第89話 リリアナ•シルヴェル
学院長室。
リリアナは温かい紅茶を一口飲み、小さく息を吐いた。
久しぶりに会った叔母と叔父。
少しだけ張り詰めていた気持ちが和らぐ。
しかし。
本題はここからだった。
『叔母様』
『何だい?』
『帝国は姉様について何か掴んでいるのですか?』
静かな問い。
ルミナスとエリオスは視線を交わした。
そして。
ルミナスが静かに口を開く。
『まだ確証はない』
『だけど』
『学院襲撃事件の日』
『妙なことが起きた』
リリアナが眉を寄せる。
『妙なこと?』
『風の魔力が暴れた』
『……!』
『ほんの一瞬だけ』
『世界樹に匹敵するほど巨大な風属性反応が現れた』
リリアナの瞳が見開かれる。
『そんな……』
それはあり得ない。
風のレガリアは姉だけ。
他にそんな魔力を放てる存在などいない。
『場所は?』
『ここ、帝国学院』
『……』
リリアナは黙り込んだ。
『その場に居た人物の一人が』
ルミナスは笑った。
『さっき話した”面白い子”だよ』
『その方が?』
『うん』
『事件の中心人物』
『そして』
エリオスが肩を竦める。
『多分、この学院で一番問題児かな』
『問題児……?』
『本人は至って真面目なんだけどね』
『周囲が勝手に事件になる』
『それは問題児では?』
『否定できない』
三人が苦笑する。
◇
『彼の名前は』
ルミナスが言う。
『ライト・グランフェル』
その瞬間だった。
ビュォォォォ……
窓から風が吹き込む。
リリアナの長い翠髪が揺れる。
そして。
胸元に下げていた翡翠の首飾りが淡く光った。
『……!?』
リリアナが思わず立ち上がる。
『姫様?』
『今……』
鼓動が速い。
何だろう。
この感覚は。
神樹の加護とは違う。
もっと。
もっと根源的な。
『風が……』
彼女の瞳が学院のどこかを見つめる。
『誰かを歓迎している……?』
◇
その頃。
学院演習場。
『もう一回!』
『ハイ』
ズドォォォン!!
土煙が舞い上がる。
『いや強い強い強い!!』
ライトは地面を転がった。
マキナが首を傾げる。
『ゴシュジンサマ』
『マダヨユウガアリマス』
『いや限界だから!』
『マダ20パーセントホドアゲラレマス』
『怪我するわ!!』
『ツギハオウフクビンタモードニ』
『そんなモード消せ!!』
演習場の隅では。
教員達が頭を抱えていた。
『あれで訓練なのか……』
『学院長が止めないからなぁ』
『いや止められないんだろ』
『納得した』
◇
その様子を。
少し離れた校舎の窓から。
一人の少女が見ていた。
リリアナだった。
『あの人……?』
演習場を駆け回る銀髪の少年。
何度吹き飛ばされても笑って立ち上がる。
そして。
隣には銀髪の少女?
『……普通の人間?』
なのに。
胸元の翡翠の首飾りが。
先ほどよりも強く輝き始める。
トクン。
トクン。
トクン。
鼓動が重なる。
『そんな……』
リリアナは目を見開いた。
風のレガリアが、あの少年へ反応している。
あり得ない。
風属性でもない。
エルフですらない。
なのに。
『どうして……』
その瞬間。
ライトがこちらへ振り返った。
偶然。
本当に偶然。
二人の視線が交わる。
『ん?』
ライトは首を傾げる。
『……誰だ?』
校舎の窓際。
翡翠色の髪を揺らす、一人のエルフの少女。
美しい。
それが最初の感想だった。
まるで一枚の絵画から抜け出してきたような存在。
だが。
少女の方は違った。
『…………』
言葉を失っていた。
胸元の翡翠の首飾り。
神樹の加護を受けた王家の秘宝。
それが今までにないほど強く輝いている。
『まさか……』
そんなはずはない。
風のレガリアだけが反応するはずの宝玉。
それが。
風とは無関係のはずの少年へ反応している。
あり得ない。
◇
『リリアナ様?』
背後から侍女が声を掛ける。
『お時間です』
『あ……はい』
リリアナは慌てて視線を逸らした。
しかし。
胸の鼓動だけは収まらない。
(あの人は……)
学院長が言っていた。
“面白い子”
まさか。
これほどとは思っていなかった。
◇
演習場。
『ライト君』
ルミナスが歩いてきた。
『学院長』
『訓練はそこまで』
『え?』
『お客様だ』
『お客様?』
ライトが首を傾げる。
『神樹の国シルヴァリス第二王女』
