12話 私の選んだ答えだから
走る。
息が、焼ける。
肺が痛い。
それでも——止まらない。
止まれない。
——振り返るな
——家に行け
その言葉だけを、胸の奥で握りしめる。
「……っ、は……っ」
足がもつれる。
転びかける。
それでも、無理やり体を起こして走る。
見慣れたはずの道が、ひどく遠い。
どうしてか、初めて歩く場所みたいに見えた。
息を切らしながら、ようやく家が見えた時には、胸の奥が痛いほど熱くなっていた。
「……お母さん!!」
扉を開ける。
壊すみたいに。
勢いのまま。
「……おかえりなさい」
その声で——全部がほどけた。
そこにいたのは、いつもの母だった。
変わらない笑顔。
変わらない声。
変わらない、場所。
「……っ」
足の力が抜け、その場に崩れる。
「……よかった……」
涙が勝手に溢れる。
止めようとしても、止まらない。
母が近づき、頭に触れる。
そして、いつものように撫でる。
「どうしたの?」
優しく。
ゆっくりと。
「お母さんは大丈夫だから」
「ちゃんと、お話し聞かせてくれる?」
その声に、張り詰めていたものが切れた。
「……こわかった」
声が、子供みたいに崩れる。
「みんな、おかしくて……」
「地面から急に出てきて……」
「村の人が、変で……」
言葉が止まらない。
「千代も、ハルも戦ってて……」
「お父さんも戦ってて……」
「逃げろって言われて……」
ぐちゃぐちゃのまま吐き出す。
母は遮らない。
ただ、聞いている。
優しく。
いつもみたいに。
「それで……」
コトリの喉が詰まる。
言わなきゃいけない。
でも、言葉にしたら、本当にそうなってしまう気がして。
「……あや婆が」
母の指先が、ほんのわずかに止まる。
「……あや婆が、私を守って……」
そこで声が震える。
息がうまく吸えない。
「……死んじゃった」
その言葉が落ちた瞬間、家の中がしんと静まった。
母は、すぐには何も言わなかった。
ただ、静かに目を伏せる。
コトリが生まれた日。
手を握ってくれていた、あのしわだらけの温かい手。
この子を一緒に守ろうと笑ってくれた声。
あの日から続いていた約束を、あの人は最後まで守ってくれたのだと——猫は痛いほど理解した。
「……そう」
小さく、呟く。
その声は、驚くほど静かだった。
「最後まで、約束を守ってくれたのね」
ほんの少しだけ笑う。
でも、その笑みの奥の悲しみは隠しきれない。
「……ありがとうって、言わないとね」
その一言で、猫はすべてを察した。
村で何が起きているのか。
誰が来るのか。
何のために、ここまで壊されたのか。
頭に手を置く。
今度は少しだけ強く。
「……コトリ」
「……うん」
「逃げないといけないわ」
「……え?」
言葉が止まる。
「狙われているのは……私と、あなた」
「……どういうこと?」
母の唇が、わずかに動く。
「それは——」
「月縛の——」
その時だった。
——コツ
足音。
ゆっくりと。
確実に。
この場所へ入り込んでくる音。
空気が変わる。
ひやりと冷える。
母の表情が、ほんのわずかに強張った。
「……来たわね」
コトリが振り向く。
そこにいたのは——
一人の女。
知らない顔。
でも、“普通じゃない”のはすぐに分かった。
立っているだけなのに、空気がわずかに歪んでいる。
「……お母さん」
小さく呼ぶ。
視線は、女から離せないまま。
「……この人」
一瞬、迷う。
「……お客さん?」
震えながら聞く。
違うと分かっているのに、そう言うしかなかった。
女は——母を見る。
その瞬間。
顔が、変わる。
「——お姉ちゃん!!」
感情が弾ける。
子供みたいに、まっすぐに。
「会いたかった!!」
迷いなく、一直線に走り出す。
「……宵」
母が名前を呼ぶ。
その声に、ほんの少しだけ影が差す。
「宵ちゃん、いらっしゃい」
優しく言う。
けれど、その優しさの奥に苦しさが混じる。
「迎えに来たよ!」
宵が笑う。
「帰ろう!」
疑いのない、まっすぐな言葉。
母は、すぐには答えない。
少しだけ目を伏せる。
「……どうしたの?」
宵が不思議そうに聞く。
母は、ゆっくりと顔を上げる。
「宵ちゃんに会えたのは嬉しいわ」
一拍。
「でも——私の家は、ここだから」
その言葉が落ちた瞬間——
空気が凍る。
音が消える。
さっきまであった温度が、嘘みたいに消えた。
息が詰まる。
コトリの指先が冷える。
何かが、もう決まってしまった。
そんな感覚があった。
宵の笑顔が、止まる。
「……そっか」
でも——すぐに、また笑う。
ひび割れるみたいに。
「だから、壊してきたんだよ」
