第一部 第5話「ロシア人の瞳」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 12月(試験直前)
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1. 別世界の住人
私たちが毎日使っているスタジオは、1階から3階までいくつもある。私たち留学生は主に1階のスタジオを使うけれど、上級生のロシア人クラスは、よく3階の大きなスタジオでレッスンしている。
その日、私は忘れ物を取りに戻って、階段を上がった。
3階から、ピアノの音が聞こえた。でも、マリーナさんのピアノとは違う。もっと力強くて、速い。
何かに惹かれるように、私は階段を上った。スタジオのドアには小さな窓がある。中を覗いた。
息が止まった。
中では、ロシア人の生徒たちがレッスンをしていた。先生は、クラスノワ先生よりずっと若い男性教師。
でも、目を奪われたのは、一人の金髪の少女だった。
バーの中央に立っている。手足が信じられないほど長い。首が美しい。立っているだけで、絵になる。
彼女がアラベスクをした時、時間が止まったように見えた。脚が、背中より高く上がっている。でも、苦しそうじゃない。空気のように軽い。
隣で、もう一人の黒髪の少女が、同じ動きをしている。彼女は少し小柄だけど、跳躍が違う。地面を蹴った瞬間、弾丸のように飛び上がった。
「すごい...」
思わず声が出た。
「すごいでしょう」
後ろから声がして、振り返ると、赤毛の少女が立っていた。私たちより少し年上に見える。優しそうな笑顔。
「ごめんなさい、覗いちゃって」
「いいのよ。私も、小さい頃はよく先輩のレッスンを覗いてたから」
彼女は私の隣に立って、一緒にスタジオの中を覗いた。
「あの金髪はアンナ。6年生。うちの学年で一番うまいって言われてる。隣の黒髪はカテリーナ。アンナのライバル」
「ライバル?」
「そう。小さい頃から一緒に育ってきたの。二人とも10歳で入学して、ずっと一緒。でも性格は真逆」
彼女はクスッと笑った。
「私はオリガ。7年生。あなたは?」
「舞です。日本から。留学生です」
「知ってるわ。最近、夜遅くまで練習してる子たちでしょ。五人で」
見られていた。この学校では、何もかもが見られているらしい。
「あの、アンナさんたちは、小さい頃からここにいるんですか?」
「そうよ。10歳で入ってくるの。家を離れて、寮で暮らす。最初の年は、毎晩泣いてた子もいたわ。私もその一人」
オリガの目が、遠くを見た。
「でも、それだけのことをしてるの。私たちは、ロシアのバレエを背負って立つために、ここにいる。それがわかってるから、誰も文句は言わない」
その言葉の重みに、私は何も言えなかった。
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2. アンナ
数日後、私たちが夜の自主練習をしていると、スタジオのドアが開いた。
入ってきたのは、あの金髪の少女だった。アンナ。
彼女は私たちを見て、一瞬立ち止まった。それから、無言でバーについた。私たちの隣に。
誰も何も言えなかった。彼女の存在感が、スタジオの空気を変えた。
マリーナさんがピアノを弾き始めた。いつものゆっくりしたバーレッスン。
アンナが動き出した。
その瞬間、私たちは自分の動きが小さく見えるのを感じた。彼女のプリエは深く、足は完璧にターンアウトしている。腕の動きが、空気を描くようだ。
一曲終わって、彼女が口を開いた。
「あなたたち、毎日やってるの?」
ロシア語だった。ユナが通訳する。
「え? あ、はい。毎日」
「上手くなってる」
それだけ言って、彼女は帰ろうとした。でも、ドアのところで振り返った。
「でも、まだターンアウトが足りない。もっと骨盤から回さないと、怪我するよ」
そう言って、彼女は出ていった。
私たちは、しばらく呆然としていた。
「...今の、褒められたの?」
エマが小さな声で言った。
「褒められた...半分、注意もされたけど」
ユナが答えた。
「でも、アンナだよ? あのアンナが、わざわざ来てくれたんだ」
リンの声が、少し震えていた。
シュエが言った。
「彼女、私たちのこと、ライバルだと思ってるのかも」
「ライバル?」
