第10話「帰国」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 2022年3月下旬
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1. 決断の時
3月も終わりに近づいた頃、日本政府から「退避勧告」が正式に発表された。
「在留邦人は、できるだけ早期にロシアを離れること」
スマホのニュースアプリが、そう告げていた。通知を見た瞬間、私はそれが「決断の時」であることを理解した。
両親からも、電話があった。
「舞、そろそろ帰ってきなさい」
母の声は、いつもより優しかった。でも、その優しさがかえって重い。
「うん...」
「飛行機、まだ飛んでるの?」
「わからない。調べてみる」
「とにかく、早く。お父さんも心配してるから」
電話を切って、私はしばらくベッドの上に座っていた。
隣のベッドでは、リンがこちらを見ている。彼女も同じような電話を、ベトナムの母から受け取ったようだった。
「リンは、どうするの?」
「...わからない。でも、母は『帰ってこい』って」
リンの声は、小さかった。
その夜、私たち六人はリビングに集まった。
エマが去ってから、こうして全員で集まるのは久しぶりだった。
「日本の政府が、退避勧告を出した」
私が言うと、みんなの顔が曇った。
「韓国も、同じ」
ユナが言った。
「ベトナムも」
リンが続ける。
「フランスは...まだ様子見。でも、母は『帰ってこい』って」
クロエが言った。
「中国は...何も言ってこない。でも、祖母が『早く帰っておいで』って」
シュエが静かに言った。
「ウクライナは...帰る場所がない」
アーニャの言葉が、重く響いた。
私たちは、それぞれの事情を抱えていた。でも、一つだけ共通していることがあった。
「私たち、みんな帰るの?」
リンの問いに、誰も答えられなかった。
2. クラスノワ先生の言葉
翌日、レッスンの後、クラスノワ先生が私たちを呼び止めた。
「決めたか」
先生の声は、いつも通りだった。でも、その目は少しだけ悲しそうだった。
「私は...まだ決めてないです」
私が言うと、先生はうなずいた。
「帰るのも、一つの選択だ。逃げることではない」
先生は、少し間を置いてから続けた。
「私は、ソ連が崩壊した時、ロシアに残ることを選んだ。この国を愛しているからだ。でも、もし外国人が私だったら、おそらく帰国を選んでいただろう」
「自分の命を大切にすることは、決して悪いことではない。むしろ、それが一番大事なことだ」
先生の言葉が、心に染みた。
「バレエは、死んだらできない。生きていなければ、何も始まらない」
その言葉が、私の背中を押した。
3. 飛行機の予約
その夜、私は両親と電話で話した後、飛行機の予約を入れた。
3月28日。サンクトペテルブルク発、モスクワ経由で成田行き。
まだ、少し猶予がある。でも、いつ飛べなくなるかわからない。
「決めたの?」
リンの声に、私はうなずいた。
「うん。28日に帰る」
「...そう」
リンはそれ以上、何も言わなかった。
でも、その夜、彼女は自分のスマホで何かを調べていた。ベトナムへの飛行機の便を。
ユナも、クロエも、シュエも、それぞれの国への帰国を決断していた。
アーニャだけは、行く場所がなかった。
4. 最後の一週間
残された時間は、一週間。
私たちは、その一週間を大切に過ごそうと決めた。
毎日のレッスンはもちろん、自主練習も欠かさない。マリーナさんのピアノを聴きながら、何度も同じ動きを繰り返す。
「かかと、前」
クラスノワ先生の声が、いつもより優しく聞こえる。
「もっと、胸を開いて」
「音楽を聴いて」
「もっと自由に」
最後のレッスンなのだと、先生もわかっているようだった。
レッスンの後、アンナが私たちに話しかけてきた。
「帰るんだって?」
「うん」
「そう...」
アンナは、少し考えた後、言った。
「残念ね。でも、またどこかで会えるかもしれない」
「そうだね」
私たちは、固く握手を交わした。
カテリーナは、いつも通りの負けず嫌いな顔で言った。
「日本に行ったら、負けないからね」
「うん、楽しみにしてる」
オリガは、優しく微笑んだ。
「あなたたちに会えて、よかった。これを忘れないでね」
そう言って、彼女は小さなロシアのお守りをくれた。マトリョーシカのストラップだった。
5. マリーナさんの贈り物
マリーナさんの家を、最後に訪れたのは、出発の二日前だった。
ムーシカは、相変わらずツンデレで、ソファの上で丸くなっている。
「あなたたち、みんな帰るの?」
マリーナさんが聞いた。
