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白夜のアラベスク 〜ワガノワ、戦争、そして私たち〜  作者: はまゆう


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第二部「それでも、かかとは前に」 第11話「日本のスタジオ」

東京 某バレエスタジオ 2022年4月



1. 新しい場所


帰国してから、一週間が経った。


成田空港で両親に迎えられ、実家に戻った私は、しばらくの間ぼんやりと過ごしていた。サンクトペテルブルクでの日々が、遠い夢のように感じられる。あの斜めの床、クラスノワ先生の声、マリーナさんのピアノ、そして仲間たちの笑顔。


全てが、もう過去のことのように思えた。


でも、体は覚えていた。


朝、目が覚めると、自然とバーレッスンをしたくなる。鏡を見て、姿勢を正す。かかとを前に。骨盤から。


「そろそろ、スタジオに行かない?」


母の言葉に、私はうなずいた。


「うん。行ってみる」


---


2. 東京のバレエスタジオ


母が紹介してくれたのは、東京のとあるバレエスタジオだった。


都心だけど静かな場所にある、こじんまりとしたダンススタジオ。でも、中に入ると、広いスタジオがあった。床はワガノワのように斜めではない。まっ平らだ。窓はない。


「ここは、海外から帰ってきたダンサーがよく集まる場所なんですよ」


受付の女性が教えてくれた。


「ロシアから帰ってきた子も、ウクライナから帰ってきた子も、みんなここでレッスンを受けてる」


「そうなんですね...」


私は、申込用紙に名前を書いた。桜井舞。16歳。ワガノワ・バレエ学校留学経験。


「ワガノワ! すごいね」


受付の女性が目を輝かせた。


「でも、途中で帰ってきちゃったので...」


「それでもすごいよ。ここに来る子たち、みんなそうだから。途中で帰ってきたり、やむを得ず帰国したり。でも、それでも踊り続けたいから、ここに来るんだよ」


その言葉が、少しだけ私の心を軽くした。


3. 初めてのレッスン


初めてのレッスンは、土曜日の午前中だった。


スタジオには、20人くらいのダンサーが集まっていた。年齢はバラバラ。10代の子もいれば、30代くらいの大人もいる。男性も数人。


みんな、ものすごく集中している。話し声はなく、ただストレッチをする音だけが聞こえる。


先生が入ってきた。40代くらいの女性。背筋がピンと伸びていて、一瞬でクラスノワ先生を思い出させる。


「今日は、新しい方が来ています。桜井さん。ワガノワから帰ってきたそうです」


私に視線が集まる。恥ずかしかったけれど、同時に誇らしさも感じた。


「では、始めましょう。バー、プリー」


日本語の指示。でも、その言葉の背後に、ロシア語が聞こえる気がした。


ワー・ヌース。


かかと、前。


4. ランの話


レッスンの後、一人の女性が私に話しかけてきた。


「ワガノワから帰ってきたの?」


「はい」


「私もよ。でも、ずいぶん前だけど」


彼女の名前は、ラン。ベトナム人で、キーロフ(ワガノワ)で学んだ後、ベトナムに帰国。そして、今は日本で指導をしているらしい。


「クラスノワ先生のクラスだったの?」


「はい! 知ってるんですか?」


「知ってるよ。あの鬼のクラスノワ。私もお世話になった」


ランが笑った。


「彼女、今でも元気?」


「はい。とても元気です。厳しいけど、でも...」


「でも、愛がある。でしょ?」


「はい」


私たちは、言葉を交わさなくても通じ合える何かを持っていた。ワガノワで過ごした時間が、私たちを結びつけている。


「ここには、いろんな人が集まるよ。ロシアから帰ってきた人、ウクライナから帰ってきた人、フランスから帰ってきた人。みんな、事情は違うけど、踊りたいという気持ちは同じ」


