
「食べました」
「何を?」
「トーストです」
「野菜は?」
「……パンに小麦が」
「それは野菜じゃないわ」
「知ってます」
ちくわは、流し台の横で味噌汁の鍋を見つめていた。
いつもの無口な表情で、湯気の立ち方を確認している。
「今日は何の味噌汁ですか」
こまちが聞くと、ちくわは短く答えた。
「じゃがいも」
「いいですね」
「玉ねぎもある」
「最高ですね」
「昨日、少し落ちていた」
「何がですか?」
「こまちの声」
こまちは、言葉に詰まった。
昨日の夜。
壁越しに「味噌汁、いる?」と聞かれた時、こまちは確かに少しだけ弱っていた。
投稿した小説の反応は少なく、スマホを何度見ても変わらない数字に胸が沈んだ。
ぽん太の「自分にはこれができると言えるものが欲しい」という言葉が、自分の中にも深く残っていた。
でも、声に出したつもりはなかった。
「壁、薄すぎませんか」
こまちはごまかすように言った。
「声は聞こえない」
「じゃあ、何で分かったんですか」
「足音」
「足音?」
「元気がない日は、足音が軽い」
「軽いなら元気そうじゃないですか」
「違う。床に体重を預けていない音だ」
こまちは黙った。
ちくわの言っていることは、分かるようで分からない。
でも、何となく伝わってしまうのが不思議だった。
この人は、あまり喋らない。
でも、人のことを見ていないわけではない。
だんごのように大きな声で心配するわけではなく、すずめのように勢いよく踏み込むわけでもなく、ぽん太のように変な理屈で励ますわけでもない。
ちくわは、味噌汁を作る。
それだけで、そばにいる。
「……別に、落ちてないです」
こまちは言った。
ちくわはうなずいた。
「そうか」
それ以上、聞いてこなかった。
その沈黙に、こまちは少し救われた。
午前中、こまちは部屋で小説を書こうとした。
けれど、指が止まった。
第5ページのタイトルだけは決まっている。
『隣の味噌汁は泣ける味』
でも、その先が書けない。
味噌汁で泣くなんて、大げさだ。
自分の人生はそんなに劇的ではない。
泣けるほどの事件が起きたわけでもない。
ただ、小説が読まれない。
自信がなくなる。
自分が何者でもない気がする。
それだけだ。
それだけ。
そう言い聞かせるほど、胸の奥が重くなる。
こまちはスマホを開いた。
投稿サイトの画面を見る。
アクセス数は、昨日からほとんど増えていなかった。
ブックマークも変わらない。
感想もない。
「……まあ、そんなもんだよね」
声に出すと、余計に虚しかった。
何度も経験している。
期待して、画面を見て、何も変わっていなくて、落ち込む。
それでもまた書く。
書かなければ何も始まらないから。
でも、時々分からなくなる。
自分は、本当に書きたいのか。
それとも、書くことしか残っていないからしがみついているだけなのか。
こまちはパソコンを閉じた。
部屋の中が急に静かになった。
笑福荘の外では、誰かの自転車のブレーキ音がする。
遠くで犬が吠えている。
隣の部屋からは、かすかに包丁の音が聞こえる。
とん、とん、とん。
一定のリズム。
玉ねぎを切っている音だろうか。
こまちは布団の上に座り、膝を抱えた。
静かに暮らしたかった。
誰にも気にされず、誰にも期待されず、失敗しても一人で抱えていられる場所が欲しかった。
けれど、一人で抱えるということは、重さを全部自分だけで持つということでもある。
そんな当たり前のことに、こまちは今さら気づき始めていた。
昼過ぎ。
だんごが部屋の前まで来た。
「こまちちゃーん、商店街行くけど何かいる?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「プリンは?」
「大丈夫です」
「どら焼きは?」
「大丈夫です」
「大根は?」
「それは大家さんが買いたいだけですよね」
「ばれた?」
だんごは笑って去っていった。
そのあと、すずめが階段を駆け上がってきた。
