41. 「……いや、何も、見なかったですね」
今回の撮影の流れとしては、古民家全体を全員で回った後、事前に選んだ異常な噂をよく聞く三か所に分かれ、それぞれが三十分ほど待機し、検証を行うことになっている。
凜子としては冗談ではないが、それでも今回は友近と二人一組での検証であり、さらにスタッフが二人が同行する。
安心感としては、これまでの自主撮影とは段違いだった。
「うわ、広……」
「あ、なんか全然、綺麗なおうちですね……?」
中に入れば、その安心感は更に強くなった。
雰囲気こそあるものの、そこはどこか懐かしささえ覚えるような、普通の日本家屋でしかなかった。
例えるなら帰ってきた田舎の実家、といったところだろうか。
手入れは行き届いているし、廃墟のようなおどろおどろしさは欠片もない。
日本家屋特有の雰囲気こそ多少恐ろしさを感じさせたが、あの廃保養所とは比べ物にならない。
まして今回はこんなにもスタッフが大勢いて、機材も多く、いつもと比べれば賑やかな現場だ。
これなら大丈夫かもしれない。
そうほっと息をつきそうになったとき。
目の前を歩いていた吉原が、ぴたりと止まった。
「吉原さん?」
「あ、いや……すみません。行きます」
まるで凍りついたかのように足を止めていた吉原だったが、声をかけられると慌てた様子で奥へ上がる。
その姿に不自然さを感じて、凜子は吉原が凝視していた廊下の奥をそっと見た。
しかしそこには誰もいない、暗い廊下が広がっているだけだった。
撮影そのものは順調だった。
心霊を否定していた三戸部だが、いざカメラが回り始めればさすがはプロだった。
屋敷の雰囲気に怯え、家鳴りに怯え、影に怯え、そのたびに叫んでは大げさに恐怖を煽って見せる。
凜子も友近も感心する、プロの技術であった。
そんな三戸部の迫真のリアクションに引っ張られるように、吉原も凜子もだんだんと緊張が高まっていく。
だがそれでも雰囲気のある暗い日本家屋を歩いて回る、それだけの撮影だった。
裏庭の井戸にたどり着くまでは。
「ここが噂のうちの一つ、誰もいないのに話し声がする井戸ですね……」
台所の勝手口から外に出れば、そこには古めかしいながら、しっかりとした井戸が残っていた。
カメラが静かに井戸を映す。
「いやこれ無理や! 雰囲気からしてヤバいやん!」
頼りないライトの中に浮かび上がる井戸という光景は、それだけで異様であり、自然と恐怖を感じさせた。
腰の引けた姿で井戸に近づきつつ三戸部が叫んだ、その瞬間だった。
ガァン!
「きゃあああああ!!」
「うおおぉぉ!!」
井戸の底から、硬いものを打ち鳴らすような凄まじい音が響き渡った。
突然の衝撃音に叫び声を上げ、三戸部と凜子が弾かれたように走って逃げ出す。
つられるように友近と吉原が走り、スタッフがその後ろ姿をカメラで追いながら、全員が台所へと雪崩れ込むように逃げ帰った。
「今、井戸の底から音したよな!? 誰も触っとらんやろ! あの井戸やばいで! あんなん絶対呪われとるやん!!」
台所へと駆け込むなり、目を見開いてそう叫ぶ三戸部の姿はまさに迫真だった。
先ほどの音の恐怖をさらに煽るようなその言葉に、凜子が小さく体を震わせる。
「っぁ」
そんな中、青褪めた顔をしていた吉原が、勝手口向こうの井戸を見て小さく悲鳴を上げた。
血の気が引き、恐怖に足が自然と後ずさる。
それに気づいた友近が声をかけようとした、その時。
バァンッ!!
「きゃあああぁぁぁぁ!!」
勝手口の扉が轟音を響かせて叩き閉まった。
まるで誰かが、勢いよく、力任せに扉をぶつけて閉めたかのように。
「い、今誰か扉触ったか!?」
「さ、触ってないです!!」
だが最後にスタッフがその扉をくぐってから、すでに十数秒も経過していた。
そして扉に一番近かった友近でさえ、手を伸ばしても届かない距離にいたというのに。
誰も触っていない。触れるはずのない扉が、勝手に。
すっと友近が目を細めて扉に近づく。
「あ、ちょ、開けない方がいいですって!」
「私触ってないです。開き戸なので通ったときの風圧か、当たったせいで勝手に閉まった可能性もありますけど、それにしては閉まる勢いが強すぎました。外に誰かいるかもしれません」
止める間もなく、まるで躊躇の無い自然な動きで友近は扉を開けた。
だが勢いよく開かれたその先には、先ほどと変わらない、暗闇の中に佇む井戸があるだけだった。
辺りを見渡すが、当然人影などあるはずがない。
三戸部が先ほどの友近の動きを茶化すことで多少空気は軽くなったものの、一気に現場に満ちた重苦しい緊張感を払拭できるわけもなかった。
台所の勝手口は開き戸、それも内開きだ。
誰かが台所の入口に立ち、扉に手をかけ、思い切り叩きつけるように扉を動かして、それではじめて轟音を立てるほどの勢いで扉を閉めることができる。
「……さっきの映像撮ってます?」
「奥の引きカメラが全体映してたから、そっちならもしかしたら……」
「すぐ確認できる手持ちのほうは三戸部さんたちのリアクションを追ってたので、ドアは画角から外れてしまってます」
「……でもドアに手が届くところに誰もいなかったのは、間違いないですよね?」
重い沈黙が場に満ちた。
それだけはこの場の全員が断言できた。
特に一番勝手口に近かった友近は、誰の気配も前触れもなく、強烈な力で扉が閉まったことを一番肌で理解していた。
いつもの自前のチャンネルの動画の撮影と違い、今回の本格的なテレビ機材では映像をこの場ですぐ確認することは不可能だ。
「……とりあえず撮影進めましょう」
あとで確認すればなにか映ってるかもしれないが、今できることはない。
なら撮影を進めるという、ディレクターの判断は当然だった。
今、この場にはじわじわと『恐怖』と『熱気』という、相反する二つの感情が渦巻いていた。
理解できない怪奇現象と、何が起こるかわからないという恐怖。
しかし同時に、心霊番組として間違いなく撮れ高と言える現象が起きたことへの興奮。
そしてもっと凄まじい映像が撮れるかもしれないという欲望だ。
「……」
そんな空気の中で、凜子はじわじわと背を這い登るような、冷たい嫌な予感を必死に押し殺していた。
理屈ではない、経験則だ。直感とも言ってもいい。
これから絶対に、冗談では済まないことが起こると。
「……吉原さんは、さっき何か見ましたか?」
一行が次の部屋へと移動を開始する中、友近が隣を歩く吉原へそう声をかけた。
あの瞬間。ドアが閉まるよりもたしかに早く、吉原が顔色を変えたことを友近は見逃していなかった。
吉原の視線がほんの一瞬、友近の後ろへと泳ぐ。
「……いや、何も、見なかったですね」
「……そうですか」
何の根拠もなかったが、嘘だろうなと友近は思った。
その視線の泳ぎ方に、なんとなく既視感を覚えたからだ。
――楽屋に挨拶に行ったとき、小山田が流れるように自分たちの背後を確認したあのときと、全く同じ視線の動きだった。




