節約王ぽん太、散る
プリン裁判の翌日、笑福荘に新たな宣言が響き渡る。
それは、八戸ぽん太による「一ヶ月食費千円生活」だった。
節約を愛し、節約に裏切られ、節約でなぜか出費を増やしていく男の、悲しくも笑える挑戦が始まる。
プリン裁判の翌日、笑福荘は平和だった。
少なくとも、朝の八時までは。
こまちは、部屋の小さな机に向かって小説を書いていた。
昨日の「消えたプリン裁判」は、思いのほか筆が進んだ。書いている途中で何度も笑ってしまい、自分でも少し悔しかった。
だんごが自分で食べたプリンのために裁判を開く。
ぽん太が「幸せの価格調査」と言い張る。
すずめが検察なのに容疑者になる。
ちくわが味噌汁で心を包もうとする。
まともな登場人物が一人もいない。
その中に自分も含まれている気がして、こまちは少しだけ不安になった。
笑福荘に来てから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、自分の生活は明らかに騒がしくなった。
朝は誰かの声で起こされ、共同台所に行けば誰かがいて、冷蔵庫のプリンひとつで裁判が開かれる。
静かな暮らしを望んでここへ来たはずなのに、こまちは最近、静けさの中に戻るのが少しだけ物足りなくなっていた。
「……いや、だめだ」
こまちはキーボードの上で手を止めた。
「慣れちゃだめ。私は静かに暮らしたい人間。騒がしい日常に染まってはいけない」
自分に言い聞かせる。
その時だった。
「皆さん! 重大発表があります!」
廊下の向こうから、ぽん太の声が響いた。
こまちは天井を見上げた。
「……染まる前に向こうから来る」
しばらく無視しようとした。
だが、ぽん太の声はだんだん近づいてくる。
「こまちさん! 重大発表です!」
「聞こえてます」
「聞こえてるなら来てください!」
「聞こえてることと行くことは別です」
「これは笑福荘の未来に関わる発表です!」
「どうせ個人的な節約の話ですよね」
ドアの向こうで、ぽん太が沈黙した。
「……なぜ分かったんですか」
「あなたの重大発表は、だいたい節約だからです」
こまちはため息をつき、部屋を出た。
共同台所には、すでにだんご、すずめ、ちくわが集まっていた。
なぜか、中央にはホワイトボードが置かれている。
どこから持ってきたのだろう。
ぽん太はその前に立ち、首から電卓を下げ、額には「節」と書かれた鉢巻きを巻いていた。
「その鉢巻きは何ですか」
こまちが聞くと、ぽん太は胸を張った。
「覚悟です」
「字が一文字だけだと、節分みたいですね」
「節約の節です!」
すずめが元気に拍手した。
「ぽん太さん、なんだかすごそうです!」
「すずめちゃん、まだ何も始まってないわよ」
だんごが笑いながら言う。
ちくわは味噌汁を飲んでいた。
朝から安定している。
ぽん太はホワイトボードに大きく書いた。
『一ヶ月食費千円生活』
その場が静まり返った。
こまちはすぐに言った。
「無理です」
「早い!」
ぽん太が叫ぶ。
「せめて説明を聞いてください!」
「説明を聞く前から無理です」
「夢を否定しないでください!」
「命の心配をしています」
だんごも腕を組んだ。
「一ヶ月千円はちょっと厳しいわねえ」
すずめが指を折りながら計算する。
「一日……えっと……三十円くらいですか?」
「約三十三円です」
ぽん太が誇らしげに言った。
「一日三十三円で何を食べるんですか」
こまちが聞く。
「空気」
「昨日それで失敗しましたよね」
「空気だけでは難しいと分かりました。だから今回は、空気を主食ではなく副菜にします」
「食卓に空気を並べないでください」
ぽん太は真剣な表情で説明を始めた。
「作戦は三つあります。第一に、もやし。安くて量がある。第二に、パンの耳。店によっては格安で手に入る。第三に、試食」
「三つ目、店に迷惑をかけるやつです」
「違います。社会との交流です」
「言い換えがひどい」
すずめが感心したように言う。
「でも、ぽん太さん、すごいです! 本当にできたら節約王ですね!」
その言葉に、ぽん太の目が輝いた。
「節約王……」
「やめてください、すずめさん。変な称号を与えると本気になります」
こまちが止めたが、遅かった。
ぽん太はホワイトボードに大きく書き足した。
