第一部 第8話 「15%の壁」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 12月 試験前日
---
1. 前夜
12月のサンクトペテルブルクは、もう完全に冬だった。
朝、目を覚ますと、窓の外はまだ暗い。太陽が昇るのは9時過ぎで、沈むのは午後4時。一日が、あっという間に終わってしまう。
でも、それ以上に私たちを支配していたのは、明日に迫った学期末試験のプレッシャーだった。
「進級できるのは、クラスの15%だけ」
ユナの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
15%。つまり、20人クラスなら3人。留学生は7人いる。全員が進級できるわけがない。落ちる者が、必ず出る。
ベッドの中で、隣のリンの気配を感じる。彼女も起きている。きっと、同じことを考えているのだろう。
「舞...」
リンの小さな声。
「うん?」
「私、落ちたら...」
「落ちないよ」
私は即座に言った。でも、その言葉に根拠はない。ただの願いだ。
リンは何も言わなかった。布団の擦れる音だけが、暗い部屋に響いた。
---
2. 最後の自主練習
その日の夜、私たちはいつものようにスタジオに集まった。
舞、リン、ユナ、エマ、シュエ。五人がバーにつく。そこに、アーニャとクロエも加わった。七人全員だ。
マリーナさんがピアノを弾く。いつもより、少しゆっくり。私たちの緊張を解そうとしているのかもしれない。
「もう一度、基礎から」
ユナの声が静かに響く。
プリエ。ジュッテ。ロンデ・ジャンブ・アテール。
何百回も繰り返した動き。でも、今日は一つ一つが重い。
「フォンデュ、行きます」
エマが珍しく真剣な顔で言う。彼女のロシア語はまだまだだけど、バレエ用語は世界共通だ。
シュエの足が、正確に動く。彼女はプライベートレッスンを受けられない分、図書館で学んだ理論を体で実践している。その動きは、美しく、そして力強い。
隣で、アーニャが跳んだ。彼女の跳躍力は、いつも私たちを驚かせる。ウクライナで育った彼女は、小さい頃から民舞もやっていたらしい。そのリズム感が、クラシックに生きている。
クロエの腕の動きは、さすがパリ・オペラ座出身。優雅で、流れるようだ。でも、時々クラスノワ先生に「もっと力強く!」と怒られる。フランスとロシアのスタイルの違いが、彼女の課題だ。
一曲終わって、私たちは無言で次の動きを待った。
その時、ドアが開いた。
アンナだった。その後ろに、カテリーナとオリガもいる。
「...邪魔するわ」
アンナが言った。彼女の手には、小さな布袋があった。
「これ、使って」
差し出されたのは、松脂だった。プロ用の、舞台で使うやつ。
「試験の前に、新しい松脂を塗ると、滑らないって言われてるの」
オリガが優しく説明する。
「私たちも、去年もらったの。先輩から」
カテリーナが付け加えた。
私たちは、それぞれ松脂を受け取った。それは、ロシア人の先輩たちからの、初めての贈り物だった。
「ありがとう...」
ユナが言うと、アンナは無表情のままうなずいた。でも、その耳が少し赤いのは、寒さのせいだけではない気がした。
---
3. 試験当日
朝、目が覚めると、体が震えていた。
緊張か、寒さか。その両方だ。
寮の廊下で、リンと会った。彼女の顔は青白い。
「寝られた?」
「...うん」
嘘だ。彼女の目の下の隈が、それを物語っている。
リビングに行くと、ユナがストレッチをしていた。彼女はいつも通り、落ち着いているように見える。でも、その手が少し震えているのを、私は見逃さなかった。
エマは、珍しく無言で壁を見つめている。彼女のおしゃべりが止まる時は、本当に追い詰められている時だ。
シュエは、自分の部屋から出てこなかった。でも、ドアの隙間から、彼女が鏡の前で髪を結び直しているのが見えた。何度も、何度も。
アーニャとクロエも、それぞれの部屋から出てきた。七人全員が揃うまで、誰も口を開かなかった。
「...行こう」
ユナの声で、私たちは歩き出した。
---
スタジオの前には、ロシア人の生徒たちも集まっていた。アンナ、カテリーナ、オリガ。みんな、同じ試験を受ける。
アンナが、私たちの方を見た。そして、小さくうなずいた。
カテリーナも、オリガも、同じようにうなずいた。
私たちも、うなずき返した。
