8話 「守るか、捨てるか、壊すか。」
空気が、止まっていた。
霧は濃い。
なのに、その中心だけが妙に澄んでいる。
音がない。
風も、揺れも、何もかもが遠い。
その中で——
二人だけが、向かい合っていた。
淡い紫の髪が、ゆるく揺れる。
風はない。けれど、揺れている。
距離は近い。
けれど、一歩がやけに遠い。
女は、ただこちらを見ていた。
観るように。
斜陽は、視線を逸らさない。
「……三日月か」
名前にした瞬間、
ほんのわずかだけ現実が戻る。
三日月は、少しだけ目を細めた。
「うん」
軽く頷く。
「三日月」
自分で、そう名乗る。
その声は、拍子抜けするほど柔らかい。
「久しぶりだな」
斜陽が言う。
短く。
だが、それだけで十分だった。
三日月は、楽しそうにする。
「……そうだね」
一歩、近づく。
いや——
気づけば、そこにいた。
距離が、自然に詰まる。
違和感だけが、残る。
「陽くん」
柔らかく呼ぶ。
その呼び方だけが、少しだけ特別に響く。
——次の瞬間。
音が、完全に消えた。
霧が、止まる。
空気が、固まる。
世界が、その場だけで切り取られる。
斜陽は、動かない。
いや、動けるはずなのに、動く必要がないと分かる。
三日月だけが、わずかに視線をずらす。
「……いるね」
小さく呟く。
斜陽ではない、別の方向へ。
霧の奥。
何もないはずの場所。
そこに——“ある”。
気配が、わずかに揺らぐ。
三日月は、そちらを見たまま、軽く首を傾ける。
「ふーん」
興味があるようで、ないような声。
「ちゃんと隠れてるつもりなんだ」
くす、と小さく笑う。
次の瞬間——
その“場所”に、視線が定まる。
正確に。
迷いなく。
「そこ」
指も差さない。
ただ、言うだけ。
それだけで十分だった。
そして——
止まっていた世界の中で、
ひとつだけ“流れ”が戻る。
霧が、わずかに揺れる。
影が、呼吸する。
三日月は、そちらを見たまま、楽しそうに言う。
「ねぇ、きみ」
「カゲロウくん、だっけ?」
三日月の視線が、霧の奥へ向けられる。
呼ばれた名に反応はない。
だが——そこに“いる”。
「………」
沈黙。
揺らぎすら、見せない。
「ふーん」
少しだけ目を細める。
「覗いてたの?」
「………」
返事はない。
ただ、気配だけがそこにある。
「まぁ、いいけど」
その瞬間——
三日月の姿が、消える。
霧が揺れるよりも自然に、
次の瞬間には、斜陽の背後に立っていた。
距離が、消える。
指先が、ゆっくりと持ち上がる。
——光。
細い刃のようなそれが、斜陽の首元に触れる寸前で止まる。
触れてはいない。
けれど、触れれば終わると分かる距離。
「君に守れるかな?」
軽い声。
刃とは、まるで釣り合わない。
「………」
カゲロウは、動かない。
「全然喋らないね」
少しだけ楽しそうに言う。
「……じゃあ」
三日月の声が、ほんの少しだけ落ちる。
空気が、わずかに張る。
「選べるよ」
刃が、わずかに揺れる。
「守るか」
一拍。
「捨てるか」
さらに一拍。
「壊すか」
視線だけが、カゲロウへ向く。
「どうする?」
静寂。
次の瞬間——
「侵蝕」
短く、言葉が落ちる。
同時に、黒い影が走る。
地面を這うように、空間ごと削るように、
三日月へと叩きつけられる。
だが——
当たらない。
三日月の姿が、滑る。
回避した、というより、
そこから“ずれた”。
影が通り抜けたあと、
ほんのわずかに——髪の先が消えていた。
紫が、一筋だけ、欠ける。
「すごいね」
三日月が、素直に言う。
興味を持った声。
「私に触れられるんだ」
消えた髪を、気にも留めない。
「で?」
首を傾ける。
「選ばないの?」
カゲロウは、わずかに視線を上げる。
「選ばないといけないのか?」
初めて、言葉が返る。
三日月の口元が、少しだけ緩む。
「やっとしゃべったね」
嬉しそうでもなく、ただ面白そうに。
「どっちでもいいよ」
軽く言う。
だが、目は逸らさない。
カゲロウは、一歩も動かない。
ただ、言う。
「守るだけだ」
一拍。
「その為に来た」
迷いはない。
それだけで、十分だった。
三日月は、ほんの少しだけ目を細める。
「君はそうだよね」
納得したように言う。
「守れるかは、別だけど」
さらりと落とす。
そのまま、視線が斜陽へ戻る。
「陽くん」
「なんだ?」
短く返す。
三日月は、くるりと向きを変える。
斜陽のすぐ後ろで、
カゲロウを視界に入れたまま。
「この子どうする?」
軽い声。
「壊しても問題なさそうだし」
一拍。
「壊してもいい?」
空気が、わずかに張る。
時間は、まだ歪んだまま。
斜陽は、何も言わない。
「………」
三日月は、その沈黙を一瞬だけ見つめる。
そして——
「まぁ、いいか」
あっさりと切る。
興味を、手放すみたいに。
カゲロウへ、視線だけを戻す。
「君、もういいよ」
三日月の声が、軽く落ちる。
その瞬間——
空気が、もう一度止まる。
音が消える。
風が、途切れる。
霧が、動きを失う。
世界が、再び切り取られる。
今度は
カゲロウだけが、外される。
わずかに揺れていた気配が、遠ざかる。
時間の流れから、静かに切り離される。
残るのは、二人だけ。
三日月は、何事もなかったかのように振り返る。
すぐそこにいるはずの距離。
けれど、やはり遠い。
視線が、重なる。
逃げ場はない。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「陽くん」
柔らかい声。
けれど、その奥にあるものは変わらない。
「続き、しよう」
その一言で、空気が変わる。
静かに。
確実に。
霧は動かない。
音も戻らない。
ただ、世界だけが——
次の瞬間へと、踏み出そうとしていた。
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