7話 分かたれた影
朝は、思ったより静かだった。
目を覚ました瞬間、シオンはそれに気づく。
まだ完全には明るくない。
薄い光が、部屋の輪郭だけを浮かび上がらせている。
いつもと同じはずの朝。
けれど、少しだけ違う。
——今日、出るからだ。
「……」
小さく息を吐き、体を起こす。
床は、少し冷たい。
支度を済ませ、戸を開ける。
朝の空気が流れ込んできた。
霧は薄く、地面をなぞるように揺れている。
鳥の声が、ひとつ。
まだ、里は完全には目覚めていない。
「……いい朝だな」
ぽつりと呟く。
「兄ちゃん」
背後から声。
「起きてたのか」
「うん」
振り返ると、弟のクオンが立っていた。
寝癖のまま、こちらを見ている。
「今日、行くんだよね」
「まぁな」
短く返す。
クオンは、少しだけ黙り、まっすぐ、シオンを見る。
「兄ちゃん、楽しそうだね」
シオンは軽く笑う。
「当たり前だろ。ノブナガだぞ?」
「うん」
小さく頷いてから——
「でもさ」
ほんの少しだけ、間。
「ちょっと無理してる」
風が、ひとつ吹く。
霧が揺れる。
「……は?」
シオンは眉をひそめる。
「何言ってんだ」
「別に。そう見えただけ」
それ以上は言わない。
クオンは視線を外す。
「……くだらねぇな」
吐き捨てるように言う。
シオンは空を見上げる。
少しだけ、明るくなっている。
クオンは、その隣に立つ。
何も言わず、同じ空を見る。
朝は、静かに進んでいた。
空はすでに白み、里の輪郭がはっきりと見え始めている。
「よし!じゃあ兄ちゃん行ってくるから、家のことはクオンに任せた!」
振り返らずに言う。
「うん。気をつけてね」
背後から、落ち着いた声が返る。
「おう」
短く返して、シオンは歩き出す。
戸が、静かに閉まる音。
それだけで、ひとつ区切りがついた気がした。
足取りは軽い。いつも通りに。
——そういう顔をしておく。
朝の空気は、まだ冷たい。
霧は薄く、地面をなぞるように流れている。
人の気配は、まばらだ。
すれ違う者もいない。
だからこそ、余計なことを考えそうになる。
「……」
小さく息を吐く。
考えるな、と自分で切る。
やることは決まっている。
それだけでいい。
視線を前に戻す。
集合場所は、もう近い。
霧の向こうに、ひとつ影が見える。
——早いな。
足を止める。
気配は、ほとんどない。
それでも、そこにいると分かる。
「……カゲロウか」
声をかける。
影はすでに、そこに立っていた。
最初から、そこにいたみたいに。
「カゲロウ、早いな!」
シオンが声をかける。
「シオンもな」
短く返る。それだけで会話は成立する。
シオンは、軽く肩を回す。
「昨日さ、正義とは何かについて考えてたら、気付いたら朝だった」
「……で、答えは出たのか?」
「わかんねぇ」
あっさりと言う。
「俺の中では弱い者を守る事が正義って感じなんだけどさ」
「それだけじゃ無いから、ノブナガのところに行けって言われたんだと思う」
少しだけ空を見る。
言葉にしながら、整理しているみたいに。
「理想と現実は違うからな」
カゲロウは、淡々と返す。
「カゲロウは?」
「何がだ?」
「昨日やる事あるって言ってたじゃん」
「あぁ……」
一拍。
「ご飯食べて、歯を磨いて寝た」
「え?やる事ってそれ?」
「俺はな」
「なにそれ?」
シオンが呆れたように笑う。
その時——
「二人とも早いね!」
明るい声。
振り向くと、あかりが駆け寄ってくる。
「おーあかり。見送りに来てくれたのか?」
軽く手を上げる。
「いや……」
あかりが、少しだけ言葉を濁す。