「そう。ロシア人は、小さい頃から競争の中で育つ。強い相手を認めるのは、彼らなりのリスペクト」
その言葉に、なんだか勇気が湧いた。
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3. カテリーナ
翌日、今度はカフェテリアで、あの黒髪の少女に会った。
カテリーナ。一人で座って、パンを食べている。トレイには、質素な食事。黒パンとスープだけ。
私は思い切って、隣に座った。
「こんにちは」
彼女が顔を上げた。目が少し警戒している。
「...何?」
「昨日、アンナが私たちの練習に来てくれて。あなたも、あの時スタジオにいたよね?」
彼女は少し間を置いて、うなずいた。
「アンナが『見てくる』って言ってたから、ついて行っただけ」
「そう...」
気まずい沈黙。
でも、彼女が突然言った。
「あなたたち、夜遅くまでやってるって聞いた。アンナが『あの留学生たち、なかなかやる』って言ってた」
「え?」
「アンナは、ああ見えて、人のことちゃんと見てるの。自分より上手い人には厳しいけど、頑張ってる人には優しい」
カテリーナはそう言って、スープを飲んだ。
「私は、アンナと違って、お金がないからプライベートレッスンなんて受けられない。でも、あいつがいるから、頑張れる。あいつに負けたくないから」
彼女の目が、強く光った。
「あなたたちも、頑張って。ライバルがいるって、いいことだよ」
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4. オリガの贈り物
試験の前日、寮の部屋にオリガが来た。
「これ、使って」
彼女が差し出したのは、小さな布袋だった。中には、松脂が入っている。
「これは?」
「プロ用の松脂。舞台で滑らないやつ。私も、初めての試験の時に先輩にもらって、それ以来ずっと使ってる」
オリガは優しく微笑んだ。
「初めての試験は、誰でも緊張する。でも、大丈夫。あなたたちは、もう五人でやってきた。一人じゃないから」
その言葉が、心に染みた。
「オリガさんは、初めての試験、どうだったんですか?」
「泣いた」
あっさりと彼女は言った。
「失敗して、舞台袖で泣いた。でも、先生が来て、『泣くのは舞台が終わってからにしなさい』って。それで、次のシーンでは、泣きながら踊った」
私たちは、思わず笑った。
「それから私は、泣くのは家に帰ってからって決めてる」
オリガがウインクした。
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5. 試験前夜
その夜、私たちは五人で集まっていた。珍しく、練習はしないことにした。体を休めるために。
「ねえ、ロシア人の子たちって、すごいよね」
エマが言った。
「アンナも、カテリーナも。小さい頃から、あんなに厳しい中でやってきたんだ」
「10歳で家を離れるんだよ。私には、無理だったかも」
リンが呟いた。
ユナが言った。
「でも、彼女たちはそれを選んだんじゃない。与えられたんだ。バレエのために生まれてきたって感じ」
シュエが静かに言った。
「私は、それを羨ましく思う時もある。私は、自分で選んだ。バレエを。でも、彼女たちは、選ばれた。どっちが幸せか、わからない」
その言葉に、みんな考え込んだ。
私が言った。
「でも、私たちはここにいる。選ばれたか、選んだかは別として。明日、試験だよ」
「そうだね」
ユナが立ち上がった。
「頑張ろう。五人で」
「五人で」
私たちは、手を重ねた。
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6. 試験当日
朝、目が覚めると、体が震えていた。緊張で。寒さで。その両方で。
でも、寮を出ると、そこには五人全員がいた。マリーナさんも、待っていてくれた。
「行こう」
ユナの声で、私たちは歩き出した。
スタジオの前には、ロシア人の生徒たちも集まっていた。アンナ、カテリーナ、オリガ。みんな、同じ試験を受ける。
アンナが、私たちの方を見た。そして、小さくうなずいた。
カテリーナも、オリガも、同じようにうなずいた。
私たちも、うなずき返した。
クラスノワ先生が、ドアの前に立った。
「入りなさい」
私たちは、一歩を踏み出した。