「こまちさん! 今日、すごいことがありました!」
「何ですか」
「配達先を間違えませんでした!」
「それは普通です」
「でも私にとっては快挙です!」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
すずめは満足そうに走り去っていった。
ぽん太は、部屋の前で立ち止まった。
「こまちさん」
「何ですか」
「応募ボタン、押しました」
こまちは少し驚いた。
「本当ですか」
「はい。短時間の品出しのアルバイトです」
「すごいじゃないですか」
「押したあと、怖くなってスマホを布団の下に隠しました」
「なぜ」
「社会からの返信が怖いので」
「でも、押せたなら一歩ですね」
ぽん太は照れくさそうに笑った。
「昨日、こまちさんが言ってくれたので」
「私は大したこと言ってません」
「でも、僕には大したことでした」
そう言って、ぽん太は戻っていった。
こまちはドアの前に立ったまま、少しだけ胸が痛くなった。
誰かに言った言葉が、その人を少し動かすことがある。
それは怖いことでもあり、嬉しいことでもある。
自分の書いた物語も、誰かにとってそんなふうになれたらいい。
ずっとそう思っていた。
でも、届かない。
届いているのか分からない。
こまちは部屋に戻り、もう一度パソコンを開いた。
画面には、書きかけの文章があった。
けれど、やはり指は動かなかった。
夕方。
空が少し赤くなった頃、こまちのスマホが鳴った。
メールだった。
以前応募していた短編小説の選考結果。
こまちは息を止めた。
何度も見たことがある件名。
何度も味わった、胸の奥が冷える感覚。
開きたくない。
でも、開かなければずっと気になる。
こまちは震える指でメールを開いた。
『このたびはご応募いただきありがとうございました。
厳正なる審査の結果、誠に残念ながら――』
そこから先は、読まなくても分かった。
また、落ちた。
こまちはスマホを伏せた。
何も言葉が出なかった。
泣くほどではない。
叫ぶほどでもない。
机を叩くほど怒っているわけでもない。
ただ、体の真ん中に小さな穴が開いたみたいだった。
「……そっか」
それだけ言った。
落選なんて、珍しいことではない。
むしろ慣れている。
次を書けばいい。
また挑戦すればいい。
書き続ける人だけが、いつか何かを掴む。
そんな励ましの言葉は、いくらでも知っている。
自分でも何度も使ってきた。
でも今日は、どれも少し遠かった。
こまちはパソコンを閉じた。
部屋の電気もつけず、薄暗い中で座り込んだ。
壁の向こうから、鍋のふたが鳴る音がした。
少しして、ちくわの声がした。
「味噌汁、いる?」
こまちは返事をしなかった。
聞こえなかったふりをしようとした。
大丈夫です、と言えばよかった。
いりません、と言えばよかった。
でも、声が出なかった。
壁の向こうも、しばらく静かだった。
やがて、ちくわが言った。
「今日は、じゃがいもと玉ねぎ」
こまちは目を閉じた。
「少し甘い」
その説明が、なぜか胸にきた。
しばらくして、こまちは小さく言った。
「……いります」
声は、自分でも驚くほど弱かった。
数分後、部屋の前にお椀が置かれた。
こまちはドアを開けた。
そこには、湯気の立つ味噌汁があった。
でも、ちくわの姿はない。
お椀の横に、小さな紙が置かれていた。
『熱いうちに』
それだけだった。
こまちはお椀を持って部屋に戻った。
両手に伝わる温度が、思ったより熱かった。
一口飲む。
じゃがいもはほくほくしていた。
玉ねぎはやわらかく、少し甘い。
だしと味噌の香りが、胸の奥にじんわり広がっていく。
その瞬間、こまちは泣きそうになった。
味噌汁で泣くなんて、変だ。
落選で泣くなら分かる。
悔しさで泣くなら分かる。
自分の力のなさで泣くなら分かる。
でも、温かい味噌汁で泣きそうになるなんて、なんだか負けた気がした。
こまちは必死にこらえた。
しかし、涙は勝手ににじんできた。
「……おいしい」
