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第1章:いつもの、当たり前、約束

「コトリ、遅い!」


 澄んだ声が、風に乗って届く。


 振り向かなくても分かる。


 この声は——


「ごめんってば!」


 坂を駆け下りながら、コトリは大きく手を振った。


 足元の砂利が跳ねる。


 乾いた音が、ぱらぱらと転がる。


「ちょっと手伝ってただけ!」


「その“ちょっと”が長いの!」


 待っていた少女——宮尾千代ミヤオチヨが、腕を組んで睨んでくる。


 言い方はきつい。


 でも、口元が少しだけ緩んでいる。


 本気で怒っているわけじゃない。


「だってさ、あや婆が重そうな荷物持ってて」


「また?」


 千代が肩を落とす。


 呆れたように。


 でも、どこか慣れている。


「この前も手伝ってたじゃん」


「だって一人じゃ大変そうだったし」


「ほんと、古小烏フルコガラスはお人好しだな」


「それ苗字で呼ぶのやめて!」


 頬を少し膨らませる。


 その様子を見て、千代が小さく笑った。


「手伝うのはいいことじゃん」


「いいことだけど」


 一拍、置いて。


「そのせいで遅れるのはどうなのって話」


「……はい」


 素直に頷く。


 怒られているのに、


 どこか居心地がいい。


 この距離感が、当たり前になっている。



 千代は一瞬だけ黙り込んでから、


 ふっと息を抜いた。


「まぁいいや」


 いつものこと、と言わんばかりに。


 くるりと背を向ける。


「行くよ」


 その一言で、


 空気が軽くなる。


 コトリも慌てて隣に並んだ。



 風が、頬を撫でる。


 少し高いこの道からは、


 白嶺の里が見渡せた。


 並ぶ屋根。


 ゆらゆらと上がる煙。


 遠くで動く人影。


 どこにでもある景色。


 でも——


 ここにしかない日常。


 なぜか、


 胸の奥が、ほんの少し温かくなる。



「ねぇ」


 千代が何気なく口を開く。


「今日さ、ちょっと見せたいのあるんだけど」


「なに?」


「内緒」


「えー」


「見た方が早い」


 さらっと言う。


 その言い方に、


 少しだけ胸が弾む。


「すごいの?」


「すごいよ」


 少しだけ間を置いて——


「たぶん」


「たぶん!?」


 思わず声が裏返る。


「だってまだちゃんと試してないし」


「危なくない?」


「危ないかも」


「やめようよ!」


「あはは!」


 笑い声が、風に溶けていく。


 軽くて。


 いつも通りで。


 それが、心地いい。



「コトリー!」


 別の方向から声が飛んでくる。


「おーい!」


 振り向くと、


 手を振りながら走ってくる少年。


 息を切らしながら、


 二人の前で止まる。


「……はぁ、やっと見つけた」


「ハル?」


 コトリが首を傾ける。


「どうしたの?」


「どうしたのじゃないよ」


 肩で息をしながら言う。


「明日でしょ?」


「……あ」


 小さく声が漏れる。


「誕生日」


「そうそれ!」


 ハルの目が、少しだけ輝く。


「ついに召喚じゃん」


「うん」


 コトリは少し照れながら頷く。


 頬が、ほんのり熱くなる。


「いいなぁ」


 ハルが言う。


「俺まだだし」


「ハルもすぐでしょ?」


「まぁね」


 少し得意げに笑う。


「でもさ、最初めっちゃビビるらしいよ」


「千代も言ってた」


「でしょ?」


 自然に視線が集まる。


 千代は肩をすくめる。


「なんか出てくるしね」


「それは出てくるでしょ」


 三人で笑う。



 その時間が、


 やけに鮮明だった。


 風の温度も。


 声の高さも。


 全部。


 ちゃんと、ここにある。



 ——こういう時間が、好きだった。



 特別なことは何もない。


 ただ、話して。


 笑って。


 それだけでいい。


 それだけで、


 満たされる。



「コトリはさ」


 ハルが、少しだけ真面目な顔になる。


「ちゃんとやりそうだよね」


「え?」


「なんかさ」


 空を見上げる。


 少し考えてから、


 視線を戻す。


「変なとこで真面目じゃん」


「それどういう意味!?」


「褒めてる!」


 慌てて手を振る。


 千代が横でくすっと笑う。


「まぁ合ってる」


「えぇ……」


 不満そうに口を尖らせる。


 でも、


 嫌じゃない。



「……頑張るよ」


 少しだけ間を置いて。


「ちゃんと」


 小さく、言葉を落とす。


 誰に向けたわけでもない。


 でも、


 確かにそこにあった“決意”。



 ハルは満足そうに頷く。


「うん、それでいい」



 その時。


「——千代ぉ!」


 地面の下から声がした。


「うわ」


 千代が露骨に顔をしかめる。


 次の瞬間——


 足元の土が、膨らむ。


 盛り上がる。


 そして——


 ドンッ!!


 弾けた。


 土煙が舞い上がる。



「ちょっと聞いてよ!」


 飛び出してきたのは、


 土まみれの少女。


 しゃがみ込み、


 足で地面をトントンと叩く。


「今日さ、めっちゃいい穴見つけたんだけど!」


 そのまま続ける。


「……なんか、変な感じなんだよね」


「変?」


 千代が眉をひそめる。


「うん」


 地面を軽く叩く。


「繋がってるみたいな」



 一瞬だけ、


 空気が止まる。



 千代の目が、


 わずかに細くなる。


 でも——


「まずその状態で話すのやめなさい」


 即座にツッコむ。


「土落としてからにして」


「えー」


「えーじゃない」


 ハルが一歩引く。


「……毎回びっくりするんだけどそれ」


「慣れなさい」


「無理だって!」



 また始まる、いつものやり取り。


 コトリは、思わず笑った。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。



「楽しそう」


 ぽつりと零れる。


 千代がちらりと見る。


 そして——


「でしょ?」


 少しだけ誇らしげに笑った。


 その顔が、


 やけに印象に残る。



「……ねぇ」


 コトリが、少しだけ声を落とす。


「私たちってさ」


 言葉を選ぶように。


「これからも、ずっと一緒かな」



 一瞬、間が空く。


 風が通り抜ける。



「当たり前じゃん」


 ハルが先に言う。


 軽く。


「こんな田舎、他に行くとこないし」


「それが理由!?」


 思わずツッコむ。


 千代が笑う。



「まぁでも」


 少しだけ真面目な顔で。


「一緒でしょ」


 迷いはない。


 それが、当たり前だから。



 コトリは、小さく笑う。


「……約束ね」


「約束」


 千代が答える。


「約束」


 ハルも軽く言う。



 その言葉は、


 あまりにも軽くて。


 あまりにも当たり前で。



 だからこそ——



 壊れるなんて、


 思いもしなかった。



 ……その時までは。

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