第9話「それぞれの決断」
サンクトペテルブルク ワガノワ・バレエ学校 2022年2月25日〜3月初旬
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1. 戦争二日目
2月25日。朝、目が覚めると、まずスマホを手に取った。
ニュースアプリの通知が、また増えている。「キーウ市内で戦闘」「ロシア軍、北部から前進」「ウクライナ、市民に動員令」。
目をそらしたくなるような見出しが、ずらりと並んでいる。
リビングに行くと、テレビがついていた。誰かがつけたのだ。ロシアのニュースでは、軍事作戦の「進展」が報じられている。ウクライナ側の被害については、ほとんど触れられていない。
「これ、本当なのかな」
エマが呟いた。彼女はアメリカのニュースサイトをスマホで開いている。
「アメリカのニュースと、ロシアのニュース、全然違う。どっちが本当なのか、わからない」
「わからないね」
ユナが答えた。彼女も同じように、韓国のニュースとロシアのニュースを見比べている。
アーニャは、まだ部屋から出てこなかった。
2. アーニャの告白
午前中、私たちはアーニャの様子を見に行った。
ドアをノックすると、小さな声で「どうぞ」と返事があった。
部屋の中は、薄暗かった。カーテンが閉め切ってある。アーニャはベッドの上に座って、膝を抱えていた。
「アーニャ...」
ユナが声をかける。
「ごめん、みんな。心配かけて」
彼女の声は、少し掠れていた。目は赤い。でも、泣いた形跡はあまりない。むしろ、どこか決然とした表情に見えた。
「キーウの家は、まだ無事だって。母から連絡があった。でも、爆撃の音が聞こえるって」
「アーニャ...」
「私、考えるのをやめた」
彼女はそう言って、顔を上げた。
「私はここで踊る。それが、私にできる唯一のことだから。キーウにいても、何もできない。むしろ、母は私が無事でいることを望んでいる」
その言葉が、胸に刺さった。
「でも、アーニャ...」
リンが言いかけて、やめた。
「大丈夫。私は泣かない。泣くのは、戦争が終わってからにする」
彼女の強さに、息を飲んだ。
3. エマの決断
翌日、エマが私たちを集めた。
「アメリカ大使館から、正式に退避勧告が出た」
彼女の顔は、青ざめていた。
「民間機はもうすぐ飛べなくなるって。帰るなら、今のうちに」
「エマ...」
「私、帰る」
その言葉が、重く響いた。
「でも...」
「でも、じゃない。母が『絶対に帰ってこい』って。弟たちも、心配してる」
エマの目に、涙が浮かんだ。それでも、彼女は必死にこらえていた。
「ここに残りたい。もちろん、残りたい。でも、私には家族がいる。アメリカに帰らなきゃいけない」
誰も、反対しなかった。
「いつ、発つ?」
ユナが聞いた。
「明日。朝の便。まだ飛ぶから」
その夜、私たちはエマのために、ささやかな送別会を開いた。
カフェテリアからパンを借りて、リンのフォーと、ユナのキムチと、私が作ったおにぎり。クロエはフランスから送られてきたチョコレートを出した。シュエは黙って紅茶を入れた。
そして、アーニャが小さなウクライナのキャンディを差し出した。
「これ、母が送ってくれたの。ウクライナのお菓子。食べて」
エマは泣きながら、そのキャンディを食べた。
「美味しい...」
「うん。ウクライナは、美味しいものがたくさんあるの」
アーニャが微笑んだ。数日ぶりの、彼女の笑顔だった。
4. 見送り
早朝。まだ暗いうちに、私たちは寮の前に集まった。
エマのスーツケースは、いつもより重そうだった。彼女がワガノワで過ごした時間の重さが、詰まっている。
「じゃあ、行くね」
エマが言った。
「連絡するから。みんな、元気で」
「エマ...」
リンが抱きついた。次にユナ、クロエ、アーニャ、シュエ。そして、私。
七人は、それぞれの思いを胸に、エマを送り出した。
「ロシア語、上達したよ。ありがとう」
エマが最後に笑った。その笑顔は、少しだけ泣いていた。
彼女がタクシーに乗り込むのを見送りながら、私は思った。
(これで、七人は六人になるんだ)
でも、それは始まりに過ぎなかった。
5. 続く帰国
3月に入ると、帰国する留学生が相次いだ。
最初は、他の国の留学生たち。カザフスタンから来た子。ベラルーシから来た子。イタリアから来た子。
私たちのグループでも、決断をする時が来た。
「クロエは?」
ユナが聞いた。
「フランス大使館は、まだ帰国勧告を出していない。でも、母が『戻ってこい』って」
クロエは、困った顔をしていた。
「どうするの?」
「もう少し、様子を見る」
彼女の答えに、みんながほっとした。でも、それは一時的なものだとわかっていた。
リンは、ベトナムの母と毎日のように電話していた。彼女の母は、毎回「帰ってきなさい」と言うらしい。でも、リンは首を振る。
「私は、ここでやりたいことがある。まだ、終わってない」
