第12話「帰国者たち」
東京 某バレエスタジオ 2022年5月
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1. 集う場所
5月の連休が明けて、スタジオにはさらに多くのダンサーが集まるようになった。
帰国した留学生。海外のバレエ団から戻ってきたプロダンサー。それまで国内で活動していたダンサーたちも加わり、スタジオは連日賑わっている。
「すごい人ですね」
私が言うと、ランが笑った。
「今は世界中から帰ってきてるからね。ロシア、ウクライナ、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ。みんな、それぞれの場所から逃げるようにして戻ってきた」
「逃げるように...」
「そう。でも、それは決して悪いことじゃない。生きるために逃げる。それでいいんだよ」
ランの言葉が、ずっしりと心に響いた。
その日のレッスンには、見覚えのある顔もいた。
「あれって...」
「そう。パリ・オペラ座で踊ってた、あの子だよ」
ランが教えてくれたのは、世界的に有名な日本人バレリーナだった。彼女はパリに長年所属していたが、コロナ禍と戦争の影響で一時帰国しているらしい。
「こんな人が、こんな小さなスタジオに来るんだ」
「ここはそういう場所なの。肩書きは関係ない。バレエを愛しているかどうか、それだけが全て」
ランの言葉に、私は深くうなずいた。
2. ボリショイのイリーナ
イリーナは、毎週火曜日と金曜日にスタジオに来ていた。
彼女のレッスンを受けるたびに、そのレベルの高さに圧倒される。プリエ一つとっても、深さが違う。アラベスクのラインは神がかっている。
「イリーナさん、どうして日本に?」
ある日、勇気を出して聞いてみた。
彼女は少し間を置いて、答えた。
「ロシアにいると、息が詰まるから」
「息が...」
「戦争が始まってから、街の雰囲気が変わった。ニュースはプロパガンダばかり。友人たちの意見も分かれた。『特別軍事作戦』を支持する人と、反対する人」
イリーナの目が、曇った。
「私は反対の立場を取った。でも、それを公に言うことはできない。言ったら、終わりだから」
「だから、逃げてきたの?」
「そう。逃げることは、決して悪いことじゃない。生き延びること。それが、一番大事だから」
彼女の言葉は、クラスノワ先生の言葉と重なった。
『自分の命を優先しなさい。バレエは、死んでもできないから』
3. パリ・オペラ座のユリ
イリーナとは別の日、パリ・オペラ座から帰国したユリさんがレッスンを見てくれた。
「あなた、ワガノワにいたの?」
「はい。でも、途中で帰ってきてしまって...」
「途中でも、ワガノワはワガノワ。そこで学んだことは、一生ものよ」
ユリさんはそう言って、私のアラベスクを見た。
「もっと背中を使って。パリ・オペラ座ではね、背中で語るって言うの」
「背中で?」
「そう。観客は、あなたの背中を見ているの。だから、背中にも表情を」
彼女の指導は、ワガノワとは違った。でも、同じように深かった。
「ワガノワもパリも、目指すところは同じ。美しいバレエを届けること。それだけは、国が違っても変わらない」
ユリさんはそう言って微笑んだ。
4. ドイツから帰ってきた健一
スタジオには、男性ダンサーも数人いた。
その中で、健一さんはドイツのバレエ団で長年踊っていたベテランだった。
「僕が帰ってきたのは、母が病気だから」
彼はそう言った。
「でも、ドイツでの経験は無駄じゃない。ここで、若い人たちに教えていきたい」
健一さんは、私たちにパ・ド・ドゥを教えてくれた。男性がどのように女性を支えるのか。その技術と、そして心構えを。
「バレエは、一人で踊るものじゃない。相手を信頼して、呼吸を合わせて。それが、一番大事なこと」
その言葉は、ワガノワで学んだ「五人で練習する」ことと同じだった。
5. アメリカからの手紙
その日、エマから長いメッセージが届いた。
「アメリカに帰ってきてから、毎日レッスンしてる。母のスタジオで。でも、みんなのことが恋しい。特にアーニャ。彼女、元気?」
私はすぐに返事を書いた。
「アーニャは、地下で踊ってるって。爆撃の音をBGMにね」
「...泣けてくるよ」
「うん」
「私たちにできること、ないのかな」
エマのその問いに、私は答えられなかった。
しばらくして、エマからもう一通。
「公演、やるんだって? 私も行きたい。でも、行けないから、動画送ってね」
「うん、約束する」
それが、私たちの新しい約束だった。
6. ベトナムのリン
リンからもメッセージが届いた。
「ハノイのバレエ団で、小さな公演をやることになった。『白鳥の湖』の抜粋。私は群舞の一人」
「すごい! 頑張って」
「ありがとう。舞は? 公演やるんだって?」
「うん。まだ、何を踊るか決まってないけど」
「あなたなら、大丈夫。ワガノワで学んだんだから」
リンのその言葉が、どれほど支えになったか。
7. 中国のシュエ
シュエからは、珍しく写真が届いた。
北京のバレエスタジオ。大きな窓から光が差し込んでいる。そこに立つシュエの後ろ姿。
「ここで踊ってる。あなたは?」
「日本で。公演に向けて練習中」
「頑張って」
「シュエも」
「会いたいね」
「会いたい」
それだけのやり取り。でも、十分だった。
8. フランスのクロエ
クロエは、パリ・オペラ座のオーディションに合格したらしい。
「ワガノワで学んだことが、生きている気がする。ロシアとフランス、二つのメソッドを教えてもらって、私は成長できた」
「すごいね、クロエ」
「まだまだこれから。舞も、公演頑張ってね。絶対、見に行くから」
その約束が、いつか叶う日を夢見て。
9. ウクライナのアーニャ
アーニャからは、まだ連絡がなかった。
スマホを開くたびに、彼女のアイコンを探す。でも、既読すらつかない。
「アーニャ...」
私は、彼女の無事を祈ることしかできなかった。
ランが言った。
「信じるしかないの。彼女が生きていることを。そして、また会えることを」
「はい」
「それが、私たちにできること。ただ、信じること」
その言葉を胸に、私はレオタードに着替えた。
今日も、踊る。アーニャの分まで。
10. それでも、私たちは
スタジオの鏡に映る自分を見る。
ワガノワで学んだこと。帰国してから出会った人たち。それぞれの事情を抱えながら、それでも踊り続ける理由。
私たちは、バラバラだ。ロシア人、ウクライナ人、ベトナム人、韓国人、中国人、アメリカ人、フランス人、日本人。
でも、同じ音楽に合わせて踊るとき、私たちは一つになれる。
それが、バレエの力だ。
それが、私たちの繋がりだ。
「さあ、もう一度」
ランの声で、私はバーについた。
かかとを前に。
骨盤から。
音楽に乗って。
今日も、踊る。
それが、私たちの生きる証だから。




