第8話「あの日」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 2022年2月24日
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1. 朝の光
朝、私はいつものようにアラームで目を覚ました。
外はまだ暗い。2月のサンクトペテルブルクは、朝が遅い。でも、今日はなぜか、すぐに眠りから覚めた。
隣のベッドで、リンが静かに呼吸している。まだ寝ている。試験が終わってから、彼女の眠りは少しだけ深くなった。あの重圧が少し軽くなったのだ。
私はスマホを手に取った。
通知がいくつも来ていた。日本の両親から。友達から。ニュースアプリから。
普段は見ない。
でも、なぜかその日は、通知を開いた。
目に飛び込んできたのは、見慣れない英単語だった。
「Russia launches military operation in Ukraine」
ロシア、ウクライナで軍事作戦を開始。
意味が、わからなかった。
しばらく、画面を見つめていた。その単語を、頭の中で何度も繰り返した。
ロシア。ウクライナ。軍事作戦。
え?
2. 廊下の叫び
「アーニャ!」
誰かの叫び声が、廊下に響いた。
ユナの声だった。
私はベッドから飛び起きた。隣で、リンも目を覚ました。彼女の顔は、寝ぼけている。まだ何が起きているのか、わかっていない。
「何?」
「わからない...」
私たちは廊下に飛び出した。
廊下には、すでに何人かの留学生が集まっていた。エマはスマホを見つめて、真っ青な顔をしている。クロエは口を押さえていた。シュエは壁に寄りかかって、何かを考えている。
そして、アーニャの部屋の前で、ユナが立ち尽くしていた。
「アーニャ...」
ユナが言った。
「彼女、中から出てこない」
私はドアをノックした。
「アーニャ?」
返事がない。
もう一度、ノックする。
「アーニャ、開けて」
しばらくして、ドアが開いた。
アーニャが立っていた。彼女の目は、見開かれていた。いつもの笑顔は、そこにはなかった。涙は、まだ流れていない。でも、その目は既に泣いていた。
「...母から、電話があった」
彼女の声は、ひどく掠れていた。
「キーウが、爆撃されたって」
誰も、何も言えなかった。
アーニャはその場にしゃがみ込んだ。彼女の肩が、震えている。でも、声は出さなかった。
エマがそっと彼女の隣に座った。何も言わずに、ただ、一緒にいた。
リンが、自分の部屋に戻った。彼女のスマホからは、ベトナム語のニュースが流れている。
シュエは、無表情のまま、自分のスマホを見つめている。でも、その手が少し震えているのがわかった。
クロエは、フランス語で誰かと電話している。声が、時に詰まる。
ユナは、韓国の母にメッセージを送っていた。送った後、送信済みの画面をずっと見つめている。
私は、日本にいる両親に電話した。
「舞? 大丈夫なの?」
母の声が、緊張している。
「うん。まだ、大丈夫」
「すぐに帰ってきなさい。飛行機、まだ飛んでる?」
「...わからない。調べてみる」
電話を切って、私は飛行機の検索を始めた。でも、指が震えて、うまく文字が打てない。
3. スタジオの沈黙
その日のレッスンは、予定通り行われた。
クラスノワ先生は、いつも通りにスタジオに現れた。でも、その顔には、疲れが見えた。目の下に、隈ができている。
「バーにつきなさい」
先生の声は、いつも通りだった。低く、通る声。
私たちは、いつも通りにバーについた。舞、リン、ユナ、エマ、シュエ、アーニャ、クロエ。
アンナも、カテリーナも、オリガも、それぞれの場所についている。
誰も、そのことには触れなかった。
ピアニストは、いつものマリーナさんではなかった。若い男の人だった。マリーナさんは、今日は来られなかったらしい。
「プリエ」
音楽が始まった。
私たちは、動き出した。
いつも通り。
でも、何かが違った。
アーニャの動きが、硬い。彼女の跳躍は、いつもはあんなに軽いのに、今日は重い。足が、床に吸い付くようだ。
リンの顔には、緊張が走っている。彼女は何かを必死に考えている。母国のことか。それとも、これからのことか。
エマは、先生の指示を聞き間違えて、何度もやり直した。でも、誰も笑わなかった。
ユナは、いつも通りに正確だった。でも、その動きには魂が入っていない。ただの形だけ。
シュエは、無表情で踊っている。でも、その目は、何かをじっと見つめていた。アーニャを。それとも、窓の外を。
クロエは、何度も髪を直した。落ち着かない様子で。
私は、自分の体が思うように動かないのを感じていた。頭の中は、ニュースの見出しでいっぱいだった。ロシア。ウクライナ。軍事作戦。
「アラベスク。もっと伸ばして」
クラスノワ先生の声が飛ぶ。
その口調は、今日は少しだけ優しかった。
もしかすると、気のせいかもしれない。でも、そう感じた。
4. マリーナさんからの知らせ
レッスンの後、私たちはカフェテリアに集まった。
誰も、食べ物には手をつけない。ただ、水を飲んでいるだけ。
そばにあったテレビは、ついていなかった。
誰かが消したのだ。
代わりに、スマホの画面を見つめる人ばかり。
「マリーナさんから、メッセージが来た」
クロエが言った。彼女はフランス語で電話した後も、スマホを見つめていた。