小さな声で言った。
それだけで、涙がこぼれた。
声を上げて泣いたわけではない。
ただ、ぽろぽろと涙が落ちた。
味噌汁のお椀を両手で持ったまま、こまちはしばらく動けなかった。
その時、壁の向こうから、ちくわの声がした。
「しょっぱかったか」
こまちは泣きながら少し笑った。
「違います」
「じゃあ、よかった」
また沈黙。
ちくわは何も聞いてこなかった。
何があったのか。
どうして泣いているのか。
大丈夫か。
そういう言葉を、あえて言わなかった。
その代わりに、壁の向こうで小さな音がした。
たぶん、ちくわも味噌汁を飲んでいるのだろう。
一人で泣いているはずなのに、一人ではない気がした。
こまちは涙を拭いた。
「……落ちました」
ぽつりと言った。
壁の向こうは静かだった。
「小説の賞。落ちました」
言った瞬間、胸の中にたまっていたものが少しだけ外へ出た気がした。
ちくわは、しばらくしてから言った。
「そうか」
それだけだった。
でも、その「そうか」は、軽くなかった。
落ちたことを笑わない。
励ましすぎない。
次があるとも言わない。
才能がないわけじゃないとも言わない。
ただ、受け取ってくれた。
こまちはまた味噌汁を飲んだ。
「私、小説家って言っていいのか分からなくなるんです」
壁の向こうに向かって言う。
「本になってるわけでもないし、賞を取ったわけでもないし、読んでくれる人も少ないし。書いてますって言うたびに、自分で少し恥ずかしくなるんです」
ちくわは黙っていた。
「でも、やめるって思うと、それも怖いんです。小説を書かない自分に、何が残るんだろうって」
こまちは、そこまで言って驚いた。
こんなこと、誰にも言うつもりはなかった。
笑福荘に来る前なら、絶対に飲み込んでいた。
けれど、壁越しのちくわには言えた。
顔が見えないからかもしれない。
味噌汁が温かいからかもしれない。
何も急かされないからかもしれない。
少しして、ちくわが言った。
「味噌汁は、毎日うまくできるわけじゃない」
こまちは瞬きをした。
「味噌汁の話ですか?」
「そうだ」
「今ですか?」
「今だ」
ちくわは淡々と続けた。
「同じ味噌を使っても、だしが薄い日がある。具が煮えすぎる日もある。味がぼやける日もある」
「……はい」
「でも、作らないとうまくならない」
こまちはお椀を見つめた。
「誰かが飲まなくても、作った日は残る」
その言葉に、こまちは息を止めた。
ちくわは続ける。
「小説は知らない。でも、たぶん似ている」
こまちは何も言えなかった。
味噌汁と小説。
普通なら笑ってしまう組み合わせだ。
でも、ちくわが言うと、不思議とまっすぐ届いた。
誰かが読まなくても、書いた日は残る。
うまくいかない日も、失敗した日も、作り続けることでしか近づけないものがある。
こまちは、お椀の中のじゃがいもを見つめた。
「……ちくわさん」
「何だ」
「今の、ちょっと名言っぽかったです」
「味噌汁だからな」
「理由になってません」
こまちは泣きながら笑った。
その笑い声を聞いたのか、廊下の向こうから足音がした。
「こまちちゃーん?」
だんごの声だ。
こまちは慌てて涙を拭いた。
「大丈夫です!」
「本当に?」
「本当に!」
「味噌汁飲んでる?」
「飲んでます!」
「なら大丈夫ね!」
「判断基準が味噌汁なんですね!」
だんごはそれ以上入ってこなかった。
すずめの声も聞こえる。
「こまちさん、泣いてるんですか?」
「泣いてません!」
「声が泣いてます!」
「配達行ってください!」
「今日はもう終わりました!」
「じゃあ寝てください!」
ぽん太の声もした。
「こまちさん、落ち込んだ時は節約です。涙は無料です」
「黙っててください!」
「はい!」
廊下の向こうで、みんなが小さく笑った。
こまちは恥ずかしくてたまらなかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