クラスノワ先生が、ドアの前に立った。彼女の顔は、いつも以上に厳しい。
「入りなさい」
---
4. 試験
試験は、バーレッスンから始まった。
クラスノワ先生の指示は、いつもより細かく、そして厳しい。一つ一つの動きが、採点されている。
プリエ。ジュッテ。ロンデ・ジャンブ・アテール。
自分の呼吸が、耳の奥で聞こえる。心臓が、バクバクしている。
隣では、リンが必死に動いている。彼女の目は、一点を見つめたまま。恐怖と闘っているのがわかる。
ユナは、冷静に見えた。でも、彼女の足がほんの少し震えているのを、私は見た。
エマは、先生の指示を聞き漏らさないように、必死に耳を傾けている。ロシア語が完璧ではない彼女には、これが一番のハードルだ。
シュエは、無表情のまま動いている。でも、その動きはいつも以上に正確で、美しかった。彼女の独学は、決して無駄じゃなかった。
バーレッスンが終わり、次はセンターレッスン。
ここからが本番だ。バーを離れて、自由に動く。自分の実力が、如実に現れる。
アダージオ。緩やかな動きの中で、バランスを保つ。
アンナの動きが、視界の端に入った。彼女は、まるで空気のように軽かった。足が、床から離れている時間が、他の人より長い。あれが、ロシア人が「エリート」と呼ぶ所以か。
カテリーナの跳躍は、力強かった。地面を蹴った瞬間、弾丸のように飛び上がる。彼女の跳躍には、母の期待と、自分の夢が詰まっているように見えた。
オリガは、優雅だった。さすが、すでにマリインスキーの舞台に立っているだけある。彼女の動きには、無駄がなかった。
そして、私たち留学生も、それぞれの全力を出していた。
リンは、涙をこらえながら踊っていた。彼女の頭の中には、きっと故郷の村の人たちの顔が浮かんでいるのだろう。食堂で働く母の姿。村中から集められた奨学金。成功しなければ帰れないという重圧。
ユナは、母の期待と闘っていた。母もワガノワの卒業生。その娘として、恥ずかしくない踊りをしなければ。彼女の動きには、そのプレッシャーがにじんでいた。
エマは、ロシア語の壁を乗り越えようとしていた。指示が完全に理解できなくても、体で覚えた動きを信じて踊る。彼女の明るさは、ここでも力を発揮していた。
シュエは、一人で闘ってきた。プライベートレッスンもなく、図書館で独学してきた。その努力が、今、実を結ぼうとしている。
アーニャは、ウクライナから来た。陽気でおしゃべりな彼女も、この時ばかりは無言だった。でも、その跳躍には、故郷の土の匂いがした。
クロエは、フランスの誇りを胸に踊っていた。パリ・オペラ座のスタイルと、ワガノワのスタイル。その融合を、彼女は体現しようとしていた。
そして私は...ただ、必死だった。日本から来た一人の少女。ワガノワ・メソッドの本場で、必死に食らいついていた。
---
5. 終わり
試験が終わった時、スタジオには深いため息が満ちた。
クラスノワ先生が、私たちを見渡した。
「結果は、明日の午後に発表する。それまで、お前たちは自由だ」
それだけ言って、彼女はスタジオを出ていった。
しばらく、誰も動けなかった。
やがて、ぽつりぽつりと、立ち上がる音が聞こえ始めた。
アンナが、私たちの方を見た。その目には、ライバルを見る目と、同じ釜の飯を食った仲間を見る目が、混ざっていた。
「...お疲れ」
それだけ言って、彼女はカテリーナとオリガと一緒に去っていった。
私たち七人は、スタジオに残されたまま、しばらく無言で座っていた。
「...終わった」
エマが呟いた。
「終わったね」
ユナが答えた。
その瞬間、エマが泣き出した。
「わかんない! 私、できたのかできてないのか、全然わかんない!」
彼女の涙は、止まらなかった。
リンも、目を赤くしている。ユナは唇を噛みしめていた。シュエは、一点を見つめたまま動かない。アーニャとクロエも、何も言えなかった。
私は、ただエマの背中を撫でていた。
外は、もう暗くなりかけていた。
---
6. 長い夜
寮に帰っても、誰も眠れなかった。
私は、ベッドの中で天井を見つめていた。隣のベッドでは、リンが何度も寝返りを打っている。
午前2時。リビングに行くと、ユナがソファに座っていた。彼女の手には、母からもらった古いトゥシューズ。
「眠れない?」
「...うん」
ユナは、トゥシューズを見つめたまま言った。
「これね、母がワガノワで履いてたやつ。母は、これを履いて、この学校で踊って、卒業した。そして、今度は私が同じ場所で踊ってる」