「ん?どうした?」
一瞬だけ、間。
「あのね……私、ヤクモに同行する任務を受けたの」
空気が、わずかに止まる。
「は?」
シオンの眉が動く。
「朱火様に、ヤクモに同行する任務を貰ったの」
「だから私も、今から出発」
まっすぐ言い切る。
「ほら……ヤクモって一人で戦えるような感じじゃないじゃん?」
「……お前、本当にヤクモ好きだな」
「は!?何言ってんの?」
「見てればわかる」
「に、任務だし!」
少しだけ声が上ずる。
分かりやすい。
シオンは小さく笑う。
「でも、ヤクモ一人でも成立しそうな任務だよな」
「侵略王に不穏な動きでもあるのかな?」
「たしかに」
カゲロウが、短く同意する。
「………」
あかりが、視線を落とす。
一拍。
「私からお願いしたの」
「は?」
シオンが目を細める。
「え……なに?」
「ヤクモと離れるのが嫌で、朱火様に頼んだってこと?」
「……うん」
小さく頷く。
「それはくノ一としてどうなんだ」
「それは、私だって、わかってる」
「けど……」
言葉が少しだけ弱くなる。
その瞬間——
「まぁ、いいんじゃねぇ!」
シオンが、あっさりと言う。
「え?」
あかりが顔を上げる。
「朱火様が許可したんなら、それでいいんだよ」
「むしろ俺は、あかりがヤクモに同行してくれた方が安心だ」
軽く笑う。
「あいつ、ちょっと抜けてるからな」
「侵略王にも失礼なこと言いそうだし」
「それはそうだな」
カゲロウが、即答する。
「……ありがとう」
あかりが、小さく言う。
そして——
「でもね」
一歩だけ踏み出す。
「私は、ただついて行くだけじゃない」
視線が、まっすぐになる。
「ヤクモを守るって決めてるから」
はっきりと言い切る。
「絶対に死なせない」
一瞬だけ、空気が締まる。
「だから、シオンとカゲロウは、自分の任務に集中してね!」
言い終えて、少しだけ息を吐く。
「……もうプロポーズじゃん」
シオンがぼそっと言う。
「うるさい!」
すぐに返る。
そのタイミングで——
「おー。もうみんな揃ってるじゃん」
軽い声が差し込む。
ヤクモが手を振りながら歩いてくる。
「うるさい!」
「えぇ……なんで?」
「遅い。緩い。疎い」
「めちゃくちゃ言うじゃん」
ヤクモが苦笑する。
「ふふふ」
あかりが、思わず笑う。
「……」
カゲロウが、それを見ている。
ほんの一瞬だけ。
「なんかいいな」
ぽつりと呟く。
「そうだな」
シオンが、軽く同意する。
朝の光が、少しずつ強くなる。
もうすぐ、動き出す。
それでも、この時間だけは——
まだ、日常の中にあった。
四人の影が、地面に長く伸びている。
「よし。じゃあここでお別れだ」
シオンが言う。
軽い口調。
けれど、その一言で空気が変わる。
「あぁ」
カゲロウが、短く返す。
それだけで十分だった。
「そういえば、カゲロウって影縫の見張りでしょ?」
あかりが首をかしげる。
「どこ行くか決まってるの?」
「あぁ、カリグラのところだ」
一切の迷いなく答える。
「うわぁー。最悪じゃん」
シオンが顔をしかめる。
「カリグラって、狂の魔王でしょ?」
「そうだ。俺は今から黒詠と合流する」
淡々とした声。
「影縫 黒詠か」
シオンが、少しだけ視線を逸らす。
「俺、あいつ苦手なんだよな。無口で何考えてるかわからない」
「俺は好きだよ。意外と優しいし」
ヤクモが、軽く言う。
一瞬。
空気が、ほんの少しだけ変わる。
「へぇ」
あかりの声が落ちる。
さっきまでより、少しだけ低い。
「ヤクモって、ああいう静かな優しい女の子が好きなんだ」