『リリアナ・シルヴェル』
『君に紹介したい』
『…………は?』
思考が止まる。
『王女様?』
『うん』
『なんで俺に?』
『私にも分からない』
『分からないの!?』
ルミナスは苦笑した。
『でも』
『きっと会わせるべきだと思った』
『勘ですか?』
『長生きするとね、勘が当たるんだよ』
『説得力あるような無いような……』
◇
数分後。
学院の中庭。
春風が木々を揺らす。
ルミナスとエリオス。
そして。
向かい合う二人。
ライト・グランフェル。
リリアナ・シルヴェル。
『紹介するよ』
『ライト君』
『こちらが神樹の国第二王女』
『リリアナ・シルヴェル』
『リリアナ』
『こちらがライト・グランフェル』
『初めまして』
ライトは自然に頭を下げた。
リリアナはゆっくりとライトへ視線を向けた。
そして――
息を呑んだ。
(え……)
言葉が出ない。
天上の光を織り込んだような銀髪。
透き通るような白い肌。
均整の取れた顔立ち。
そして、どこか神秘的ですらある蒼い瞳。
それは人族の美しさではなかった。
長命種であるエルフは、美しいものを見慣れている。
神樹の祝福を受けた王族。
歴史に名を残す英雄。
数百年を生きる精霊種。
その誰よりも整った容姿を持つ者たちを見てきた。
だが――
(こんな方……見たことがありません……)
完成され過ぎている。
美しいというより。
“神が意図して創り上げた芸術品”
そんな表現の方が近かった。
王族として培われた平静さが、一瞬だけ崩れる。
思わず見惚れてしまった自分に気付き、慌てて視線を逸らす。
(な、何を考えているのですか私は……!)
頬がほんのり赤く染まる。
その様子を見ていた侍女達も、小さく息を呑んでいた。
『姫様が……』
『殿方を見て固まられた……?』
『初めて見ました……』
誰もが驚きを隠せない。
エルフは美しい。
それは世界共通の認識だ。
しかし、そのエルフ達が思わず見惚れるほど。
ライト・グランフェルという少年は、人の域を超えた美貌を持っていた。
『帝国学院初等課のライト・グランフェルです』
王女相手だからと気負う様子はない。
普段通り。
その姿を見て。
リリアナは少しだけ驚く。
(普通……)
もっと貴族らしく取り繕うと思っていた。
だが。
目の前の少年は違う。
飾らない。
自然体。
それでいて。
どこか底知れない空気を纏っている。
『初めまして』
リリアナも優雅に一礼した。
『神樹の国シルヴァリス第二王女、リリアナ・シルヴェルです』
その瞬間。
ビュォォォ……
柔らかな風が吹いた。
花びらが二人の間を舞う。
そして。
リリアナの首飾りが再び淡く輝いた。
『……っ』
思わず胸元を押さえる。
ライトは気付く。
『大丈夫ですか?』
『え……ええ』
『少し驚いただけです』
(また……)
近付けば近付くほど。
風が騒ぐ。
まるで。
『会いたかった』
そう語り掛けてくるようだった。
◇
『ライト君』
ルミナスが口を開く。
『実はリリアナは風魔法の天才なんだ』
『へぇ!』
ライトの目が輝く。
『俺、風魔法ってほとんど見たことなくて』
『色々教えてもらえませんか?』
あまりにも真っ直ぐな言葉。
打算も王女への遠慮もない。
あるのは純粋な好奇心だけ。
リリアナは少し目を丸くした。
そして、くすりと笑う。
『はい』
『私でよければ』
『本当ですか!?』
『ありがとうございます!』
その笑顔を見た瞬間、リリアナは確信した。
(この人は……)
王族だから近付くのではない。
英雄だから敬うのでもない。
目の前の相手を、一人の人として接している。
だからこそ。
こんなにも心地いい。
◇
少し離れた場所。
エリオスが静かに呟く。
『やっぱりか』
『うん』
ルミナスも頷く。
『二人とも気付いてない』
『でも』
『風が歓迎している』
エリオスの視線はライトへ向く。
『アイリシア』
『君は何を伝えようとしている?』
その答えは。
まだ誰にも分からない。
だが。
一つだけ確かなことがあった。
ライト・グランフェルとリリアナ・シルヴェル。
二人の出会いは偶然ではない。
風のレガリア。
そして光と闇のレガリア。
世界に七人しか存在しない”レガリア”たちの運命は、静かに、しかし確実に交わり始めていた。




