第一部 第4話「冬のワガノワ」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 11月〜12月
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1. 初雪
11月の終わり、サンクトペテルブルクに初雪が降った。
朝、窓を開けると、世界が真っ白だった。ロッシ通りの建物も、通りの石畳も、遠くのネヴァ川も、すべてが雪に覆われている。静かだった。雪は音を吸い込むのだと、初めて知った。
「わあ...」
隣でリンが息をのんだ。彼女はベトナム出身。雪を見るのは、人生で初めてだと言う。
「すごい...」
「すごいね」
私たちはしばらく、言葉もなく窓の外を見つめていた。
「エマ! 雪だよ! 雪!」
私が叫ぶと、シャワールームからエマが飛び出してきた。髪は泡だらけのまま。
「え?! どこどこ?!」
ニューヨークは例年大雪らしいが、エマも大はしゃぎ。三人で窓に張り付いて、初雪を眺めた。
後ろからユナのため息。
「シャンプー、流しなさいよ...でも、確かにきれいね」
ユナは韓国出身。雪は見たことがあるけれど、こんなにたくさんは初めてだと言う。
その日、私たちは寮を出るのに普段の倍の時間がかかった。雪の中を歩くのが楽しくて、つい寄り道してしまう。足跡をつけたり、手のひらで雪を受け止めたり。
「寒い! でも楽しい!」
エマが叫んだ。その声が、白い世界に吸い込まれていく。
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2. 冬のレッスン
でも、その喜びは長く続かなかった。
スタジオに着いて、レッスンが始まると、私たちはすぐに現実を思い知らされた。
体が動かない。
寒さで筋肉が縮こまり、思うように足が上がらない。プリエをしても、いつもの半分しか深くならない。バーにつく手がかじかんで、感覚がない。
「フーイ!」
クラスノワ先生の声が飛ぶ。でも、体がついてこない。
「何やってるの! 冬だからって、言い訳にならない! プロは、氷点下の劇場でも踊るのよ!」
彼女の言葉が、スタジオに響く。
でも、私たちは五人とも、顔を見合わせた。リンは唇が紫色になっている。エマは手をこすりながら、足をバタバタさせている。ユナも、さすがに辛そうだ。シュエは無表情のままバーについているけれど、その指先が少し震えている。
「マリーナ、もっと速いテンポで!」
マリーナさんが無言でテンポを上げる。彼女はいつも通りの落ち着いた表情だ。ピアノを弾く手は、寒さなんて関係ないかのように、正確に動いている。
レッスンが終わった時、私たちは五人とも、ぐったりしていた。
「死ぬかと思った...」
エマが呟いた。
「冬は、これからが本番だよ」
ユナが言った。彼女の去年の経験が、重くのしかかる。
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その夜、私たちは五人の部屋(リンと私の部屋)に集まっていた。ストーブをつけても、なかなか暖まらない。
「これ、使って」
シュエが差し出したのは、中国の使い捨てカイロだった。
「日本にもある! 使い方一緒?」
「たぶん」
私たちはそれぞれカイロを開けて、体に貼った。
「ロシアにはないの? こういうの」
リンの質問に、ユナが首を振る。
「あるにはあるけど、品質が...」
「アメリカにもあるよ! でも、こんなにたくさんは持ってこなかった」
「私も」
リンが肩を落とす。
「じゃあ、これ、分けよう」
シュエが言った。彼女のカイロのストックは、かなり多かった。
「いいの?」
「私、寒さには強いから。北京の冬も、これくらい寒い」
そう言うけれど、本当だろうか。彼女の指も、少し赤くなっていた。
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3. ロシア正教のクリスマス
12月に入ると、街の雰囲気が変わった。
クリスマスが近いのだ。でも、日本やアメリカと違って、ロシアのクリスマスは1月7日。正教の暦だからだ。12月は、まだ準備期間らしい。
でも、街にはもうイルミネーションが灯り始めていた。ネフスキー大通りには、大きなモミの木が飾られている。
「すごいきれい...」
エマが目を輝かせた。私たちは、レッスン帰りに寄り道して、イルミネーションを見ていた。
「でも、まだクリスマスじゃないんでしょ?」
リンの質問に、ユナが答える。
「そう。本番は1月。でも、12月も『ノヴィ・ゴッド』(新年)のお祝いがあるから、その準備も兼ねてるんだって」
「新年?」
「そう。ロシアでは、新年の方がクリスマスより大事なんだって。サンタクロースも、『ジェド・マロース』っていうのがいて、新年に来るんだよ」
ユナはさすが詳しい。
その時、後ろから声がした。
「よく知ってるね」
振り返ると、クラスノワ先生が立っていた。私服だ。ダークグレーのコートに、帽子をかぶっている。先生を見るのはスタジオの中だけだったから、なんだか不思議な感じがした。
「せ、先生...」
私たちは思わず背筋を伸ばした。でも、先生は少しだけ笑っていた。
「そんなに固くならなくていいわ。外では、ただの市民だから」
そう言って、先生はイルミネーションを見上げた。
「きれいね。私も若い頃、よくここを歩いたわ。まだソ連だった頃にね」
ソ連。歴史の授業で習った言葉だ。
「先生、ソ連の頃のクリスマスって、あったんですか?」
ユナが質問した。
「いいえ。ソ連では、宗教的なクリスマスは禁止されていたの。でも、新年のお祝いはあった。ジェド・マロースは、子供たちの人気者だったわ」
先生の目が、遠くを見ている。
「私が初めて外国に行ったのも、この時期だった。日本よ。12月に、公演でね」
日本。先生の口から、その言葉が出て、私はドキッとした。
