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白夜のアラベスク 〜ワガノワ、戦争、そして私たち〜  作者: はまゆう


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第7話「春の足音」

サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 2022年1月〜2月


1. 新しい学期


1月の終わり、新学期が始まった。


試験の緊張から解き放たれ、私たちは少しだけ軽い気持ちでスタジオに立っていた。15%の壁を越えたという事実が、自信になっている。クラスノワ先生の「よくやった」という言葉が、まだ心の中に残っている。


「今日からまた、基礎からやるぞ」


ユナが言った。彼女は相変わらず、私たちをまとめる役割を果たしている。


「うん」


リンがうなずく。彼女の目の下の隈は、少し薄くなっていた。試験が終わった安堵も大きいけれど、それ以上に「全員合格」という結果が彼女を軽くしたのだ。


エマは相変わらずロシア語に苦戦している。でも、以前よりは聞き取れる単語が増えた。


「先生が『フォンデュ』って言った後、『ゆっくりでいい』って付け加えたの、わかったぞ!」


「おめでとう」


クロエが笑った。彼女もロシア語はまだまだだが、フランス語訛りのロシア語も、少しずつクラスノワ先生に慣れてきたらしい。


シュエは、いつも通り静かだ。でも、自主練習の時には、自分から「ここ、こうした方がいい」とアドバイスすることも増えた。図書館からここへ、彼女の居場所は少しずつ広がっている。


アーニャは、相変わらず明るい。いつも笑顔で、いつもおしゃべりで、いつもみんなを元気づける。


「今日のスープ、美味しかったね!」

「あのピルメニ、また食べたい!」

「ねえ、今度はウクライナのボルシチ作ってあげる!」


彼女の声が、カフェテリアに響く。


この時はまだ、何も変わっていなかった。


2. 街の変化


でも、少しずつ、街の雰囲気が変わり始めていた。


2月初め、ネフスキー大通りを歩いていると、いつもより多くの軍服姿を見かけた。兵士たちが街を歩いている。以前はたまにしか見かけなかったのに、今は当たり前のようにそこにいる。


「何かあったのかな」


エマが呟いた。


「わからない」


ユナが答えた。でも、彼女の目は不安そうだった。


その日、寮に帰ってテレビをつけると、ニュースキャスターが真剣な表情で何かを話している。ロシア語はまだ完璧ではないけれど、「ウクライナ」「NATO」「国境」という単語が頻繁に出てくる。