『目指せ、節約王』
だんごが笑う。
「じゃあ、応援するわ。無理はしないこと。倒れたらだめよ」
「大丈夫です。節約とは、生活を削ることではありません。無駄を削ることです」
珍しくまともなことを言った。
こまちは少しだけ見直しかけた。
しかし、ぽん太は続けた。
「つまり、食欲は無駄です」
「違います」
見直すのをやめた。
こうして、ぽん太の一ヶ月食費千円生活が始まった。
一日目。
ぽん太は朝から自信満々だった。
共同台所に立ち、もやし一袋を掲げている。
「本日の朝食、昼食、夕食です」
「一袋で三食ですか」
「はい。もやしは可能性の塊です」
「栄養の偏りは可能性では埋まりませんよ」
こまちが言うと、ぽん太はもやしを鍋に入れた。
味付けは塩だけ。
ちくわが横から静かに見ていた。
「味噌を入れるか」
「いえ、味噌は高級なので」
「少しならいい」
「でも、それでは僕の節約道が」
ちくわは無言で味噌を少し入れた。
ぽん太は一口食べた。
「……おいしい」
「でしょうね」
「味噌は偉大です」
ちくわはうなずいた。
「分かればいい」
初日は、なんとか成功した。
ぽん太は空腹を訴えながらも、もやし味噌汁で一日を終えた。
しかし、問題は二日目に起きた。
ぽん太はパンの耳を求めて、近所のパン屋へ向かった。
こまちは買い物に行く途中、偶然その様子を見かけた。
パン屋の前で、ぽん太は真剣な顔で店員に尋ねていた。
「パンの耳、ありますか?」
店員は優しく答えた。
「ありますよ。一袋五十円です」
「五十円……」
ぽん太の顔が輝く。
「ください!」
そこまではよかった。
しかし、パン屋の中には焼きたてのカレーパンが並んでいた。
香ばしい匂い。
揚げたての衣。
中からあふれるカレー。
ぽん太の足が止まる。
こまちは嫌な予感がした。
「ぽん太さん」
「こまちさん……」
「買っちゃだめですよ」
「でも、匂いが僕を呼んでいます」
「呼んでません。売ってるだけです」
「カレーパンは、節約生活の敵です」
「分かってるなら離れてください」
「敵を知るためには、食べる必要があります」
「ありません」
数分後。
ぽん太はパンの耳一袋と、カレーパン五個を持って店を出てきた。
「なぜ五個」
「一個買うより、五個買った方が満足度が高いと思って」
「出費も高いです」
「でも、心は満たされました」
「食費千円生活、二日目でほぼ終わってませんか?」
ぽん太は遠い目をした。
「これは必要経費です」
「何の?」
「人間らしさの」
こまちは何も言えなかった。
その日の夜、笑福荘では緊急節約反省会が開かれた。
だんごはカレーパンを一つ手に取って言った。
「おいしいわね、これ」
「食べてる場合ですか」
こまちが言うと、だんごは笑った。
「だって、ぽん太ちゃんがみんなにもって言うから」
ぽん太はしょんぼりしていた。
「一人で五個食べるより、みんなで食べた方が罪悪感が減ると思って」
「出費は減りませんけどね」
すずめはカレーパンを食べながら言った。
「でも、ぽん太さんのおかげで幸せです!」
「それはよかった……」
ぽん太は少しだけ救われた顔をした。
ちくわはカレーパンを見つめ、静かに言った。
「味噌とは合わない」
「何でも味噌基準で考えないでください」
三日目。
ぽん太は昨日の失敗を取り戻すため、さらに厳しい節約計画を立てた。
「今日は、一日水だけで過ごします」
「やめてください」
こまちは即座に止めた。
「では、水ともやし」
「少し戻っただけですね」
「では、水ともやしと気合い」
「気合いは栄養素ではありません」
だんごも心配そうに言った。
「ぽん太ちゃん、無理はだめよ。節約で体を壊したら、病院代の方が高くつくわよ」
ぽん太ははっとした顔をした。
「たしかに……病院代は高い」
「そこに反応するんですね」
「健康は最大の節約」
「それはまともです」
しかし、ぽん太は極端だった。
「つまり、健康になるために栄養を取る必要があります」
「そうですね」
「栄養を取るには、肉が必要です」
「まあ、必要な時もありますね」
「肉といえば、牛肉です」
「急に高くなりましたね」
その日の夕方、ぽん太はスーパーで半額シールの貼られた牛肉を買ってきた。
そして、もやし鍋に投入した。
「これは節約鍋です」
