第一部 第9話 「マリーナさんのクリスマス」
サンクトペテルブルク マリーナさんのアパート 1月7日
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1. ロシアのクリスマス
1月7日。ロシア正教のクリスマス。
日本では、クリスマスは12月25日。もうとっくに終わっている。でも、ロシアではこれからが本番だ。教会は金色の灯りに包まれ、街のあちこちで「フリストス・ロジデストヴィア!(キリストが生まれた!)」という挨拶が交わされる。
「本当に今日がクリスマスなんだね」
寮の部屋で、リンが呟いた。彼女の手には、ベトナムから届いたばかりの手紙。母からのものだ。
「ベトナムも、クリスマスは12月25日だよ。でも、こっちのやり方も面白い」
ユナが鏡の前で、コートの襟を直している。彼女は今日のために、韓国から送ってもらった新しいセーターを着ている。エマはというと、編み込みの赤いセーターで、まるでクリスマスプレゼントのリボンのようだ。
「みんな、準備はいい?」
私の声に、三人がうなずいた。
「行こう」
廊下に出ると、シュエも準備を終えて待っていた。彼女はいつもの質素な黒いコート。でも、マフラーだけは鮮やかな赤色だった。
「それ、似合ってる」
「...ありがとう」
シュエが少し照れたように笑った。それだけで、今日が特別な日だとわかる。
玄関では、アーニャとクロエも待っていた。アーニャはウクライナの伝統的な刺繍が入ったシャツを着ている。クロエはさすがフランス人。おしゃれに決めている。
「七人全員、揃ったね」
ユナが言った。
「じゃあ、行こうか」
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2. マリーナさんの家
マリーナさんのアパートは、ワガノワから地下鉄で30分ほどの場所にある。
築100年は経っているだろう古い建物。エレベーターはなく、薄暗い階段を五階まで上がる。壁のペンキは剥がれ、ところどころヒビが入っている。でも、ドアをノックした瞬間、中から温かい光が漏れてきた。
「いらっしゃい」
マリーナさんが笑顔で迎えてくれた。彼女はいつものグレーのカーディガンではなく、アイボリーのブラウスに、お気に入りの琥珀のブローチをつけている。
「上がって。狭いけど」
中に入ると、そこは別世界だった。
部屋は狭い。でも、その隅々まで、マリーナさんの愛情が行き渡っている。古びたソファには手編みの毛布。壁にはバレエのポスターと、何枚かの古い写真。窓辺にはたくさんの鉢植え。そして、ピアノ。小さなアップライトピアノが、部屋の半分を占めている。
「ムーシカはどこ?」
エマがキョロキョロ見回す。
「そこよ」
マリーナさんが指さしたのは、ソファの背もたれの上。銀色の長い毛のロシアンブルーが、丸くなって寝ている。ムーシカ。あの写真立ての中の猫だ。
「わあ、本物!」
エマが近づこうとすると、ムーシカはぱっと目を開けた。金色の瞳が、エマをじっと見つめる。
「触らないで。あの子、気まぐれだから」
マリーナさんが笑った。言われた通り、ムーシカはするりとソファから降りて、窓辺に移動した。しっぽをピンと立てて、私たちを一瞥してから、また丸くなった。
「ツンデレなんだ」
アーニャが呟いて、みんなが笑った。
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3. 晩餐
テーブルの上には、たくさんの料理が並んでいた。
「これは、ピロシキ。揚げパンの中にお肉が入ってるの」
「これは、オリヴィエ・サラダ。ロシアの正月には欠かせないのよ」
「これは、セリョードカ・プッド・シューバ。『毛皮のコートを着たニシン』って意味。見て、この層になってるでしょ」
マリーナさんが一つ一つ説明してくれる。どれも初めて見る料理ばかり。でも、どれも美味しそうな匂いがする。
「まずは、乾杯から」
マリーナさんが、グラスに飲み物を注ぐ。大人はシャンパン。私たちはジュース。
「何のために乾杯する?」
エマが聞く。
「そうね...」
マリーナさんは少し考えて、言った。
「出会いに。あなたたちに出会えて、私は本当に幸せよ」
その言葉に、胸が熱くなった。
「乾杯!」
グラスを合わせる音が、小さな部屋に響く。
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4. それぞれの国
料理を食べながら、私たちはそれぞれの国のクリスマスの話をした。
