第22話「おだての代償」
東京 2022年12月
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1. 松岡のアドバイス
「甘やかせ、それだけだよ」
松岡さんは、フィットネスジムのスタジオでそう言い切った。東京バレエ団出身、今は大手ジムでバレエレッスンを教えている。健一さんが「素人をまとめるコツを聞きたい」と連れてきた相手だった。
「プロの目で見たら、アンディオールもできてない、軸もぶれてる。目も当てられない。でもね」
彼は、ペットボトルの水を一口飲んだ。
「『お前ら、もう一端のバレエダンサーだ』って言い切るのが一番早い。事実かどうかは関係ない。信じさせたもの勝ち」
「洗脳、ってことですか」
「聞こえは悪いけど、そう。人間、褒められた分だけ頑張れる生き物だから」
健一さんは、半分納得、半分不安そうな顔をしていた。私も、同じ気持ちだった。
2. ボイコットの刑
その助言の正しさは、翌週、最悪の形で証明された。
新しく加わった経験者枠のダンサーが、公募組の隊列を見て、ため息まじりに言ったのだ。
「うわあ、アンディオールも基本もできてないの? きっつ」
悪気はなかったのかもしれない。技術的には、事実だった。でも、その一言が広まるのに、休憩時間ひとつもかからなかった。
翌日から、その人への挨拶が消えた。誰も、彼女の隣に立たなくなった。更衣室でも、話しかけられるまで誰も口を開かない。露骨ではない、けれど確実な、集団によるシカトだった。
「これは……」
真由美が、青ざめた顔で言った。
「腫れ物扱い、通り越してる」
本人が音を上げて健一さんに相談しに来た頃には、もう手の施しようがなかった。結局、彼女はパートを外れることになった。松岡さんの言葉が、笑えない実演になった瞬間だった。
3. おだての実践
「正直、あの光景を見てから、褒めるのが怖くなった」
私はそう言いながらも、リハーサル中は褒め続けた。
「腕の角度、揃ってきましたね」
「隊列、先週よりずっと綺麗です」
「本当に、みなさんプロみたいですよ」
最後の一言は、半分は方便のつもりだった。でも、言われた側の目の色が変わるのが分かった。姿勢が伸びる。表情が変わる。松岡さんの言う通り、褒め言葉は魔法みたいに効いた。
問題は、魔法が切れなかったことだった。
4. 床が滑りやすいんだけど
三週目のリハーサル。
「ちょっと」
公募組の一人が、腕を組んで言った。
「この床、滑りやすいんだけど。もっとちゃんとしたスタジオ借りられないの?」
そのスタジオは、都内でも指折りのバレエ専用フロアだった。プロのカンパニーが本番前によく使う場所だ。松岡さんが「褒めて伸ばせ」と言った通りに接してきた結果、いつのまにか要求の水準だけが、経験値を追い越していた。
「あの……ここ、けっこう良い床なんですけど」
真由美が、笑顔を保ったまま答えた。相手は納得していない顔のまま、ふん、と鼻を鳴らして持ち場に戻った。
5. 椅子の攻防
休憩時間、スタジオの端に並べられた椅子は、いつのまにか公募組の荷物で埋まっていた。バッグ、上着、タンブラー。全ての椅子に何かが置かれ、座る人間がいない椅子など一つもない。
イリーナや真由美、そして私は、壁際に立ったまま水を飲んでいた。
「これ、変じゃない?」
美咲が、小声で耳打ちしてきた。
「メインで踊る側が立って、公募の子たちが座って荷物置いてる。逆じゃない?」
「……確かに」
誰も悪気があってやっているわけではない。ただ、椅子取りゲームに勝った人が座り、負けた人が立つ。それだけの、シンプルな力学だった。でも、その光景を見ながら、私はふと不安になった。
(褒めすぎたんだろうか)
(それとも、大勢の素人を巻き込んだこと自体が、間違いだったんだろうか)
6. 迷いの中で
夜、一人になってから、私はその日のことを反芻していた。
床の文句、椅子の占領、スター気取りの態度。どれも、悪意から出たものではない。むしろ、みんな一生懸命だった。ただ、褒められて伸びた自信が、時々、少しだけ方向を間違えるだけだった。
(松岡さんの言うことは、正しかったんだと思う)
(でも正しいことが、いつも心地いいとは限らないんだな)
そんなことを考えていたとき、スマートフォンが震えた。
ユナからのメッセージだった。
「舞、元気? こっちは変わりなく練習してるよ。アーニャのこと、まだ何も分からない?」
「うん、まだ。何も」
「そっか……。私もずっと祈ってる。舞は今、何に悩んでる?」
「実は、公募で人を集めすぎたのかもって、悩んでる」
送ってから、自分でその文章を読み返した。
(贅沢な悩みだな)
椅子取りゲームや床の文句で頭を悩ませている自分と、地下シェルターで生きるか死ぬかの中で踊り続けているかもしれないアーニャ。比べること自体がおかしいと分かっていても、比べずにはいられなかった。
「贅沢な悩みだって、分かってるんだけどね」
私はそう続けて送った。
ユナからの返信は、少し時間が経ってから届いた。
「贅沢でも、悩みは悩みだよ。それに、48人も巻き込んで舞台を作ろうとしてること自体、舞らしいと思う。アーニャがもし今のこと聞いたら、きっとそう言うと思うよ」
その言葉に、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
7. 舞台の上の椅子
翌日のリハーサル、私は思い切って提案してみた。
「休憩中の椅子、順番に座りましょうか。今日はメインの人が先に座って、次の回は公募のみなさんが先に、みたいに」
「え、いいんですか」
公募組の一人が、少し驚いた顔をした。
「いいも何も、みんなで作ってる舞台だから」
その日から、椅子取りゲームは少しずつ収まっていった。床への文句も、スタジオの使い方に慣れるにつれて減っていった。松岡さんの「洗脳」は、正しく使えば、たぶん劇薬にも薬にもなる。さじ加減を覚えるのは、私たち側の仕事なのだと、ようやく気づいた。
湖畔に立つ48羽の白鳥は、まだ完璧には揃っていない。それでも、少しずつ、同じ方向を向き始めていた。
その群れの向こうに、まだ声の聞こえない一羽がいることを、私は忘れていなかった。