こまちは鍋をのぞいた。
「牛肉入ってますけど」
「半額です」
「半額でも、もやしより高いです」
「でも、心の栄養価が高い」
「また心で逃げてる」
ぽん太は牛肉入りもやし鍋を食べ、幸せそうに目を閉じた。
「生きてる……」
その言葉に、だんごが笑った。
「よかったじゃない。節約より大事なことよ」
「でも、僕は節約王になれないかもしれません」
ぽん太はしょんぼりした。
こまちは少しだけ言葉に詰まった。
笑える失敗ばかりだと思っていた。
でも、ぽん太の落ち込み方は、少し本気だった。
その夜、こまちは部屋で小説を書こうとしたが、ぽん太のことが気になっていた。
節約王。
食費千円。
無謀な挑戦。
ばかばかしい。
けれど、ぽん太は真剣だった。
なぜそこまで節約にこだわるのだろう。
こまちは共同台所へ行った。
ぽん太はテーブルに座り、電卓を叩いていた。
「今月の食費、すでに千円を超えました」
「三日目ですよね」
「はい」
「逆にすごいですね」
ぽん太はうなだれた。
「僕は何をやっても中途半端なんです」
こまちは黙った。
ぽん太の声は、いつものふざけた調子ではなかった。
「仕事も長続きしないし、何か始めてもすぐ失敗するし。節約なら、僕にもできると思ったんです。お金を使わないだけなら、才能がなくてもできるかなって」
こまちは、少し驚いた。
ぽん太は続ける。
「でも、節約すらできない。カレーパンに負けるし、牛肉に負けるし、無料プリンに喜びすぎるし」
「無料プリンは、みんな喜んでましたよ」
「こまちさんも?」
「少しは」
ぽん太は小さく笑った。
「僕、何か一つでいいから、自分はこれができるって言えるものが欲しいんです」
共同台所の蛍光灯が、少しだけちらついた。
笑福荘の空気が、珍しく静かになる。
こまちは、何と返せばいいか分からなかった。
自分も似たような気持ちを知っていたからだ。
小説を書いている。
そう言っても、胸を張れない。
賞を取ったわけでも、本になったわけでもない。
自分にはこれがある、と言いたいのに、結果がないと急に声が小さくなる。
ぽん太の「節約王になりたい」は、少し形は変でも、自分の「小説家になりたい」と似ているのかもしれない。
「ぽん太さん」
「はい」
「節約って、我慢だけじゃないんじゃないですか」
「え?」
「よく分からないですけど……お金を使わないことだけを目標にしたら、苦しくなる気がします。必要なものにちゃんと使って、無駄なものを減らす方が、長く続くんじゃないですか」
言いながら、こまちは自分でも偉そうだと思った。
お金に余裕があるわけでもないのに、節約を語っている。
でも、ぽん太は真剣に聞いていた。
「つまり、カレーパンは?」
「五個は無駄です」
「一個なら?」
「たまにはいいんじゃないですか」
「牛肉は?」
「毎日は無理です」
「無料プリンは?」
「ありがたく食べればいいと思います」
ぽん太は少し考えたあと、電卓を置いた。
「こまちさん、僕の節約参謀になってください」
「嫌です」
「即答!」
「私、自分の生活で精いっぱいなので」
「では、節約監修」
「もっと嫌です」
「節約友情出演」
「何ですかそれ」
ぽん太は笑った。
いつもの調子が少し戻った。
そこへ、だんごがやってきた。
手には鍋を持っている。
「二人とも、夜食いる?」
「夜食は節約の敵です」
ぽん太が言った。
だんごは鍋のふたを開けた。
「大根の煮物よ」
「……少しなら」
「負けるの早いですね」
こまちが言うと、ぽん太は真面目な顔で答えた。
「大根は低価格で栄養もある。これは節約的に正しい判断です」
「たぶん食べたいだけですよね」
「はい」
三人で大根の煮物を食べていると、すずめが帰ってきた。
「ただいまー!」
元気な声が共同台所に響く。
だんごがすぐに返す。
「おかえりー!」
こまちはそのやり取りを聞きながら、煮物を口に運んだ。
甘辛い味が染みている。
少し濃いけれど、疲れた体にはちょうどよかった。
ぽん太は大根を食べながら、ふと顔を上げた。
「僕、働こうかな」
こまちは箸を止めた。
だんごも、すずめも、ちくわも、ちょうど共同台所に入ってきたところで足を止めた。
「どうしたの、急に」
だんごが聞く。
ぽん太は照れくさそうに頭をかいた。
