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白夜のアラベスク 〜ワガノワ、戦争、そして私たち〜  作者: はまゆう


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8/12

第7話「マスクの向こう側」

時期: 2021年初頭〜夏


1. 渡航前の現実(日本・回想)


舞がワガノワに留学する前、日本はまだコロナ禍の真っただ中だった。


ワクチン接種証明書がなければ海外に出られない。自治体で発行される接種証明書は、ようやくQRコード対応になり、スマホアプリで管理できるようになった。役所に何度も通い、書類を揃え、やっと手に入れた小さな紙切れ。それがなければ、憧れのワガノワの扉は開かなかった。


ある日、舞はオペラ座から来日したフランス人ダンサーの特別レッスンを受けた。


「さあ、マスクを外しましょう。呼吸を感じて」


先生はそう言って、自らマスクを外した。でも、スタジオの中では、たった一人しか外さなかった。残りの20人以上は、マスクをつけたまま踊り続けた。


「日本は、まだそういう時代なんだね」


隣でレッスンを受けていた友人が、小さく呟いた。その声はマスクに遮られて、よく聞こえなかった。


---


2. ヨーロッパの空気


その頃、ヨーロッパでは「アジア人ヘイト」が深刻な問題になっていた。コロナの発生源を特定の国や地域に結びつける風評が広がり、アジア系の人々への暴行や中傷が急増した。

イタリアのサンタ・チェチーリア音楽院では同じ授業料を払っているのに、アジア人だけレッスンに大幅制限をされたという報道もあった。


舞台はワガノワ•アカデミーに戻る。

フランスから来たクロエが、ぽつりと話した。


「パリではね、春先が一番ひどかった。地下鉄で、アジア人の女性が『コロナを持ち込んだのはお前たちだ』って怒鳴られてた」


「うちの国でも」


アーニャが珍しく暗い顔で言った。


「ウクライナでも、アジア人を見る目が変わったって、母が言ってた。間違ってるのに」


リンが俯いた。ベトナムから来た彼女も、ヨーロッパの空気を感じ取っていた。


「ホーチミンでも、知ってる。ヨーロッパでアジア人が嫌われてるって。母が『気をつけて』って何度も言う」


ユナが言った。


「韓国でも、ニュースになってた。『アジア人ヘイト』って言葉、初めて知った」


---


3. ロシアはどうだったのか


「ロシアは、どうなんだろう」


舞の問いに、誰も答えられなかった。


数日後、アンナに聞いてみた。彼女は少し考えて、答えた。


「ロシアでは...あまり聞かないわ。少なくとも、私の周りでは」


「それは、ロシア人が差別しないってこと?」


「違うわ。ロシアにはもともと、たくさんの民族がいる。アジア系の人も、普通にいるの。だから『アジア人』っていう括りで差別する感覚があまりないのかも」


カテリーナが付け加えた。


「それに、ロシアは欧米とは違う。コロナの発生元がどこだとか、そんなことより、自分の国で何が起きてるかの方が大事。ニュースでも、アジア人ヘイトの話はほとんど流れない」


オリガが優しく言った。


「でも、もし何かあったら、私たちが守るから。あなたたちは、私たちの友達だから」


その言葉に、リンが少しだけ顔を上げた。


---


4. スプートニクV


ロシアでは、ワクチン開発が世界に先駆けて進められていた。スプートニクVという名のワクチンは、ロシア保健省付属のガマレヤ記念国立疫学・微生物学研究センターが開発したものだ。その名は、人類初の人工衛星にちなみ、Vは「勝利」を意味する。


「ロシアのワクチン、すごいんだって」


エマがスマホを見せてくれた。


「有効率91.6%だって。ファイザーやモデルナと引けを取らないらしい」


「へえ...」


「でも、ロシア国内ではあんまり接種が進んでないんだって。何でだろう?」


ユナが答えた。


「ロシアの人、ワクチンに懐疑的なんだって。歴史的に、色々あったから」


クラスノワ先生の言葉を思い出す。ソ連時代、彼女は日本に公演に行ったと言っていた。あの頃とは、いろんなことが変わったけれど、変わらないものもある。


---


5. それでも、私たちは


マリーナさんの家でのクリスマスの夜。暖かいストーブの前で、ムーシカが丸くなっている。


クロエが突然言った。


「ねえ、外の世界は変だけど、ここは変わらないね」


「ここって?」


「この部屋。この猫。マリーナさんのピアノ。それに、私たち」


みんなが、それぞれの場所でうなずいた。


リンが呟いた。


「ヨーロッパではアジア人が嫌われてるって聞いた時、すごく怖くなった。私、ここで嫌われたらどうしようって」


「でも、違ったね」


「うん。ロシアは、ちょっと違うみたい」


アーニャが笑った。


「ウクライナも、アジア人の友達なんてたくさんいるよ。みんな同じ人間だもん」


シュエが静かに言った。


「中国では、ロシアのことを『兄弟の国』って言う人もいる。お互いにいろいろあるけど、でも...」


「でも?」


「ここにいると、国とか関係ないって思える」


その言葉に、みんなが静かになった。


窓の外では、雪が静かに降り続いている。


---


6. マスクを外す時


数日後、私たちはまた自主練習をしていた。


マリーナさんがピアノを弾いている。五人の呼吸が合う。


ふと、舞は思った。


(日本では、マスクを外せなかった。先生が『外そう』って言っても、誰も外さなかった。あの時、あのスタジオにいたのは、私たちだけだったのに)


(でも、ここでは...)


見渡すと、リンもユナもエマもシュエも、みんなマスクをしていない。当たり前のように、呼吸をしている。


「どうしたの、舞?」


リンが尋ねる。


「ううん、なんでもない」


舞は微笑んで、またバーについた。


(ここでは、わたしもマスクを外そう。本当の呼吸ができる)


ピアノの音が、スタジオに満ちている。


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