第一部 第3話「図書館の少女」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 10月
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10月のサンクトペテルブルクは、急速に冬の気配を濃くしていた。
朝、寮の窓を開けると、息が白く染まる。ネヴァ川から吹く風は冷たく、日本の秋とはまるで違う。紅葉というより、木々はあっという間に葉を落とし、裸の枝を空に伸ばしている。
「寒い...」
エマがブルブル震えながら、ジャケットの襟を立てた。彼女はニューヨーク出身だが、それでもこの寒さはこたえるらしい。
「まだ10月よ。12月になったら、もっとすごいことになる」
ユナが涼しい顔で言う。彼女は去年の冬を経験している。先輩としての余裕だ。
「信じられない...」
リンも小さく呟いた。彼女の故郷・ホーチミンは年間通して暖かい。この寒さは、おそらく人生で初めてだろう。
でも、私たちは毎朝、決まった時間に寮を出る。ロッシ通りを歩き、あの薄黄色の建物へ向かう。寒さなんて、言い訳にならない。
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その日、レッスンが終わった後、私は図書館に寄った。
ワガノワの図書館は、想像していたよりずっと古くて、静かで、そして美しかった。高い天井、重厚な木の棚、擦り切れた革張りの椅子。窓から差し込む夕日が、棚に並ぶ本の背表紙を照らしている。バレエ史の本、舞踊理論の本、作曲家の伝記、そして何百冊もの楽譜。
私はバレエ史のコーナーで、日本のバレエについて書かれた本がないか探していた。でも、ロシア語の本ばかりで、読めるものはほとんどない。
ふと顔を上げると、見覚えのある後ろ姿があった。
窓際の席で、一人の少女が本を読んでいる。黒い髪をきっちり結び、背筋がピンと伸びている。あの中国人の留学生だ。名前は...まだ知らない。
彼女は私に気づいていないようだった。ページをめくる指が、とても繊細で美しい。バレエダンサーの指だ。
何かに導かれるように、私は彼女のそばへ歩いていた。
「こんにちは」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。あの静かな目が、私を映す。
「...こんにちは」
「いつも、ここにいるの?」
彼女は少し間を置いて、うなずいた。
「...本を読むのが好きだから」
それだけ言って、また本に目を落とす。でも、私はなぜかその場を離れられなかった。彼女の孤独が、気になったから。
「あの、名前、聞いてもいい?」
彼女がもう一度顔を上げた。少し驚いたような表情。
「...シュエ。中国人。北京から」
「私は舞。日本から」
「知ってる。毎日、スタジオで見てる」
そう言って、彼女はほんの少しだけ口元を緩めた。笑ったのかどうか、よくわからない。でも、確かに何かが変わった気がした。
「座ってもいい?」
シュエは黙ってうなずいた。私は彼女の向かいに腰を下ろした。
彼女が読んでいたのは、ロシア語の本だった。タイトルは読めないけれど、挿絵がたくさん入っている。古いバレエの写真のように見えた。
「何の本?」
「ワガノワの歴史。初代の校長の話」
「ロシア語、読めるんだ」
「少しだけ。中国で勉強してきた。でも、まだ難しい」
彼女はそう言って、本を閉じた。
「あなたは、どうして毎日プライベートレッスンを受けないの?」
突然の質問に、私は戸惑った。
「え?」
「あなたも、リンも。プライベートレッスンを受けてないでしょ。私は何度も見た。夜遅くまで、四人で自主練してる」
見られていた。図書館の窓から、スタジオが見えると言っていたのを思い出した。
「お金がないから...というか、迷ってる」
「迷う?」
「受けた方がいいのはわかってる。でも、それに頼りたくないというか...」
言葉がうまくまとまらない。でも、シュエはじっと私の目を見ていた。
「わかる。私も、受けてない」
「え?」
「受けたくないんじゃない。受けられない」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「私の両親は、北京で会社を経営してる。お金はある。でも、二人とも仕事ばかりで、私に会いに来たことは一度もない。小さい頃から、祖母に育てられた」
私は黙って聞いていた。
「ワガノワに来るときも、両親は反対した。バレエなんて、意味がないって。でも祖母が、『この子の好きにさせてあげなさい』と言ってくれた。祖母は、若い頃にバレエを習いたかったけど、戦争で諦めた人だから」
戦争。その言葉が、心に引っかかった。
「それで来られたの。でも、プライベートレッスンは、別料金。両親は、『そこまで払う必要はない』って。自分でやれるだけやりなさい、って」
シュエの目が、一瞬だけ揺れた。
「だから、図書館にいるの。本で勉強できることは、本で勉強する。ワガノワの歴史、メソッドの理論、ロシア語。自分にできることは、全部やる」
彼女の言葉には、悲壮感がなかった。ただ、静かな決意があった。
「すごいね」
私が言うと、シュエは首をかしげた。
「すごくない。当たり前のことをしてるだけ」
「当たり前じゃないよ。私、そういうの、考えたことなかった」
