第94話 断絶②
翌朝――
帝国学院。
朝日が校舎を黄金色に染め、生徒たちの賑やかな声が中庭へ響いていた。
昨日と変わらない平和な朝。
……そのはずだった。
「おはようございます、ライトさん」
柔らかな声と共に、翡翠色の髪を揺らしてリリアナが歩み寄ってくる。
「おはようございます、リリアナさん」
自然な笑顔で返すライト。
その光景を見た周囲の生徒達は、一斉にざわめいた。
「また一緒だ……」
「昨日もずっと話してたよな?」
「王女様と普通に会話してるぞ……」
「あいつ、魔王国の奴だろ……」
本人はまるで気にしていない。
「昨日の術式なんですけど」
ライトはノートを開く。
「帰ってから少し改良してみたんです」
「もうですか?」
「寝る前に思いついちゃって」
リリアナが術式を覗き込む。
そして数秒後。
「……また進化していますね」
「え?」
「風の循環術式が三重構造になっています」
「その方が安定するかなって」
「普通はそんな発想になりません……」
思わず苦笑した。
本当に、この少年の頭の中はどうなっているのだろう。
◇
二人はそのまま演習場へ向かう。
途中、小さな池の前を通り掛かった時だった。
池の水面が不意に波紋を広げる。
サァァァ……
風が吹く。
花びらが二人の周囲を舞い上がった。
「また……」
リリアナの首飾りが淡く光る。
昨日よりも強い。
昨日は”歓迎”だった。
今日は違う。
まるで誰かが喜んでいる。
(姉様……?)
そんな考えが頭を過ぎる。
その時だった。
「リリアナさん?」
「はい?」
「なんか風、嬉しそうですね」
「……!」
リリアナが固まる。
「分かるんですか?」
「いや、何となくですけど」
ライトは笑った。
「今日は昨日より暖かい感じがするというか」
リリアナは思わず息を呑む。
(そんな……)
精霊の感情。
本来、人族には感じ取れない。
ましてライトには風属性の適性すらない。
なのに。
「ライトさんは……精霊が見えるのですか?」
「全然」
「じゃあ聞こえる?」
「それもないです」
「じゃあどうして……」
「勘です?」
「勘……」
リリアナは額へ手を当てた。
この人は本当に規格外だ。
◇
少し離れた場所。
ルミナスとエリオスは、その様子を静かに見守っていた。
「見た?」
「ええ」
エリオスが頷く。
「リリアナは気付いたようですね」
「うん」
ルミナスは表情を引き締める。
「ライト君は無意識に風と会話している」
「本来ならあり得ない」
「精霊契約者でもないのに」
エリオスが静かに言う。
「レガリア同士の共鳴でしょうか」
「……恐らく」
ルミナスは遠く空を見上げた。
「光と闇」
「そして風」
「三つの運命が近付き始めている」
その時だった。
学院上空を、一羽の黒い鳥が横切る。
ルミナスの瞳が細くなる。
「……来たか」
◇
帝都ネメシア。
裏路地。
黒い外套の男が一軒の古びた酒場へ入る。
店内には客が一人もいない。
カウンター奥の老人が静かに口を開く。
「合言葉は」
「黒曜は夜を統べる」
「……入れ」
地下への隠し扉が開く。
そこには十数名の男女が集まっていた。
全員が黒曜石の徽章を胸へ付けている。
王国工作部隊。
その中央に立つのは、昨日学院を監視していた男だった。
「報告」
「対象ライト・グランフェル」
「第二王女との信頼関係、急速に進行」
部屋が静まり返る。
一人の女工作員が笑う。
「予想以上ね」
「ええ」
男は続ける。
「予定を繰り上げます」
机へ一枚の地図を広げる。
そこには帝国学院周辺が細かく記されていた。
「コード《断絶》第一段階」
「学院内へ偽情報を流します」
「狙いは?」
「リリアナ・シルヴェル」
男は冷たく笑った。
「“ライトが王国の間者である”という噂です」
「……!」
「もちろん証拠はありません」
「ですが、人は真実ではなく、不安を信じます」
別の工作員が頷く。
「王女が揺らげば十分」
「帝国、そして魔王国とシルヴァリスの間にも疑念が生まれる」
「その僅かな亀裂が、やがて大きな断絶となる」
「仕上げとして、あの国へ軍を進める…..断絶の完成だ」
全員が静かに笑った。
黒曜計画――《断絶》
その第一手が、ついに放たれようとしていた。
◇
一方、その頃。
学院演習場では。
「いきます!」
リリアナが風を纏う。
「風精――」
その瞬間。
ライトが手を伸ばした。
「そこ、一文字だけ変えてみません?」
「え?」
「流れを逆回転にすると、多分もっと魔力消費が減ります」
「そんなことで……」
半信半疑で術式を書き換える。
「……!」
風が変わった。
今まで以上に滑らかに。
自然に。
魔力消費は半分以下。
「成功……」
リリアナは呆然と呟く。
「一瞬で……改良した……?」
ライトは首を傾げる。
「違いました?」
「違いません……」
「むしろ完璧です」
思わず笑みがこぼれる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
ライトも笑う。
「風魔法って、本当に面白いですね」
その無邪気な笑顔を見た瞬間。
リリアナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
(姉様)
(あなたが導いてくれたのでしょうか)
(この人に会うために)
春風が優しく吹き抜ける。
誰も知らない。
その穏やかな学院の空へ、すでに王国が放った”疑惑”という名の黒い種が運ばれ始めていることを。
その種はまだ小さい。
だが、一度芽吹けば、人の心を蝕むには十分だった。
そして黒曜計画《断絶》は、静かに、確実にその牙をライトへ向け始めていた。