ランはそう言って、スタジオを見渡した。


5. イリーナ


次の週、私はスタジオで一人の女性に出会った。


金髪の、背の高い女性。ロシア人だろうか。彼女は誰とも話さず、黙々とストレッチをしている。


「あの人は、イリーナ。ボリショイで踊ってた人なんだ」


ランが教えてくれた。


「ボリショイ!」


「うん。すごいでしょ。でも、戦争が始まって、ロシアを離れざるを得なくなった。今は日本にいる」


イリーナは、私たちの視線に気づいて、軽く会釈した。その目は、どこか悲しそうだった。


レッスンの後、私は勇気を出して話しかけた。


「イリーナさん...ですよね?」


「そうよ」


「私、ワガノワに留学してました。舞っていいます」


「あら、そうなの」


イリーナの表情が、少しだけ和らいだ。


「私はボリショイ。犬猿の仲ってわけじゃないけど、ちょっとしたライバル関係なのよ」


「そうなんですか?」


「冗談よ。私たちはみんな、同じバレエを愛してる。国は違っても、それは変わらない」


彼女はそう言って、遠くを見つめた。


「でも、今は...」


言葉を飲み込んだ。何を言いたいのか、私にはわかった。


戦争が、彼女の国と、私の友達の国を引き裂いている。


それが、どれほど辛いことか。


6. 集う人々


そのスタジオには、他にもたくさんのダンサーが集まっていた。


パリ・オペラ座から戻ってきた日本人ダンサー。ドイツのバレエ団で踊っていた男性。アメリカのバレエ学校から帰国した留学生。


「みんな、なぜ帰ってきたんですか?」


ある日、私は聞いてみた。


答えは、それぞれ違った。


「家族が心配だから」

「ビザの更新ができなくなったから」

「母国で教えたかったから」

「ただ、帰る場所が必要だったから」


でも、共通していることが一つあった。


「それでも、踊り続けたい」


その言葉が、何よりの支えだった。


7. リンの便り


夜、スマホを開くと、リンからメッセージが届いていた。


「元気? 私はハノイのバレエ団で練習してるよ。まだ、私たちの約束、覚えてる?」


「覚えてるよ。『絶対にまた会う』ってやつでしょ?」


「そう。それを忘れないで」


短いやり取りだった。でも、それだけで心が温かくなった。


ユナからもメッセージが来た。


「韓国に帰ってきたよ。母と一緒にスタジオをやってる。たまには遊びにおいで」


エマからは、アメリカの自撮り写真。彼女はニューヨークのバレエスタジオに通い始めたらしい。


「ロシア語、もう忘れちゃったよ。でも、『スパシーバ』だけは覚えてる」


笑顔の絵文字が添えてあった。


シュエからは、短い言葉。


「中国で踊ってる。あなたは?」


「私も。日本で」


「よかった」


たったそれだけ。


クロエからは、パリの写真。エッフェル塔の下で、バレエのポーズをしている。


「フランスに帰ってきたよ。ワガノワで学んだこと、ここで活かすね」


そして、アーニャからは...


しばらく、連絡がなかった。


8. アーニャからの連絡


一週間後、アーニャからメッセージが届いた。


「生きてるよ」


たったそれだけ。


でも、それで十分だった。


私はすぐに返事を書いた。


「よかった。こっちは大丈夫。あなたは?」


「キーウ。地下で踊ってる。爆撃の音をBGMにね」


笑顔の絵文字が、一つ。


それが、どれほど辛いことか。想像するしかできなかった。


「気をつけて」


「あなたも」


それで、会話は終わった。


長くは続けられない。スマホの電池も、心の余裕も、きっと足りないから。


9. 新しい仲間


スタジオでのレッスンは、週に三回になった。


毎回、新しい出会いがある。


「あなた、ワガノワにいたんだって?」


「うん」


「私、モスクワの学校にいたんだ」


「ボリショイ?」


「そう。でも、途中で帰ってきちゃった」


「同じだね」


「うん、同じ」


言葉はいらない。同じ経験をした者同士、通じ合える何かがある。


私たちは、それぞれの事情を抱えている。でも、同じ場所に集まって、同じように汗を流す。


それが、何よりの救いだった。


10. それでも、かかとは前に


ある日のレッスンが終わった後、ランが言った。


「ねえ、あなたたち。公演をやらない?」


「公演?」


「そう。帰国したダンサーたちの公演を。自分たちの存在を示すために、そして、戦争で苦しんでいる人たちにメッセージを送るために」


私の心が、ドキッとした。


「私なんかが、出てもいいんですか?」


「もちろん。あなたはワガノワで学んだんだよ。その経験を、見せてあげて」


ランの言葉に、勇気が湧いた。


「...やります」


その言葉が、新しい始まりだった。


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