「アーニャ、これ、何て言ってるの?」


リンが聞くと、アーニャは少し間を置いて、答えた。


「...国境に、軍隊が集まってるって。でも、大丈夫。ロシアはただの演習だって言ってるから」


彼女の声は、いつもより少しだけ小さかった。


3. アーニャの手紙


数日後、アーニャが珍しく無口でいるときがあった。


「どうしたの?」


声をかけると、彼女はスマホを見せてくれた。画面には、ウクライナ語のメッセージ。


「母から。『キーウの街に、軍隊が増えてきた』って」


「それって...」


「わからない。でも、母は怖がってる」


アーニャの目が、曇った。


「私たちは、もう戦争は終わったと思ってた。2014年も、大変だった。でも、それから何年も平和だった。なのに...」


彼女は言葉を切った。


「大丈夫だよ。きっと何もない」


そう言って彼女の肩を叩いたのは、エマだった。でも、その声にも、自信はなさそうだった。


4. エマの電話


その週末、エマのスマホに母からの電話があった。


「エマ、聞いて。アメリカ大使館から連絡があったの。『状況が悪化したら、すぐに帰国できるように準備しておけ』って」


エマの顔が、一瞬で強張った。


「でも、戦争なんて起きないよ」


「わかってる。でも、念のためよ。あなたのパスポート、ちゃんと確認しておきなさい」


電話を切った後、エマはしばらくソファに座っていた。


「どうしたの?」


ユナが聞く。


「母が、帰国準備しろって...」


エマの声が、小さかった。


「まさかね」


リンが言った。


「まさか、戦争なんて」


みんながそう思っていた。


まさか。


その言葉が、この数週間の合言葉だった。


5. クラスノワ先生の言葉


ある日のレッスンが終わった後、クラスノワ先生が私たちを呼び止めた。


「少し、話がある」


先生の声は、いつもより厳しかった。でも、どこか違う。いつもの「怒っている厳しさ」ではなく、何かを案じているような。


「ニュースは見ているか」


私たちはうなずいた。


「外の状況は、良くない。何が起きるか、誰にもわからない」


先生は一呼吸置いて、続けた。


「もしもの時は、自分の命を優先しなさい。バレエは、死んでもできないから」


その言葉が、重くのしかかった。


6. シュエの祖母


その夜、シュエが珍しく自分の話をした。


「祖母から、電話があった」


「何て?」


「『中国はロシアと仲良くしてるから、大丈夫』って。でも、私が心配なのは、そういうことじゃない」


「じゃあ、何が?」


シュエは少し間を置いて、言った。


「アーニャだよ。彼女の国で、何か起きたら...」


誰も、何も言えなかった。


目に見えるものではないけれど、確かに何かが変わろうとしている。春の足音ではなく、もっと重い、何かの足音が、少しずつ近づいている気がした。


7. リンと母の約束


リンは、ベトナムの母とスカイプで話していた。


「お母さんが、『もし何かあったら、すぐに帰ってきなさい』って」


他のみんなも、それぞれの母国から連絡を受けていた。日本の母からも、舞にメッセージが届いている。


「舞ちゃん、そちらの状況? 大丈夫なの?何かあったらすぐに連絡してね」


でも、まだ「何か」は起きていない。


ただ、どこか遠くで、雷が鳴り始めているような。予感だけが、先にやってくる。


8. マリーナさんのピアノ


そんな中、私たちは変わらずスタジオに集まった。自主練習は続いている。マリーナさんのピアノも、変わらずそこにある。


ある日、マリーナさんが珍しく、レッスンの途中でピアノを止めた。


「どうしたんですか?」


「...何でもない。ちょっと、手が滑っただけ」


でも、そうではなかった。彼女の指が、少し震えていた。


次の曲は、ウクライナの民謡だった。以前、カフェテリアで弾いていたあの曲。


マリーナさんは何も言わない。ただ、黙って指を動かしている。


アーニャが、その音楽に合わせて体を揺らしていた。目を閉じて。


二人は何かを共有している。言葉ではなく、音楽で。


9. 雪解け


2月も半ばを過ぎると、サンクトペテルブルクの雪が溶け始めた。


昼間は氷点下にならなくなり、屋根からの落ちる雫の音が聞こえる。長かった冬が、終わろうとしている。


でも、私たちの心の中の緊張は、溶けなかった。


むしろ、日に日に強くなっていた。


テレビのニュースは、毎晩ウクライナの話をしている。国境には20万人以上のロシア軍が集結しているという。アメリカやイギリスは、大使館員の家族を退避させ始めた。


「大丈夫だよ。大丈夫」


アーニャが言う。でも、その声は、自分に言い聞かせているように聞こえた。


10. 最後の日常


2月23日。ロシアの「祖国防衛者の日」の前日。


街には、戦勝記念日のような雰囲気はない。でも、いつもより多くのロシア国旗を見かけた。


私たちは、いつも通りの一日を過ごした。朝のレッスン。昼のカフェテリア。午後の自主練習。


マリーナさんがピアノを弾いた。チャイコフスキーの「四季」から、2月の曲。謝肉祭。


「明日は、また来るよ」


エマが言った。


「うん、また明日」


アーニャが笑った。


私たちは、寮に戻った。それぞれの部屋で、それぞれの夜を過ごした。


まだ、誰も知らない。


明日、世界が変わることを。


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