視線は、まっすぐ。
逃がさないみたいに。
「え?まぁ好きかな」
ヤクモは気にせず答える。
「……ふーん」
ほんの少しだけ、間。
あかりが視線を逸らす。
その直後——
「あかりも優しいじゃん」
「任務、同行してくれてありがとう!」
ヤクモが言う。
「あ……うん」
さっきまでの空気が、少しだけほどける。
頬が、ほんの少しだけ緩む。
「……よし。行くか」
シオンが、区切る。
余計な間を切るように。
「そうだな」
カゲロウが頷く。
すでに視線は、別の方向を見ている。
「じゃあ、いつ戻れるかわからないけど、絶対死ぬなよ!」
シオンが、少しだけ強く言う。
冗談みたいな口調のまま。
「あぁ」
短い返事。
それだけで十分だった。
「大丈夫!俺はあかりに守って貰う!」
ヤクモが笑う。
「ちょっと……」
あかりが一瞬だけ睨む。
そして——
「まぁいいか」
小さく息を吐く。
「しっかり守るから」
「シオンとカゲロウも無茶しないでね」
視線が、まっすぐになる。
「俺は不死身だ」
カゲロウが言う。
本気なのか冗談なのか、分からない。
「カッコいいな」
シオンが笑う。
「よし。じゃあ土産話、楽しみにしとくわ!」
「うん。また!」
あかりが頷く。
「またな」
「またね」
それぞれの言葉が、重なる。
一瞬だけ、誰も動かない。
ほんのわずかな沈黙。
それから——
最初に動いたのは、カゲロウだった。
迷いなく、背を向ける。
次の瞬間には、もう気配が薄れている。
「……相変わらずだな」
シオンが小さく笑う。
「じゃあ、行くか」
今度は、自分が歩き出す。
振り返らない。
その背を、あかりとヤクモが見る。
そして——
二人もまた、反対の方向へ歩き出す。
朝の光が、それぞれの影を引き離していく。
同じ場所にいたはずの影が、
ゆっくりと、重ならなくなる。
やがて——
完全に、別々の道になる。
それでも。
誰も、振り返らなかった。
——
朧隠の霧は、いつもより濃かった。
白が、視界を曖昧にする。
足元も、距離も、境界も。
すべてが、少しずつぼやけている。
音は遠い。
風も、どこか遅れて届く。
その中を——
ひとつの影が、歩いていた。
足音はない。
ただ、霧だけがわずかに揺れる。
淡い紫の髪が、ゆるく揺れる。
ドレスの裾が、白に溶けていく。
「……いないなぁ」
小さく呟く。
困っているようで、どこか楽しそうな声。
足を止める。
視線だけが、ゆっくりと巡る。
「んー……」
少しだけ首を傾ける。
「こっちかな」
軽く言う。
その瞬間——
場所が、変わる。
音もなく。
気配もなく。
ただ、そこに“いる”。
霧の奥。
誰もいないはずの場所。
その中心に、立っていた。
「……あ」
ほんの少しだけ、声が弾む。
見つけた時の、それだけの変化。
目を細める。
嬉しそうでもなく、
ただ、確かめるみたいに。
「やっと見つけた」
一歩、近づく。
距離の感覚が、曖昧になる。
すぐ目の前。
けれど、触れられない気がする距離。
じっと、見つめる。
「陽くん」
柔らかく、呼ぶ。
その名前だけが、少しだけ特別に響く。
霧の向こう。
立っていた影が、わずかに揺れる。
「……三日月か」
その一言で、
空気が止まる。
霧の流れが、途切れる。
音が、消える。
距離は近いはずなのに、
一歩が、遠い。
視線が絡む。
逸らせない。
世界が、そこだけに絞られる。
言葉はいらない。
それだけで分かる。
——魔王同士の邂逅だった。
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