泣いていることを知られるのは、ずっと怖かった。
弱っている自分を見られるのが嫌だった。
誰かに心配されると、申し訳なくて逃げたくなった。
でも笑福荘の人たちは、こまちを深刻に扱いすぎなかった。
味噌汁を出して、少し笑って、いつもの調子で近くにいる。
それが、ちょうどよかった。
こまちは味噌汁を最後まで飲んだ。
お椀の底が見える頃には、涙は止まっていた。
それから、こまちはパソコンを開いた。
落選メールはまだスマホの中にある。
結果は変わらない。
悔しさも消えない。
でも、何かを書きたいと思った。
こまちは新しいページを開いた。
『第5ページ 隣の味噌汁は泣ける味』
タイトルを打ち込む。
そして、ゆっくり書き始めた。
『落ちた夜、彼女は泣かないつもりだった。
泣いたら、自分が本当に傷ついていると認めてしまうから。
けれど、隣の部屋から届いた味噌汁は、彼女の強がりをあっさりほどいた。』
指が動く。
少しずつ、言葉が戻ってくる。
落ちた。
悔しい。
苦しい。
恥ずかしい。
それでも、書きたい。
そう思えるうちは、まだ終わっていないのかもしれない。
夜が深くなる頃、こまちは書いた文章を読み返した。
うまいかどうかは分からない。
誰かに届くかどうかも分からない。
でも、今の自分にしか書けないもののような気がした。
こまちは空になったお椀を持って、隣の部屋の前に立った。
ドアをノックする。
「ちくわさん」
中から、低い声がした。
「何だ」
「味噌汁、ごちそうさまでした」
「うまかったか」
「はい」
「ならいい」
それで会話は終わりそうだった。
でも、こまちはもう少しだけ言いたくなった。
「あと……ありがとうございました」
中は静かだった。
少しして、ちくわが言った。
「また作る」
こまちは笑った。
「はい」
部屋に戻ろうとした時、一階からだんごの声がした。
「こまちちゃーん!」
「何ですか!」
「明日の夜、洗濯機の順番決め会議するからねー!」
「洗濯機の順番で会議?」
「ついでに人生相談も受け付けまーす!」
「ついでが重いです!」
廊下の向こうで、すずめが笑う声がした。
「私、相談あります!」
ぽん太も言う。
「僕も社会から返信が来たら相談します!」
ちくわが隣の部屋から静かに言った。
「洗濯機には優しくしろ」
「五郎ですか?」
「五郎だ」
こまちは思わず笑った。
泣いたあとの顔で、笑った。
笑福荘の夜は、やっぱり騒がしい。
けれど、その騒がしさの中に、自分の涙がそっと混ざっても、誰も変に扱わなかった。
それが、こまちには少し嬉しかった。
部屋に戻ったこまちは、ノートに一文を書き足した。
『泣いた日は、味噌汁を飲む。』
笑福荘の決まりの五番目。
最初に見た時は、変な決まりだと思った。
でも今なら、少し分かる。
泣いた日は、正しい言葉より温かいものが必要なのだ。
励ましより、湯気が必要な夜があるのだ。
こまちはパソコンを閉じ、布団に入った。
胸の痛みはまだある。
落選した事実も消えない。
明日になれば、また不安になるかもしれない。
それでも、今夜は眠れそうだった。
隣の部屋から、鍋を片付ける音がする。
一階から、だんごの鼻歌がする。
どこかで、ぽん太が「応募先から返信が来たらどうしよう」と独り言を言っている。
すずめが「明日は絶対に誤配達しない」と宣言している。
こまちは目を閉じた。
ここに来てから、静かな夜は少ない。
でも、寂しい夜も少し減った。
そして翌日。
共同の洗濯機の前で、笑福荘らしい、くだらなくて少し本気の人生相談所が開かれることになる。
第5ページでは、落選メールに傷ついたこまちが、ちくわの味噌汁をきっかけに少しだけ本音をこぼしました。
ちくわは多くを語らず、ただ温かい味噌汁と言葉でこまちの心を受け止めます。
こまちは、弱さを見せても笑ってそばにいてくれる笑福荘の住人たちに、少しずつ心を開き始めました。
次回は、共同洗濯機の前で住人たちの本音があふれる「洗濯機前、人生相談所」です。