「節約だけで何とかしようとするより、まず収入を作った方がいいのかなって」
こまちはうなずいた。
「一番現実的ですね」
「こまちさん、言い方」
「でも、いいと思います」
ぽん太は少し笑った。
「いきなり正社員とかは無理かもしれないけど、短時間のアルバイトから探してみます。節約王になる前に、生活王になります」
「生活王」
すずめが拍手した。
「いいですね! 生活してるだけで王様です!」
「それは少し違う気がします」
ちくわが静かに言った。
「働いた日は味噌汁がうまい」
「ちくわさん、名言みたいです」
「味噌汁は裏切らない」
「名言が味噌汁に寄りすぎてる」
翌朝。
ぽん太は新しい宣言をした。
「一ヶ月食費千円生活は終了します」
「早いですね」
こまちが言うと、ぽん太は力強くうなずいた。
「しかし、完全な敗北ではありません。僕は学びました」
「何を?」
「節約とは、人生を貧しくすることではない。暮らしを整えることだと」
だんごが嬉しそうに笑った。
「いいこと言うじゃない」
「そして、カレーパンは五個買うと高い」
「そこは最初から分かってほしかったです」
「牛肉は半額でも牛肉」
「それもそうですね」
「無料プリンは最高」
「そこは変わらないんですね」
ぽん太はホワイトボードの文字を消した。
そして、新しく書いた。
『目指せ、生活王』
こまちはその文字を見て、少し笑った。
節約王ぽん太は、三日で散った。
けれど、散った場所から何かが少し芽を出したようにも見えた。
その日の午後、こまちは部屋で小説を書いた。
『節約王は、カレーパン五個で敗北した。
しかし、彼は負けたことで、自分に足りなかったものを少しだけ知った。
人は、何かを削るだけでは生きていけない。
時々、誰かと煮物を食べるための余白も必要なのだ。』
書き終えた時、こまちは少しだけ胸が温かくなった。
笑福荘の住人たちは、みんな変だ。
だんごは近すぎる。
すずめは元気すぎる。
ぽん太は無謀すぎる。
ちくわは味噌汁に寄りすぎている。
でも、変だからこそ、誰かの失敗を笑って終わらせない。
笑いながら、ちゃんと拾う。
くだらないと言いながら、ちゃんと隣に座る。
こまちは、そんな場所を少しだけ羨ましいと思った。
夜になり、こまちは自分のスマホを見た。
投稿した小説の結果は、まだ何も動いていない。
アクセス数も少ない。
感想もない。
少しだけ、胸が沈む。
いつものことだ。
慣れている。
気にしない。
そう思おうとした時、隣の壁から低い声がした。
「味噌汁、いる?」
ちくわだった。
こまちは壁を見た。
「……今日は、何の具ですか」
「豆腐とねぎ」
「普通ですね」
「普通がいい日もある」
こまちは少し黙った。
そして、小さく答えた。
「……少し、ください」
数分後、部屋の前に味噌汁が置かれていた。
こまちはお椀を手に取り、湯気を見つめた。
ぽん太の節約失敗でたくさん笑った一日だった。
でも、その笑いの奥に、自分にも刺さるものがあった。
何か一つでいいから、自分にはこれができると言いたい。
ぽん太の言葉は、まだ胸の中に残っている。
こまちは味噌汁を一口飲んだ。
温かかった。
笑福荘の夜は、昼間の騒がしさが嘘みたいに静かだった。
でも、完全な静けさではない。
どこかでだんごが鼻歌を歌っている。
すずめが電話で今日の配達の話をしている。
ぽん太が求人サイトを見ながら「時給ってありがたい」とつぶやいている。
そして隣には、味噌汁を作る人がいる。
こまちはお椀を両手で包みながら、ふと思った。
もしかしたら、自分はずっと、こういう温度を避けてきたのかもしれない。
誰かの失敗を笑う声。
誰かを心配する声。
何でもない日に差し出される味噌汁。
面倒くさい。
近すぎる。
騒がしい。
それでも、今夜の味噌汁は、少し泣ける味がした。
こまちはまだ知らない。
次の日、自分が本当に泣きそうになる夜に、隣の味噌汁がどれほど心にしみるのかを。
第4ページでは、ぽん太が「節約王」を目指して無謀な食費千円生活に挑戦しました。
カレーパンや牛肉に負けながらも、ぽん太は少しだけ自分の生き方を見直します。
こまちもまた、ぽん太の失敗を笑いながら、自分自身の夢や不安と重ね始めました。
次回は、ちくわの味噌汁がこまちの心を静かにほどいていきます。