軽く言う。
「ここにいられないように」
その言葉に、コトリの呼吸が止まる。
「……どうして」
母の声が、わずかに揺れる。
宵は、まっすぐ答える。
「だって」
「お姉ちゃんが戻ってこないから」
迷いなく。
真っ直ぐに。
そして、コトリを見る。
「……やっぱり」
「その子のせいなんだ」
母は、否定しない。
否定できない。
「……一回来たんだよ」
宵が言う。
「月縛の人には内緒で、こっそり見にきたの」
少し俯く。
「そしたら——お姉ちゃんがここで笑ってるの」
一拍。
「……幸せそうだった」
その言葉が、静かに刺さる。
「だから待ってた」
「この子が使えるようになるの」
コトリを見る。
「お誕生日おめでとう」
感情の形だけをなぞったみたいな祝いの言葉。
そのまま視線を母に戻す。
「もうなったでしょ?」
「じゃあ、いいよね?」
手を差し出すみたいに。
「帰ろう」
母は、ゆっくり首を振る。
「……宵ちゃんのことは大好き」
優しく。
でも、はっきりと。
「それでも」
「戻れない」
「この子を守るって、決めたから」
——その瞬間。
空気が、完全に凍りついた。
音が消える。
呼吸すら、重くなる。
ただ——その一言だけが残る。
覆らない、選択。
宵の表情が、崩れる。
「……なんで」
「なんで、お姉ちゃんが」
「なんで、その子を選ぶの!!」
子供みたいに、壊れる。
そして——止まる。
視線が、コトリへ固定される。
「……ああ」
「そっか」
感情が、すうっと消える。
冷たいものに、置き換わる。
「じゃあ、もういいや」
次の瞬間、宵の姿が消えた。
「——え」
そう思った時には、もう遅かった。
背後。
コトリの首元に、冷たい感触が触れる。
短剣だった。
「無理やり連れて帰るね」
耳元で、優しい声。
その優しさが、恐ろしい。
「……やめなさい」
母の声が震える。
でも、体は動かない。
宵の目が、開いている。
銀色の瞳が、ひやりと光る。
——月縛の瞳。
世界が、歪む。
体が、重くなる。
動けない。
でも——意識は、はっきりしている。
「……っ」
コトリが息を呑む。
母も、動けない。
だが——目は死んでいない。
操られてはいない。
宵が、小さく呟く。
「……やっぱり」
「血縁には、効きにくいかぁ」
少しだけ残念そうに。
でも、問題ではないみたいに。
そのまま、コトリを抱き寄せるように引き寄せる。
「この子がいなくなれば」
一拍。
「お姉ちゃん、帰れるでしょ?」
短剣が、ほんの少しだけ食い込む。
首筋に熱が滲む。
「……やめて」
母の声が、かすれる。
「その子を離しなさい」
「やだ」
宵が即答する。
「だって、この子がいるから、お姉ちゃんは帰ってこなかったんだもん」
その言葉に、コトリの身体が小さく震える。
母の目が揺れる。
ほんの一瞬だけ。
だが——次の瞬間には消えていた。
ゆっくりと息を吸う。
そして、まっすぐ宵を見る。
「……宵ちゃん」
昔と同じ呼び方で。
優しく。
「その子はね」
一歩、踏み出す。
「私の命より大事な子なの」
声は、震えていない。
「あなたが何をしようとしても」
「この子だけは、絶対に守る」
その言葉は——宣言だった。
決意だった。
揺るがないものだった。
宵の目が、わずかに揺れる。
「……ほんとに?」
試すように。
「ほんとに、それを選ぶの?」
短剣が、わずかに動く。
コトリの呼吸が止まる。
それでも——母は動かない。
ただ、見つめる。
「……ええ」
静かに。
でも、確かに。
「それが、私の選んだ答えだから」
その瞬間。
宵の中で、何かが決定的に壊れた。
それでも——母は、コトリから目を離さない。
「ねぇ」
優しく。
必死に。
「宵ちゃんは、優しい子でしょ?」
「そんなこと、本当はしたくないんでしょ?」
その言葉に、宵の指がわずかに揺れる。
「……やめて」
小さく。
でも——完全には振り切れない。
「大丈夫」
母が重ねる。
「私は分かってる」
その言葉が、染みる。
揺れる。
崩れかける。
その瞬間——
母が、コトリを見る。
そして——微笑む。
いつもと同じ。
何も変わらない顔で。
その笑顔を見た瞬間、
コトリの胸の奥で、何かがひどくざわついた。
嫌な予感だった。
言葉にならない。
でも、分かってしまう。
この人は——何かを決めている。
「……お母さん」
声が震える。
母は答えない。
ただ、優しく目を細める。
それだけで——余計に、怖かった。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