本当だった。私はただ、日本から来て、与えられたレッスンを受けて、自主練して。それだけで精一杯だった。でも、彼女はもっと先を見ている。自分に何ができて、何が足りないのか、ちゃんと考えている。
「あなたたち、四人で練習してるでしょ」
シュエが突然言った。
「うん。リンとユナとエマと」
「いいな」
その一言が、とても小さくて、でもとても重くて。
「一緒にやらない?」
思わず口に出ていた。
シュエが目を丸くした。
「え?」
「一緒に練習しよう。私たち、まだ四人だけど、五人でもスタジオは広いし。それに、あなた、バレエ上手そうだし」
「...私のこと、知らないのに」
「知らないけど、知りたい」
シュエはしばらく、私の顔を見つめていた。その目が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、夕日のせいかもしれない。
「...考えとく」
彼女はそう言って、また本を開いた。でも、その口元が、さっきより少しだけ上がっている気がした。
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図書館を出ると、外はもう暗くなりかけていた。冷たい風が頬を刺す。
寮に戻ると、リビングからエマの叫び声が聞こえた。
「やったー! できたー!」
入っていくと、エマがキッチンで何かを持って踊っていた。手には、三角形の何か。
「見て見て! おにぎり! 本物のおにぎり!」
彼女が差し出したのは、確かに三角形の形をしたご飯だった。海苔も巻いてある。でも、ちょっと形が歪で、海苔もところどころ破れている。
「ユナに教えてもらって、作ったんだ! ロシアの米でも、なんとかなるもんだね!」
「日本の米とは違うけどね」
ユナが後ろから苦笑いしながら言った。彼女は韓国人だけど、おにぎりの作り方を知っていた。さすがだ。
リンも興味深そうに覗き込んでいる。
「一口もらっていい?」
「もちろん!」
私たちは四人で、エマの手作りおにぎりを食べた。味は...正直、日本のとは全然違った。でも、なぜかとても美味しかった。
「今度は、リンにフォー教えてもらおう!」
エマが言うと、リンが微笑んだ。
「いいよ。でも、材料を揃えるのが大変かも」
「大丈夫! 私たちにはネット通販がある!」
エマがスマホを掲げて宣言した。彼女の明るさは、いつも私たちを救う。
その時、私は思い出したように言った。
「ねえ、今日、図書館でシュエに会ったんだ」
「シュエ? あの中国人の子?」
ユナが反応した。
「うん。一緒に練習しないかって誘ってみた」
「えっ!」
エマが目を輝かせた。
「あのクールビューティーが! 来るの? 来るの?」
「考えとくって言ってた」
「やったー! 五人だ! 五人になれる!」
エマがまた踊り始めた。リンとユナが笑っている。
私も笑いながら、窓の外を見た。図書館の明かりが、まだついている。シュエはまだ、あそこにいるのだろうか。
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翌日、レッスンが終わった後、私たちはいつものようにスタジオに向かった。
ドアを開けると、中にはマリーナさんがいた。ピアノのそばで、猫の写真立てを眺めている。今日も来てくれているのだ。
そして、その隣に、もう一人。
バーについたまま、こちらに背を向けている。黒い髪をきっちり結び、背筋がピンと伸びている。
「...来たんだ」
私が言うと、彼女はゆっくりと振り返った。
「考えた結果、来ることにした」
シュエの声は、相変わらず静かだった。でも、その目はしっかりと私たちを見ていた。
「一人より、五人の方が、できることも増えると思ったから」
エマがパッと駆け寄った。
「いらっしゃい! エマです! アメリカから来ました! おにぎり作れます!」
「...おにぎり?」
シュエが困惑した顔で私を見る。ユナとリンが笑った。
「いろいろあるんだよ、ここは」
ユナが言った。
マリーナさんがピアノを弾き始めた。今日も、ゆっくりとしたバーレッスン用の音楽。
私たちは五人が横一列に並んだ。ユナ、リン、私、エマ、そしてシュエ。
プリエ。ジュッテ。ロンデ・ジャンブ・アテール。
五人の呼吸が、少しずつ合っていく。隣のシュエの動きが、とても正確で美しい。彼女の足元から、音楽が湧き出ているかのようだ。
彼女はずっと一人で練習してきた。でも、今日からは違う。
マリーナさんの音楽が、私たちを包み込む。窓の外はもう暗い。でも、このスタジオの中だけは、温かい光に満ちていた。
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練習が終わって、寮に戻る道すがら、エマが言った。
「ねえ、私たち、グループ名つけない?」
「グループ名?」
「そう! 五人で練習するんだから、なんかあった方が楽しいでしょ!」
「...バレエの練習にグループ名って必要?」
ユナが呆れたように言う。でもエマはめげない。
「必要だよ! 結束力が高まる!」
「じゃあ、エマが考えて」
リンが笑いながら言うと、エマは真剣に考え始めた。
「うーん...『ロッシ通りの五本の白鳥』とか!」
「長い」
ユナの即答に、みんなが笑った。
その時、振り返ると、図書館の窓が暗くなっていた。シュエは今日は図書館にいない。私たちと一緒にいる。
そのことが、なんだかとても嬉しかった。
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