「日本は、きれいだった。でも、クリスマスの飾りが、すごかった。ロシアとは全然違うの。1ヶ月も前から、あんなに飾るなんて、贅沢だと思ったわ」
先生はそう言って、また少し笑った。
「さあ、私は帰るわ。あなたたちも、あまり遅くなりなさんな。明日もレッスンがあるんだから」
そう言って、先生は闇の中に消えていった。
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4. マリーナさんとムーシカ
数日後、私たちはまた夜の自主練習をしていた。
五人の呼吸も、少しずつ合ってきた。シュエが加わってから、練習の質が明らかに上がった。彼女は正確だし、教えるのも上手い。自分が図書館で学んだことを、私たちにも教えてくれる。
「そこ、もっと背中を使う。ロシアの本に書いてあった」
「わかった、やってみる」
そんな会話が、自然にできるようになった。
練習の合間、マリーナさんがピアノを弾くのをやめて、私たちに話しかけた。
「あなたたち、クリスマスはどうするの?」
「え?」
「寮にいるの? それとも誰かの家に呼ばれてるの?」
私たちは顔を見合わせた。寮にいるつもりだった。誰も、ロシア人の知り合いの家に呼ばれるなんて、考えたこともなかった。
「寮です」
ユナが答えると、マリーナさんは少し考え込んだ。
「そう...じゃあ、うちにおいで」
「え?」
「クリスマス。1月7日。私の家で、一緒に過ごさない? 簡単な料理くらいは作るから。それに、ムーシカにも会えるし」
ムーシカ。彼女の猫だ。あの写真立ての猫。
「でも、いいんですか?」
「いいのよ。私も一人だし。あなたたちも、家族に会えなくて寂しいでしょ」
マリーナさんの言葉が、胸にしみた。確かに、寂しい。クリスマスに家族に会えないのは、初めてだ。
「行きます!」
エマが真っ先に手を挙げた。
「私も」
「私も」
リン、ユナ、私、そしてシュエもうなずいた。
「じゃあ、決まりね。7日の夕方、寮に迎えに来るから」
マリーナさんが微笑んだ。彼女の笑顔は珍しい。でも、その笑顔は、とても優しかった。
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5. 15%の壁
12月の終わり、私たちは初めての試練に直面した。
「学期末試験の話、聞いた?」
ある日、ユナが真剣な顔で言った。
「進級できるのは、クラスの15%だけだって。本当らしい」
リンの顔が、一瞬で曇った。
「15%...」
「うちのクラス、20人くらいだから...3人だけってこと?」
エマが指を折って数える。
「そういうこと」
私たちの間に、重い沈黙が落ちた。
ワガノワは厳しいと聞いていた。でも、数字で示されると、現実味が違う。
「でも、私たちは留学生だし...」
リンが呟いた。
「留学生だからって、関係ないよ。試験は一緒。ロシア人も留学生も、同じ基準で評価される」
ユナの言葉に、誰も何も言えなかった。
その夜、私たちはいつものように練習した。でも、いつもと違う緊張感があった。誰も口に出さないけれど、みんな考えている。落ちるのは誰か、残れるのは誰か。
マリーナさんのピアノも、いつもより真剣に聞こえた。
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練習が終わって、寮に帰る道すがら、シュエが突然言った。
「私、一人で練習してた時は、落ちても仕方ないと思ってた」
みんなが立ち止まる。
「でも、今は違う。五人でやってきたんだから、五人で残りたい」
彼女の声は、相変わらず静かだった。でも、その言葉には、強い意志が込められていた。
「私も」
リンが言った。
「私も」
ユナが言った。
「もちろん!」
エマが叫んだ。
私は何も言えなかった。ただ、みんなの顔を見て、うなずいた。
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6. 試験前夜
12月30日。試験は年明けすぐ。私たちは最後の練習をしていた。
外は氷点下10度。スタジオの中は暖かいけれど、窓の外は真っ白だ。雪はもう何度も降って、積もって、溶けて、また降っている。
「もう一回、通しましょう」
ユナの声に、五人がバーにつく。
プリエ。ジュッテ。ロンデ・ジャンブ・アテール。
何百回も繰り返した動き。でも、毎回何かが違う。少しずつ、良くなっている気がする。
マリーナさんのピアノが、私たちを包む。彼女も、私たちのために残ってくれている。もうすぐ、彼女の家でクリスマスを過ごす約束もしている。
練習が終わって、片付けをしていると、クラスノワ先生がスタジオに現れた。
「まだいたの」
驚いた。もう夜の10時だ。
「明日が試験前の最後の練習だから」
ユナが答えると、先生は少しだけ眉を上げた。
「そう。あなたたち、毎日やってるの?」
「はい」
先生は、私たちを一人ひとり見つめた。そして、小さくうなずいた。
「無理はしなさんな。体を壊したら、元も子もないからね」
それだけ言って、先生は去っていこうとした。でも、ドアのところで振り返った。
「あなたたち、よくやってるわ。それは、言っておく」
そう言って、先生は出ていった。
私たちは、しばらく言葉を失っていた。
「...先生、褒めてくれた?」
エマが小さな声で言った。
「褒めてくれた...気がする」
リンが答えた。
「やった!」
エマが飛び跳ねた。その姿に、みんなが笑った。
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寮に戻る道すがら、私たちは空を見上げた。
雪が、静かに降り始めていた。大きな綿のような雪が、ゆっくりと落ちてくる。
「きれい...」
シュエが呟いた。
「うん」
私たちは、雪の中を歩いた。足跡が、五つ並んでついていく。
明日が試験だというのに、不思議と怖くなかった。
五人でいれば、大丈夫。
そう思えた。