シュエは、中国からの連絡を待っていた。中国政府はロシアと良好な関係を保っているため、特別な帰国勧告は出ていなかった。
「私は、帰らない」
彼女は断言した。
「中国に帰っても、何も変わらない。ここでしかできないことを、する」
ユナは、韓国の母と長い電話をしていた。彼女の母は、かつてワガノワで学んだ経験がある。だからこそ、「帰れ」とも「残れ」とも言えずにいる。
「母は言った。『自分で決めなさい』って」
ユナの目は、しっかりと前を向いていた。
「私は、残る」
6. 舞の決断
私も、両親と何度も電話した。
「お父さんとお母さんは、どう思う?」
聞くと、母は少し間を置いて答えた。
「舞が決めればいい。でも、何があっても、私たちは舞の味方だから」
その言葉が、私の背中を押した。
「私は、残りたい。まだ、ここで学ぶことがあるから」
「わかった。でも、何かあったらすぐに連絡しなさい。必ず」
「うん」
電話を切って、私は深く息を吸った。
(残ることを選んだ。これで、私の決断は終わり。あとは、やるだけ)
7. 六人の絆
3月中旬。エマが去ってから、私たちのグループは再編成された。
舞、リン、ユナ、シュエ、アーニャ、クロエ。六人。
人数は減ったけれど、絆はむしろ強くなった気がした。
「エマがいないと、静かだね」
クロエが言った。
「うん。でも、彼女は私たちの中で生きてる」
リンが答えた。
「そうだね」
自主練習の時間、マリーナさんがピアノを弾く。今日も、私たちの隣にはアンナとカテリーナとオリガがいた。
「ロシア人の私たちは、逃げられない」
アンナが静かに言った。
「でも、外国人のあなたたちは、帰る選択肢がある。それなのに、残ることを選んだ。それって、どういうこと?」
「どういうことって...」
シュエが答えた。
「私たちも、ここで学ぶことがまだあるから。それだけだよ」
アンナは、少しだけ微笑んだ。
「そうか。なら、私たちも負けてられないな」
8. マリーナさんの部屋
また、マリーナさんの家に招待された。
外の世界は、連日戦争のニュースで溢れている。でも、彼女の小さなアパートだけは、変わらなかった。
ムーシカは相変わらずツンデレで、マリーナさんの足元にすり寄っては、すぐにどこかへ行ってしまう。
「あなたたち、どうするの?」
マリーナさんが聞いた。
「残ります」
私たちは、ほぼ同時に答えた。
マリーナさんは、少し驚いた顔をした後、優しく微笑んだ。
「そう。なら、私も残るわ。あなたたちのピアノを弾くために」
彼女がピアノの前に座る。チャイコフスキーの「四季」から、3月の曲。ひばりの歌。
窓の外では、雪が溶け始めていた。
長い冬が、終わろうとしている。
でも、春はまだ遠い。
9. 新しい日常
戦争は、私たちの日常を変えた。
街には軍服の人が増え、物価は上がり、ニュースのトーンは厳しくなった。
でも、スタジオの中は変わらなかった。
バーは同じ場所にあり、床は同じ角度で傾き、クラスノワ先生の声は同じ大きさで響く。
「ワー・ヌース!」
かかと、前。
私たちは、毎日その言葉を聞きながら、踊り続ける。
「ねえ、これって、私たちの戦い方だよね」
ある日、自主練習の後、クロエが言った。
「何の戦い?」
「平和への戦い。踊り続けることが、平和へのメッセージだって、フランスの先生が言ってた」
「そうかもしれない」
アーニャが言った。
「ウクライナでも、踊り続けている人がいる。地下鉄の駅で、爆撃の合間に、バレエの練習をしている動画を見た」
「すごい...」
リンの呟きに、アーニャはうなずいた。
「だから、私たちも踊る。それが、彼らとの繋がりだから」
10. それでも、私たちは
3月下旬。ロシアの春は、まだ肌寒い。
でも、確かに太陽の光は強くなり、雪の下から小さな緑が顔を出し始めていた。
私たちは、毎日スタジオに通う。
レッスンを受けて、自主練習をして、マリーナさんのピアノを聴く。
エマからは、時々メッセージが届く。
「アメリカは春だよ。でも、あなたたちのことを考えてる」
「私たちも、エマのことを考えてる」
そう返すと、すぐにスタンプが届いた。泣いている顔のスタンプ。
リンは、ベトナムの母に「私は元気です」と毎日メッセージを送っている。
ユナは、韓国の母と週に一度スカイプをする。その度に、母のトゥシューズを握りしめている。
シュエは、中国の祖母と電話をする。バレエの話。ワガノワの話。
アーニャは、今もキーウの母と連絡を取り合っている。無事を確認し合う、短い言葉。
クロエは、フランスの家族に「ここでの生活は続いている」と伝えている。
そして私は、日本の両親に「私は踊っています」と送った。
戦争は、終わっていない。
でも、私たちの生活は続いている。
スタジオの中では、今日も音楽が流れ、床をこするトゥシューズの音が響く。
かかとを前に。
骨盤から。
音楽に乗って。
それでも、私たちは踊る。
そのことが、私たちの小さな、ささやかな抵抗だから。




