第23話 素人向けオープンクラス
東京 2022年12月
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1. 休館の五日間
いつも通っているスタジオが、ビル全体設備点検で五日間閉まることになった。
「じゃあ、その間どうしよう」
真由美に相談すると、「私は自主練にするけど」と言われた。私は少し考えて、別の答えを出した。
迷った末に、新宿駅前にあるノアダンススタジオに行ってみることにした。ストリートやジャズも扱う総合系のダンススタジオで、オープンクラスにバレエもある。私が昔通っていたバレエ教室とは、系統も雰囲気もまるで別物だった。
プロの間では、ちょっとした噂のあるスタジオでもあった。身体慣らしのつもりで回数券をまとめ買いしたプロが、結局チケットを使い切らないまま行かなくなる——そんな話を、何度か耳にしたことがある。
正直、興味もあった。今、白鳥の湖の群舞に参加してくれている公募のみなさんが、普段どんなレッスンを受けているのか。彼女たちの「当たり前」を、少し覗いてみたかった。
2. 一番、二番
レッスン開始のバーに着いて、間もなくだった。
講師の女性が、まっすぐこちらに歩いてきた。
「バレエは初めて?」
「あ、いえ……」
答えを最後まで聞かずに、彼女は続けた。
「足のポジション、教えてあげるわね。これが一番、これが二番」
床に描かれた足の形を、ゆっくりと踏んで見せてくれる。教室には、他にも明らかな初心者が何人もいた。なのに、彼女はまっすぐ私のところへ来て、私にだけ、それを説明していた。
戸惑いながら、私は「はい」と頷いた。他に、言葉が見つからなかった。
3. 二番の幅
説明された二番のポジションは、思っていたより、ずいぶん広かった。ジャズかコンテンポラリーがメインのダンサーなのか、もっと低レベルな講師なのか。
足を大きく開いて、まるで安定感を優先したような形。ワガノワ——キーロフの基礎は、二番がとても狭い。腰の幅より狭い程度で、そこからアンディオールをかける。ポアントを履いているとちょうどいい幅だ。その2番を無意識にできるように何年もかけて叩き込まれる感覚だった。
同じ「二番」という名前なのに、目の前にあるのは、まったく違う形をしていた。
日本は、世界でも屈指のバレエ人口を抱えていると聞いたことがある。スタジオの数も、教室の数も、数えきれないほどある。それなのに、一般向けの現場では、こういう教え方が「基本」として広まっているのかと、少し愕然とした。
白鳥の湖の公募組が、今まで受けてきたレッスンも、きっとこれに近いものだったのだろう。彼女たちの動きの癖や、揃わない理由の一端が、少しだけ腑に落ちた気がした。
4. なぜ、私に
それにしても、と思う。
なぜ、他にも初心者がいる中で、講師はまっすぐ私のところに来たのだろう。
レオタードも、持ち物も、特別なものは何もつけていない。名乗ってもいない。それなのに、彼女は迷いなく私を選んで、一番から説明を始めた。
考えても、答えは出なかった。ただ、教室の隅で、何人かの生徒がこちらをちらちら見ているのには気づいていた。値踏みするような、あるいは警戒するような視線だった。
その日のレッスンは、最後まで、居心地の悪さがつきまとった。
5. 拓也の忠告
リハーサル会場で、その話を拓也にしてみた。彼はシュツットガルトから帰国した男性ダンサーで、今回の公演にも主要キャストとして参加している。
「ああ……」
話を聞き終える前に、拓也は察したような顔をした。
「日本の一般向けオープンクラス、本当にひどいところ多いよ。行かない方がいい」
「そうなの?」
「僕、前に膝を痛めた時、身体慣らしのつもりでそういうオープンクラスに行ったことがあるんだ。動きも小さくて済むし、リハビリにちょうどいいかと思って」
「それで?」
「同じ目に遭った。妙に絡まれるっていうか、遠巻きにされるっていうか」
拓也は、少し声を落とした。
「たぶんだけど、あの手のクラスには、長く通ってる生徒たちの中に、ちょっとした『ボス』がいるんだよ。教室内の序列とか、講師との距離感とか、そういうのを牛耳ってる人が。そこにプロやプロ経験者がふらっと来ると、居場所を脅かされる気がするんだと思う。だから、講師も生徒も含めて、それとなく追い払おうとする」
「追い払う、って……。教えるふりして、初心者扱いするのも?」
「たぶんね。『あなたは何も知らない』って先に決めつけておけば、上下関係がはっきりするから。もう、行かない方がいいよ。あの立地なのにプロやセミプロも元バレエダンサーだったような人も行ってないでしょ。」
6. モヤモヤの正体
拓也の説明は、筋が通っていた。実際、そうなのかもしれない。
それでも、家に帰ってからも、私の中には小さな違和感が残り続けていた。
腑に落ちない、というのとも少し違う。誰かを責めたい気持ちでもない。ただ、「それが理由です」と言われても、綺麗に収まりきらない何かが、胸の奥に引っかかったままだった。
もしかしたら、あの講師は、本当に親切のつもりだったのかもしれない。もしかしたら、何か別の理由があったのかもしれない。分からないことを、分からないまま抱えているのが、一番落ち着かなかった。
7. 白鳥のリハーサルで
翌日のリハーサル。
公募組の隊列を眺めながら、私は昨日の「二番」のことを、また思い出していた。
彼女たちの中には、きっと、あの講師のような教え方しか知らない人もいるはずだった。狭い二番の感覚を、一から伝え直すところから、私たちは始めている。それは、彼女たちの今までを否定することではなく、ただ、違う「型」を新しく重ねる作業なのだと、自分に言い聞かせた。
「腕、もう少し楽に。力まなくていいですよ」
声をかけると、公募の一人が、ほっとしたような顔で頷いた。
その表情を見ながら、私はふと、ワガノワの教室を思い出していた。
アーニャと並んで、二番のポジションを直し合ったことが、何度もあった。「舞、狭すぎ。もう少しだけ開いていい」「アーニャこそ、膝伸びてない」。そんな軽口を叩き合いながら、二人で鏡の前に立っていた日々。
あの狭い二番の感覚は、今でも身体に残っている。アーニャも、きっとそうだろう。
8. まだ、その先へ
夜、リハーサルを終えてスマートフォンを開いた。
アーニャからの新着は、やはりなかった。
ユナやリンとのやり取りの中に、何度か彼女の名前が出てくる。誰も、確かなことは知らない。ただ、みんなが同じように、既読のつかない画面を、時々開いているのだと分かった。
「二番の幅一つとっても、教わった場所によって、こんなに違う」
私はそう独り言ちた。
型は違っても、同じ「バレエ」と呼ばれるものを、みんなどこかで踊っている。日本のオープンクラスの生徒たちも、キーウの地下シェルターで踊るアーニャも、パリのオペラ座で踊るクロエも。
繋がっているとまでは、まだ言い切れない。
それでも、遠く離れた場所で、誰かが同じように足を開き、同じように爪先を伸ばしていると思うと、あの日の居心地の悪さも、少しだけ違う意味を持つ気がした。