「すごいね」
「うん...でも、すごく重い」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「母は、私に何も言わない。『頑張りなさい』とも言わない。でも、このトゥシューズをくれた時に、『あなたならできる』って言った。それが、一番重い」
わかる。その気持ちが。
隣から、足音がした。振り返ると、リンが立っていた。その後ろから、エマもシュエも、アーニャもクロエも。
全員が、眠れなかったのだ。
私たちは、リビングの床に座り込んだ。誰も、試験の話はしなかった。ただ、そこにいることだけが、大事だった。
「ねえ、何か食べない?」
エマが言った。
「こんな夜中に?」
「いいじゃん。明日、結果が出る前に、お腹いっぱいになっておこう」
彼女はキッチンに行って、何やら作り始めた。しばらくして、出てきたのは、歪な形のおにぎりが山盛り。
「また作ったの?」
「うん。失敗したけど、味は一緒!」
私たちは、そのおにぎりを食べた。冷めていて、形は崩れていて、日本のとは全然違う。でも、温かかった。
「おいしい」
リンが言った。
「うん、おいしい」
みんながうなずいた。
その時、窓の外が白み始めていた。長い夜が、終わろうとしている。
---
7. 結果発表
翌日の午後、私たちは掲示板の前に集まった。
合格者の番号が、貼り出される。15%だけの番号が。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
クラスノワ先生が、掲示板に紙を貼った。
「発表する」
先生は、それだけ言って、その場を離れた。
私たちは、一斉に掲示板に駆け寄った。
番号が、並んでいる。
3桁の番号が、7つだけ。
あった。
私の番号があった。
リンの番号もあった。
ユナの番号も。
エマの番号も。
シュエの番号も。
アーニャの番号も。
クロエの番号も。
全員、合格していた。
「え...」
エマが呆けた声を出した。
「全員?」
「全員だ」
ユナが、信じられない顔で言った。
その瞬間、エマが泣き出した。今度は、嬉し涙だった。
リンが、その場にしゃがみ込んだ。彼女の肩が震えている。
ユナは、母のトゥシューズを握りしめて、空を見上げた。
シュエは、ただ静かに、自分の番号を見つめていた。その目に、涙が光っているのが見えた。
アーニャとクロエは、抱き合って跳び上がった。
私は...ただ、そこに立っていた。体の力が、抜けていくのを感じた。
---
その後、クラスノワ先生が私たちを呼び止めた。
「あなたたち、ちょっと来なさい」
先生の部屋に通された。そこには、アンナ、カテリーナ、オリガもいた。
「今回の試験で、留学生全員が合格した。これは、前代未聞のことだ」
先生の声は、相変わらず厳しかった。
「でも、決して慢心するな。今回はたまたまだ。次もある。その次もある。ワガノワの道は、まだ始まったばかりだ」
そう言って、先生は少しだけ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「...よくやった」
その言葉が、何よりの褒め言葉だった。
アンナが、私たちに向かってうなずいた。カテリーナも、オリガも。
「おめでとう」
オリガが言った。
「これからも、よろしく」
アンナが言った。
私たちは、ただうなずき返した。
---
その夜、私たちはまたマリーナさんのスタジオに集まった。自主練習のためじゃない。ただ、この喜びを、マリーナさんにも伝えたくて。
「全員合格?」
マリーナさんは、珍しく目を丸くした。
「はい!」
「それは...すごいわね。前代未聞だわ」
彼女はピアノの前に座った。
「じゃあ、お祝いに何か弾くわね」
彼女が弾き始めたのは、チャイコフスキーの「白鳥の湖」から、小さな白鳥の踊りだった。
私たちは、思わず笑った。あの有名な、あの動きを連想させる曲。
「踊らないの?」
マリーナさんがいたずらっぽく言う。
「え?」
「ほら、みんなで」
私たちは顔を見合わせて、それから、スタジオの中央に集まった。
プロじゃない。正しくない。でも、みんなで、小さな白鳥の真似をして、踊った。
笑いながら、息を合わせて。
マリーナさんのピアノが、それを包み込む。
窓の外は、もう真っ暗だ。でも、スタジオの中だけは、光で満ちていた。