「何て?」
「『無事でいること。それだけが、今は大事』って」
マリーナさんは、私たちのことを心配しているのだ。
でも、彼女自身は? 彼女はこの街で一人で暮らしている。ムーシカと一緒に。
「彼女、大丈夫かな...」
リンが呟いた。
「わからない。でも、今日は休むって言ってた」
マリーナさんが来なかった理由。それが、今は気がかりだった。
5. それぞれの選択
その日の夜、私たちは寮のリビングに集まった。
アーニャは、まだ自分の部屋から出てこなかった。エマが「少し放っておこう」と言って、私たちだけで話し合うことにした。
「私たち、どうする?」
ユナが口を開いた。
「アメリカ大使館から連絡があった。『状況が悪化したら、直ちに退避すること』って」
エマが言う。
「韓国も。『在留邦人は、最新情報に注意してください』って」
「日本も同じだ」
私は言った。
「日本政府が『退避を検討してください』って」
「ベトナムも」
リンが言った。
「でも、私は...まだ帰りたくない」
沈黙。
「中国は...」
シュエが口を開いた。
「中国は、ロシアと仲良くしてる。大使館からは、特別な連絡はない。でも、母は『帰ってこい』って」
「クロエは?」
「フランスは...『状況を注視している』って。でも、具体的な指示はない」
それぞれの国が、それぞれの立場で対応している。
同じヨーロッパでも、アメリカでも、アジアでも、全てが違う。
「どうするの、私たち...」
リンの声が、小さく震えた。
答えは、誰にもわからなかった。
6. クラスノワ先生の言葉
その夜、クラスノワ先生が寮に来た。
呼び出しを受けて、私たちは全員で応接間に行った。珍しいことだった。
先生は、私たちを見渡した。その目は、いつもより柔らかかった。
「あなたたち、怖いだろう」
誰も、うなずけなかった。
「私も、怖い」
先生がそう言った時、初めて気づいた。先生も、一人の人間なのだと。
「ソ連が崩壊した時、私は若かった。あの時も、何が起きるかわからなかった。毎日が、不安だった」
先生は、少し間を置いた。
「でも、バレエは続いた。どうしても、続けなければならなかった。踊ることが、私たちの生きる意味だったから」
「今も、同じだ。外で何が起きようと、私たちは踊り続ける。それが、私たちの戦い方だから」
この戦い。その言葉が、重く響いた。
「でも、あなたたちは留学生だ。帰る場所がある。もし帰りたいなら、帰りなさい。それは、決して逃げることではない」
先生は、そう言って立ち上がった。
「決断は、あなたたち自身がしなさい。私は、その決断を尊重する」
それだけ言って、先生は寮を出ていった。
7. アーニャの夜
深夜、私はトイレに行くために廊下に出た。
アーニャの部屋の前を通りかかると、中から小さな声が聞こえた。歌う声だった。
立ち止まって、耳を澄ました。
ウクライナ語の歌だった。子守唄のような、優しいメロディ。
でも、その歌は、泣き声に聞こえた。
私はノックしようか迷った。でも、やめた。
彼女が一人でいることを選んでいるなら、そっとしておくべきだ。
でも、ドアの前で少しだけ立ち止まって、その声を聴いていた。
アーニャが、今、この瞬間に感じていることを、私には想像することしかできなかった。
8. 眠れない夜
ベッドに戻っても、眠れなかった。
隣のベッドで、リンは寝返りを打っている。どうやら彼女も眠れないらしい。
「リン...」
「うん」
「眠れない?」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
「舞は、帰る?」
リンの質問に、答えられなかった。
「わからない。でも、帰りたくない気持ちもある」
「うん...」
「自分で選んで、ここに来たから」
「私も」
リンの声が、暗闇に溶けた。
「でも、母が心配。ベトナムの母が、私のことを心配してる」
「うん」
「もし何かあったら、母は泣く。それだけは、絶対に避けたい」
リンの声が、少し詰まった。
私は何も言えなかった。
ただ、暗闇の中で、リンの存在を感じていた。
9. 朝が来る
朝、目が覚めると、スマホに何十件もの通知が来ていた。
日本のニュース。ロシアのニュース。世界のニュース。
すべてが、同じことを伝えている。
戦争が、始まった。
キーウが爆撃された。ロシア軍が国境を越えた。ウクライナ全土に非常事態宣言。
世界は、変わってしまった。
でも、私の目の前には、リンがいる。彼女も起きて、同じスマホを見つめている。
「舞...」
「うん」
「今日も、レッスンがあるよ」
「うん」
私たちは、ベッドから起きた。
いつも通りに、髪を結って、服を着替えた。
いつも通りに、寮を出た。
ロッシ通りを歩く。あの薄黄色の建物に向かって。
空は、青かった。
雲ひとつない、澄んだ青空。
誰が信じられるだろう。この青空の下で、誰かが武器を持って戦っているなんて。
でも、それが現実だった。
私たちは、スタジオに入った。
バーについた。
マリーナさんが、今日は来ていた。彼女の顔は少し青かったけど、ピアノの前に座っている。
「怖い?」
誰かに聞かれた。
でも、答えられなかった。
「プリエ」
クラスノワ先生の声が響く。
私たちは、動き出した。
かかとを前に。
骨盤から。
音楽に乗って。
今日も、踊る。
それだけが、私たちにできることだから。




