第6話「カフェテリアの七色」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 11月下旬
---
1. 昼休みの交差点
ワガノワのカフェテリアは、いつも騒がしい。
長いテーブルが並び、あちこちでロシア語が飛び交う。でも、よく耳を澄ますと、英語、フランス語、中国語、韓国語、ベトナム語、そして時々日本語も混ざっている。
この日も、私たちはいつものように固まって座っていた。舞、リン、ユナ、エマ、シュエ。五人が定位置だ。
「今日のスープ、なんだろう」
エマがトレイを覗き込みながら言う。彼女は毎日、メニューを当てる遊びをしているが、一度も当たったことがない。
「赤いから、ボルシチじゃない?」
ユナが答える。彼女は去年の経験で、大体わかるらしい。
「ボルシチ、好き!」
エマがスプーンを手に取った、その時だった。
「あの、隣、いい?」
振り返ると、見知らぬ女の子が立っていた。栗色の髪をゆるく結んでいる。大きな茶色い目が、少し緊張しているように見えた。
「もちろん、どうぞ」
リンが答えると、彼女はぱっと笑顔になった。
「ありがとう! 私はアーニャ。キーウから来たの。ウクライナ」
ウクライナ。その言葉に、私たちは少しだけ反応した。でも、彼女の明るさに、すぐにその違和感は消えた。
「私はリン。ベトナムから」
「私は舞。日本です」
「ユナ。韓国」
「エマ! アメリカ!」
「...シュエ。中国」
五人それぞれが自己紹介すると、アーニャは目を輝かせた。
「わあ、すごい! みんな違う国なんだ! 私、そういうの大好き!」
彼女は早速、ボルシチをすするところも構わず、話し始めた。
「キーウのバレエ学校ではね、私、一番だったんだけど、ここに来てびっくりした! みんな上手すぎる!」
「わかる!」
エマが共鳴した。
「私も! アメリカでは天才って言われてたのに、ここでは普通以下!」
「エマ、それは言いすぎ」
ユナが笑った。
でもアーニャは嬉しそうにうなずいている。
「でも、楽しいよね。上手い人たちと一緒に踊ると、自分ももっと上手くなれる気がする!」
彼女の明るさは、まるで太陽のようだった。初対面なのに、もうずっと前からの友達みたいな感じがする。
---
2. もう一人
その時、後ろからもう一つ声がした。
「ねえ、ここ、空いてる?」
振り返ると、金髪のショートボブの女の子が立っていた。フランス人だろうか。目が大きくて、人形みたいに可愛い。でも、少し困ったような顔をしている。
「あ、クロエ! こっちこっち!」
アーニャが手を振った。どうやら知り合いらしい。
「みんな、この子はクロエ。フランスから来てるの。パリ・オペラ座の学校から留学してるんだって」
クロエがおずおずと席についた。彼女は周りを見渡して、少し驚いた顔をした。
「わあ...日本人、韓国人、中国人、アメリカ人、ベトナム人、そしてウクライナ人とフランス人...まるで国際会議みたい」
「国際バレエ会議ね!」
エマが叫んで、みんな笑った。
クロエは、最初は少し緊張していたけれど、すぐに打ち解けた。彼女は英語が堪能で、エマとすぐに意気投合した。
「パリではね、もっと自由なの。先生もそんなに怒らないし」
「えっ、本当?! ロシアの先生、すごく厳しいよ!」
「そうなの! 最初のレッスンで、クラスノワ先生に『かかと前!』って怒鳴られて、泣きそうになった」
「わかる! 私も!」
二人は大げさに頷き合っている。
でも、クロエは続けた。
「でもね、3ヶ月経った今は、わかるの。厳しいのは、私たちのためなんだって。先生は、私たちから最高のものを引き出したいだけなんだって」
その言葉に、みんな少し静かになった。
---
3. それぞれの故郷
スープを飲みながら、私たちはそれぞれの国の話をした。
リンがベトナムのフォーの話をすると、アーニャが目を輝かせた。
「それ、ウクライナのボルシチに似てる! あったかいスープで、家族みんなで食べるの。冬は特にね」
「キーウの冬は、寒いの?」
舞が聞くと、アーニャはうなずいた。
「うん、でもサンクトペテルブルクよりは暖かいかな。春になると、栗の花がすごくきれいなの。街中が白とピンクになるの。みんな、ぜひ遊びにおいでよ」
その言葉に、何の違和感もなかった。ただ、友達の故郷の話。いつか行ってみたいな、と思っただけだ。
