14話 泣けなくなった日、すべてを失ったと知った。
歩いていた。
どこへ向かっているのかも分からないまま。
足が、勝手に前へ出る。
止まろうとしても、止まれない。
猫の瞳の力が、まだ体の奥に残っているのだと、ぼんやり分かった。
でも——
それを不思議に思う力すら、今のコトリには残っていなかった。
ただ、歩く。
風が吹く。
頬を撫でる。
それでも、何も感じない。
感じたくないのかもしれなかった。
さっきまで、自分の頬に触れていた手の冷たさだけが、ずっと残っている。
目を閉じれば、浮かぶ。
優しい声。
最後の笑顔。
こぼれた涙。
そして——
動かなくなった母の姿。
「……っ」
息が、ひっかかる。
喉の奥が熱い。
でも、涙は出ない。
さっきまで、あんなに出ていたのに。
もう出し切ったのか。
それとも——
まだ現実だと認めていないのか。
自分でも、分からなかった。
足だけが、前へ進む。
土を踏む。
草をかき分ける。
見慣れた道のはずなのに、
どこか他人の記憶みたいに遠かった。
その時、不意に。
別の景色が、脳裏に浮かんだ。
⸻
あの日も、風が吹いていた。
千代の誕生日。
里の空気は、今より少しだけ浮き立っていて、
みんなの声が近かった。
「ほら、見ててよ」
千代が、得意そうに胸を張る。
黒い髪がさらりと揺れて、
青紫の瞳がきらりと光った。
「今日こそ、ちゃんと出すから」
「前もそう言ってなかった?」
コトリが笑うと、千代は少しだけ口を尖らせる。
「今日は違うの」
「今日は、絶対すごいから」
そう言いながら、地面にしゃがみ込む。
指先で土を触り、軽く叩く。
トン、と。
その音に、なぜか少しだけ胸が高鳴った。
周りには、里の人たちが集まっていた。
誕生日の召喚は、
里にとっても小さな祝い事の一つだ。
誰かが笑っていて、
誰かがひそひそと話していて。
いつもと同じ、優しいざわめき。
——のはずだった。
コトリは、その時ふと気づく。
母の姿が、ない。
「……あれ」
きょろりと辺りを見る。
父はいる。
あや婆もいる。
千代の家の人たちも、ハルもいる。
でも。
「……お母さん、いない」
なぜか、
少しだけ胸がざわついた。
小さく呟いた声は、
ざわめきに紛れて消えた。
その時だった。
近くで話していた里の女たちの声が、
ふっと耳に入る。
「やっぱり、あの子……」
「髪も、目も……」
「でも、あの人は——」
ひそひそとした声。
自分の方を見ている気がして、
コトリは少しだけ肩をすくめた。
意味は分からない。
でも、なんとなく落ち着かない。
その瞬間。
「おやおやおや!」
場違いなほど明るい声が割って入った。
あや婆だった。
片手に抱えた箱を、
わざとらしく高く持ち上げる。
「見ておくれよ、今日は特別だよ!」
「ほら、こっちは山で拾った変な石!」
「こっちはよく分かんないけど光る欠片!」
「買うなら今だよ、今日だけまけるよ!」
「えぇ……何それ……」
「またそんなガラクタを」
里の女たちが呆れながらも笑う。
空気が、変わる。
さっきまでの視線も、言葉も、
するりと流されていく。
あや婆は、その箱を抱えたまま、
ほんの一瞬だけコトリを見た。
いつもの顔で。
何でもないみたいに。
でも——
あの時も、守られていたのだと。
今なら、分かる。
「ほら、始めるよ!」
父の声で、ざわめきが静まる。
千代が深く息を吸う。
地面に手を添える。
空気が少しだけ張り詰める。
次の瞬間——
——ドンッ!!
土が弾けた。
「よっしゃあ!!」
飛び出してきたのは、
土まみれの少女だった。
クリーム色の髪を振り乱し、
真っ黒な目をきらきらさせながら、
勢いよく千代の前に着地する。
「私が来たからには、君はもう安全だ!」
一拍。
そして。
「……なにそれ」
千代が吹き出した。
「安全って何」
「いや、なんかそれっぽいかなって!」
「召喚された瞬間に言うことじゃないでしょ!」
周りからも笑いが起きる。
モグは胸を張って、
土だらけの手を腰に当てた。
「でもさ!」
「こういうの大事じゃん!」
「第一声って印象に残るし!」
「変なとこだけちゃんとしてるね……」
千代が笑う。
ハルも笑う。
コトリも、つられて笑っていた。
その光景を見ながら、
父が小さく呟く。
「……土竜か」
その声は、少しだけ低かった。
「素質がある」
「え?」
コトリが振り向く。
父はすぐに、いつもの顔へ戻っていた。
「いや、何でもない」
短くそう言って、視線を外す。
その意味は分からなかった。
ただ、なぜか印象に残った。
その時もやっぱり——
母の姿は、見当たらなかった。
⸻
風が吹く。
現実に引き戻される。
コトリは、はっとして顔を上げた。
いつの間にか、足が止まっている。
目の前には、少し高い丘。
前に、千代とハルと並んで
里を見下ろした場所だった。
「……ここ」
自分でも気づかないうちに、
ここまで来ていたらしい。
猫の力が、
ここでようやく途切れたのか。
膝から力が抜ける。
その場に、座り込む。
荒い呼吸だけが耳に残る。
ふと、前を見る。
そこに広がっていたのは——
昨日までの日常じゃなかった。
屋根の向こう。
土煙が上がる。
木々が揺れる。
そして、遠くに見える。
サトリの姿。
「……お父さん」
小さく声が漏れる。
遠い。
はっきりとは見えない。
それでも分かる。
苦戦している。
今まで見たことのないくらい、
追い詰められている。
その姿に、胸が締めつけられる。
視線をずらす。
今度は、別の場所。
地面が弾け、土が巻き上がる。
千代。
その隣に、モグ。
二人で、必死に抗っている。
囲まれている。
押し潰されそうになりながら、
それでも前を向いている。
「……っ」
息が止まりそうになる。
もう、分かってしまう。
あの何気ない日々は、もうない。
千代と笑った道も。
ハルの声も。
あや婆の手も。
母のいる家も。
全部。
もう……戻らない。
「……やだ」
ぽつりと、声が落ちる。
「……やだよ」
肩が震える。
声が、崩れる。
「みんなに……」
息を吸う。
うまく吸えない。
喉が、痛い。
「……また、会いたい」
泣き声みたいな願いだった。
子供のままの、
どうしようもない願い。
でも——
それが今のコトリの本音だった。
風が吹く。
壊れた里の匂いが届く。
遠くで、まだ戦う音がする。
日常は、壊れた。
それでも——
終わってなんか、いない。
コトリは、膝を抱える。
丘の上で。
何もできずに——
ただ、それを見ていた。
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