「はい...」
「そうか。寂しくなるわね」
彼女は、ピアノの前に座った。
「何か、リクエストは?」
私たちは顔を見合わせて、答えた。
「『白鳥の湖』、お願いします」
マリーナさんは微笑んで、弾き始めた。
あの、小さな白鳥たちの踊りの音楽。
私たちは、思わず立ち上がって、踊り出した。
六人で。
狭い部屋で、転びそうになりながら。
マリーナさんのピアノが、私たちを包み込む。
ムーシカが、迷惑そうにソファから降りた。
みんなで笑った。
笑いながら、踊った。
それが、最後の思い出だった。
6. 前夜
出発の前日、私たちは寮の屋上に集まった。
サンクトペテルブルクの街並みが、夕日に染まっている。ネヴァ川が、金色に輝いていた。
「明日、私たちはみんな、別々の場所に帰るんだね」
リンが言った。
「うん」
「ベトナム。韓国。フランス。中国。日本。そして、ウクライナ...」
ユナが言った。
「ばらばらだね」
シュエが呟く。
「でも、また会える」
アーニャが強く言った。
「絶対に、また会える。その約束をする」
彼女は、私たち一人ひとりを見つめた。
「約束します」
私たちは、手を重ねた。
七人分の手はなかったけれど、エマの分まで、心の中で手を重ねた。
7. 最後の朝
3月28日。朝、目が覚めると、外はまだ暗かった。
リンも、もう起きていた。
「準備、できた?」
「うん」
彼女のスーツケースは、もう閉めてある。
私たちは、最後の朝食を一緒に食べた。パンとジャムと、温かい紅茶。
「美味しいね」
「うん」
無駄な言葉を交わしながら、その時間を噛みしめた。
ユナ、シュエ、クロエ、アーニャも、それぞれの部屋から出てきた。
みんな、スーツケースを引きずっている。
「さあ、行こう」
ユナの声で、私たちは寮を出た。
8. 見送り
空港までは、全員でタクシーに乗った。
車窓から見えるサンクトペテルブルクの街は、いつも通りだった。冬宮殿、ネフスキー大通り、そしてロッシ通り。
あの薄黄色の建物が、後ろに小さくなっていく。
(ここで、私はたくさんのことを学んだ)
(バレエだけじゃない。友情も、別れも、戦争も、そして、それでも踊り続けることの意味も)
空港に着くと、私たちはそれぞれのチェックインカウンターに向かった。
「じゃあ、また」
「またね」
「連絡するから」
「元気で」
「必ず、また会おう」
短い言葉たちが、飛び交う。
抱き合って、涙を拭って、また笑った。
最後に、アーニャが言った。
「みんな、ありがとう。あなたたちに出会えて、私は幸せだった」
その言葉が、何よりの宝物だった。
9. 空の上
飛行機は、定刻通りに離陸した。
窓の外には、雲が広がっている。その下に、サンクトペテルブルクの街が、小さくなっていく。
もう、見えない。
私は、窓に手を当てた。
(さようなら、ワガノワ)
(さようなら、マリーナさん、ムーシカ)
(さようなら、クラスノワ先生)
(そして、さようなら、みんな)
隣の席では、知らない人が眠っている。
私は、カバンの中からマリーナさんにもらったオルゴールを取り出した。
蓋を開けると、チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れる。あの、小さな白鳥たちの踊りの音楽。
小さな音で、誰にも聞こえないように。
飛行機は、東へ向かう。
日本へ。
私は、目を閉じた。
頭の中には、マリーナさんのピアノの音が、まだ響いている。
これから、新しい生活が始まる。
それは、ワガノワで過ごした日々とは、まったく違うものかもしれない。
でも、ここで得たものは、決して消えない。
心の中に、ずっと生き続ける。
飛行機は、雲の上を進む。
下の世界では、戦争が続いている。
でも、空の上は、静かだった。
私は、それだけが、せめてもの救いだと思った。
10. 日本の空
目を覚ますと、窓の外には日本の空が広がっていた。
見慣れた風景。でも、どこか違って見える。
飛行機は、成田空港に着陸した。
ターミナルを歩いていると、誰かに呼び止められた。
「舞!」
振り返ると、母が立っていた。その隣には、父。
「おかえり」
母の目に、涙が光っている。
「ただいま」
私は、その場で泣きそうになった。
でも、こらえた。
泣くのは、まだ早い。
これから、新しい戦いが始まる。
それは、ワガノワでの戦いとは、まったく違う種類の戦いかもしれない。
でも、同じように、かかとを前にして、立ち向かうしかない。
「帰ってきたね」
「うん、ただいま」
私は、両親と一緒に、出口へ向かった。
外の空気は、冷たかった。
でも、どこか優しかった。
春は、もうすぐそこまで来ている。