クロエは、パリの話をした。
「パリ・オペラ座はね、すごく古いの。中はすごく豪華で、まるでお城みたい。でも、ワガノワの方がもっと古いんだってね?」
「そうだよ。ワガノワは280年以上前からあるんだって」
ユナが教えてあげた。
「すごい...歴史を感じるよね」
エマが言った。
「アメリカには、そんな古いバレエ学校はないから。全部、せいぜい100年くらい」
「中国も、そんなに古いバレエ学校はない」
シュエが初めて口を開いた。
「でも、私たちは今、ここにいる。一番古い学校で、一番厳しい先生に教わってる」
その言葉に、みんながうなずいた。
---
4. もう一つの席
その時、少し離れたテーブルから、視線を感じた。
振り返ると、あのロシア人の金髪の少女、アンナがこっちを見ていた。隣にはカテリーナ。そしてオリガもいる。
アーニャが気づいて、手を振った。
「アンナ! こっちにおいでよ!」
アンナは少し躊躇したけれど、立ち上がってこっちに来た。カテリーナとオリガも後ろからついてくる。
「...何してるの?」
アンナが尋ねた。相変わらず無表情だ。
「国際会議!」
エマが答えると、アンナは少しだけ眉を上げた。
「...そう」
彼女はしばらく、私たちを見ていた。それから、ぽつりと言った。
「私も、ここに座っていい?」
「もちろん!」
アーニャが隣の席を叩いた。
アンナが座ると、カテリーナとオリガも続いた。長いテーブルが、もうぎゅうぎゅうだ。
でも、それがなぜか嬉しかった。
---
5. マリーナさんの思い出
その時、ピアノの音が聞こえた。
振り返ると、マリーナさんがカフェテリアの隅にある古びたピアノを弾いていた。彼女は時々、ここで弾くらしい。
曲は、知らないメロディだった。でも、どこか懐かしい感じがする。
「あ、それ、ウクライナの民謡だ」
アーニャが言った。
「マリーナさん、知ってるんだ...」
彼女はちょっと驚いた顔で、マリーナさんを見つめた。
マリーナさんは、私たちに気づくと、ほんの少し微笑んで、またピアノに集中した。
曲が終わると、私たちは拍手した。マリーナさんは、照れたように手を振って、ピアノを離れた。
「マリーナさんって、すごいよね」
エマが言った。
「いつも私たちのために弾いてくれて。猫のムーシカの話もしてくれて」
「猫?」
アーニャとクロエが同時に聞いた。
「そう。ロシアンブルーの猫で、名前はムーシカ。マリーナさんが遅いと、ご飯を食べないんだって」
「可愛い!」
アーニャが叫んだ。
「今度、写真見せてもらおう!」
---
6. 夕暮れの約束
気がつくと、外はもう暗くなりかけていた。カフェテリアにいた人たちも、ほとんど帰ってしまっている。
「すごい、何時間しゃべってたんだろう」
リンが時計を見て驚いた。
「3時間は経ってるね」
ユナが言った。
でも、誰も後悔していない。むしろ、もっと話したかった。
「ねえ、またやろうよ」
エマが言った。
「このメンバーで、集まるの。国際会議!」
「いいね」
「賛成」
「うん」
みんながうなずいた。
アーニャが立ち上がって言った。
「次は、ウクライナの料理を作ってくるね。母が送ってくれたレシピで」
「じゃあ、私はフランスのクロワッサン!」
クロエが続く。
「私はフォー」
「私はキムチ」
「私はおにぎり!」
「私は...北京ダックは無理だから、何か考える」
みんなで笑った。
---
7. 窓の外で
寮に帰る道すがら、私は空を見上げた。
11月のサンクトペテルブルクの空は、もうすっかり暗い。でも、星がとてもきれいだった。
「ねえ、舞」
隣を歩いていたリンが言った。
「今日、すごく楽しかったね」
「うん」
「こんなにたくさんの国の人と、友達になれるなんて、思わなかった」
リンの声は、ちょっとだけ震えていた。でも、それは寂しさじゃない。きっと、感動だった。
「私も」
「私も」
ユナとエマも言った。シュエは黙ってうなずいた。
私たちは、七人になった。
いや、正確には、アーニャとクロエを入れて七人。そしてアンナ、カテリーナ、オリガも、仲間と言っていいかもしれない。
ワガノワは、広いようで狭い。そして、狭いようで広い。
私たちは、それぞれ違う国から来た。でも、同じスタジオで、同じ音楽に合わせて、同じように汗を流している。
そのことが、なんだか不思議で、そしてとても尊いことのように思えた。