「ベトナムは、カトリックの人が多いから、クリスマスは結構お祝いするんだ。でも、教会に行くより、街のイルミネーションを見るのが楽しい」
リンが言う。
「韓国も似たようなものかな。クリスマスは恋人たちの日って感じ」
ユナが笑った。
「ええっ、アメリカは家族で過ごすんだよ! 七面鳥を焼いて、プレゼントを交換して、みんなでゲームをするの!」
エマが説明すると、アーニャが首をかしげた。
「七面鳥? ウクライナは、クリスマスに12皿を作るんだ。12使徒にちなんで。メインはクーチャっていう甘いお粥。ケシの実とはちみつが入ってるの」
「フランスは、ブッシュ・ド・ノエルっていうクリスマスケーキを食べるよ。丸太の形をしてるんだ」
クロエが言う。
「中国は...」
シュエが少し迷ってから、言った。
「中国はクリスマスを祝わない。でも、街はきれいになる。ただのイベントって感じ」
「それ、寂しいね」
リンが言うと、シュエは首を振った。
「寂しくない。うちには、春節があるから。それが一番大事な日。みんなで集まって、餃子を作って、爆竹を鳴らす」
「へえ、いいなあ」
エマが目を輝かせた。
「じゃあ、今度は春節に、シュエの家に行こう!」
「...飛行機代、自分で払ってね」
シュエの冗談に、みんなが笑った。
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5. マリーナさんの過去
食事が一段落した頃、マリーナさんがピアノの前に座った。
「一曲、弾くわね」
彼女が弾き始めたのは、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から、金平糖の精の踊り。透き通るような音が、部屋に満ちる。
曲が終わると、拍手が起こった。
「マリーナさん、昔はマリインスキーで弾いてたんですよね?」
ユナが聞く。
「ええ。若い頃はね」
マリーナさんは遠くを見るような目をした。
「何年いたの?」
「25年。それからワガノワに移ったの。体力的にも、あのハードなスケジュールはきつくなってきたから」
「25年...」
リンの呟きに、マリーナさんは微笑んだ。
「ソ連時代も、ペレストロイカも、あの混乱も、全部ピアノの前で過ごしたわ。音楽があれば、何とかなる。そう思って生きてきた」
「でも、今は...」
「今も同じよ。あなたたちが踊る音楽を弾けるなら、私はそれで十分」
マリーナさんの言葉が、静かに心に染みた。
その時、ムーシカがマリーナさんの足元にすり寄った。金色の瞳で、見上げている。
「あら、甘えたいの?」
マリーナさんがムーシカを抱き上げた。普段はクールなムーシカも、この時ばかりはおとなしく、喉をゴロゴロ鳴らしている。
「マリーナさん、昔は猫飼ってたんですか?」
アーニャが聞く。
「いいえ。ムーシカが初めて。若い頃は忙しくて、飼う余裕がなかったから」
「じゃあ、どうして飼い始めたんですか?」
マリーナさんは少し考えて、答えた。
「ある日、道で鳴いているのを見つけたの。子猫だった。捨てられたんだと思う。放っておけなくて、連れて帰った。それだけよ」
「それだけって...」
「そういうこともあるでしょ」
マリーナさんが笑った。ムーシカは満足そうに、また丸くなった。
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6. プレゼント
食事が終わり、片付けをしていると、エマが突然言った。
「ねえ、プレゼント交換しない?」
「え、今から?」
「うん! クリスマスだから!」
実は私たち、こっそり準備していたのだ。それぞれ、マリーナさんへのプレゼントを。
「じゃあ、まずは私から」
リンが差し出したのは、小さな布袋だった。
「ベトナムのコーヒーです。飲んでみてください」
「まあ、ありがとう」
次はユナ。韓国の伝統的なハンカチ。
「刺繍がきれいでしょ。これでピアノを拭いてください」
エマは、ニューヨークで買ったという雪の結晶のオーナメント。
「マリーナさんの家のクリスマスツリーにつけてください」
シュエは、中国茶の茶葉を。
「寒い時に飲むと、体が温まります」
アーニャは、ウクライナの刺繍が入った小さな巾着。
「中に、ウクライナのお菓子が入ってます」
クロエは、フランスのハンドクリーム。
「ピアニストの手は大事にしなきゃ」
そして最後に私。
「これは...日本のバレエ雑誌です。特集がワガノワだったので」
マリーナさんは一つ一つ丁寧に受け取り、目を赤くした。
「ありがとう...こんなにたくさん...」
彼女が涙を拭うと、ムーシカがまた近づいてきた。今度はマリーナさんの膝の上に乗り、顔を舐めた。
「ムーシカまで...ありがとう」
みんなで、また笑った。
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7. マリーナさんの贈り物
「じゃあ、私からも」
マリーナさんが立ち上がり、古いアルバムを取り出した。
「これは...」
開かれたページには、若い頃のマリーナさんが映っていた。ピアノの前に座って、どこかのスタジオで。その隣には、見覚えのある女性が立っている。
「それ、クラスノワ先生...!」
ユナが息を飲んだ。
「そう。私がマリインスキーで働き始めた頃の写真よ。彼女はまだソリストだった。私たち、長い付き合いなの」
「ええっ!」
エマが叫んだ。
「だって、クラスノワ先生はいつもマリーナさんに『もっと速く!』って怒ってるじゃないですか!」
「それが私たちの関係よ」
マリーナさんが笑った。
「彼女は厳しい。でも、それは誰よりもバレエを愛しているから。そのことを、あなたたちももうわかってきたでしょ」
私たちはうなずいた。
アルバムには、他にもたくさんの写真があった。ソ連時代の劇場。ペレストロイカのデモ行進。新しい年を迎えるクレムリンの時計。そして、たくさんのダンサーたち。
「このアルバムは、私の宝物。でも、今日はあなたたちに見せたかった。あなたたちも、いつかこんなふうに、自分の宝物を作っていくから」
マリーナさんの言葉が、心に響いた。
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8. 踊り明かす夜
「ねえ、一曲踊らない?」
クロエが提案した。
「ここで?」
「だって、ピアノがあるじゃない」
マリーナさんが笑って、ピアノの蓋を開けた。
「何がいい?」
「『白鳥の湖』!」
エマが叫ぶ。
「あの、小さな白鳥の!」
マリーナさんが弾き始めた。あの有名な、四羽の小さな白鳥の踊りの音楽。
私たちは顔を見合わせて、それから、狭い部屋の中央に集まった。四人しかいないけど、構わない。
両手を組んで、横にステップ。くるっと回って、またステップ。
プロじゃない。正しくない。でも、楽しい。
ムーシカが驚いて飛び起き、ソファの下に隠れた。それを見て、また笑う。
マリーナさんのピアノが、夜を包み込む。
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9. 雪の帰り道
深夜、私たちはマリーナさんの家を後にした。
外は雪。しんしんと降る雪が、街を銀色に染めている。
「楽しかったね」
リンが言った。
「うん」
「マリーナさん、本当は寂しいんだね。一人であの部屋に住んでて」
「そうかもしれない」
ユナが言った。
「でも、今日は違った。私たちが来たから」
シュエが、いつになく口を開いた。
「私、初めてだった。こんなクリスマス」
「え?」
「中国では、クリスマスはただの日。でも、今日は...家族みたいだった」
その言葉に、みんなが黙った。そして、誰ともなく、手をつないだ。
雪の中を、七人が歩いていく。
道には、七つの足跡が並んでいた。
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10. 星の下で
寮に戻っても、なかなか眠れなかった。
私はベッドの上で、マリーナさんにもらった小さなオルゴールを眺めていた。蓋を開けると、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れる。あの、小さな白鳥の音楽。
窓の外は、まだ雪が降っている。でも、雲の切れ間から、星が見えた。
あの空の下で、マリーナさんは一人で寝ているのだろうか。ムーシカと一緒に。
でも、今日はきっと寂しくない。私たちが、少しだけ温もりを残してきたから。
リンが、隣のベッドで寝息を立てている。安心した顔。
この夜が、ずっと続けばいいのに。そう思った。
でも、時間は進む。明日もまた、レッスンがある。試験がある。そして、その先にあるもの。
まだ見えないけれど、みんなで歩いていけるなら、怖くない。
私はオルゴールを閉じて、目を閉じた。
音楽が、頭の中で鳴り続けている。
白鳥の湖。小さな白鳥たちの踊り。
あの音楽のように、私たちの絆も、ずっと続いていく。
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【第6話 了】




