霜の匂い
灰櫟村の朝は霜の匂いから始まる。
まだ夜の名残りが濃い時刻だった。セイル・ロウラントは寝床の薄い毛布の中で目を開けた。鼻先が痛いほど冷えている。息を吐くと、薄闇の中にうっすらと白いものが立ちのぼった。土壁の隙間から忍び込む外気が、土間の匂い――湿った土と昨夜の竈の燃え残りの匂い――に霜の匂いを混ぜている。冬がもうそこまで来ていた。
毛布をはねのけると寒さが一気に体を包んだ。セイルは身震いをひとつして土間へ降りた。素足に触れる土の冷たさにももう慣れている。
竈の前にしゃがみ、昨夜の燠を掘り起こす。灰の下でまだ小さな赤がいくつか息をしていた。枯れ枝を足し、息を吹きかける。一度二度。三度目で火がふっと立ち上がった。その小さな炎をセイルはしばらく見つめた。
火を起こすのは好きな仕事だった。理屈がいらない。手順どおりにやればちゃんと応えてくれる。
水甕から汲んだ水を鍋にかける。湯が沸くまでのあいだ、外の様子をうかがった。板戸の隙間から覗くと、村はまだ眠っている。霜に覆われた屋根が白く沈んでいた。日が昇るのはまだ先だ。この時季の辺境は、日が昇るのが遅く沈むのが早い。明るいうちにやるべきことは多く、夜は長い。
奥の寝床で祖母のハルダが身を起こす気配がした。
「起きてるよ」とセイルは声をかけた。「湯もうじき沸く」
「……早いね、おまえは」
しわがれた声が返ってくる。ハルダは年々起きるのが遅くなった。寒い朝はとくにそうだ。骨が軋むのだと本人は言う。それでもまだ自分のことはおおむね自分でやる。セイルが手を貸そうとすると、決まって「まだ死んじゃいないよ」と払いのける。
その強情さに、セイルは何度も助けられてきた。両親の顔を彼は知らない。物心ついたときには、この家にはハルダと自分の二人きりだった。村の誰も両親のことを詳しくは話さない。訊いてもハルダは「いい人たちだったよ」とだけ言って、それきり口を閉ざす。だからセイルにとって家族とは、この強情な祖母ひとりを指す言葉だった。
セイルは麦の粥を椀によそった。灰蕪の切れ端が少しと塩がひとつまみ。それだけのいつもの朝だ。
中央の都には白い小麦のパンや葡萄の酒があるという。羊以外の肉を毎日食べる者もいるらしい。村に立ち寄った行商人が、そんな話をしていくことがある。だがそれは、この村にとっては物語の中の話だ。灰櫟村はロウラント辺境州の、そのいちばん奥にある。魔力の薄い、世界の隅の寒村だった。豊かさも華やかさもここまでは届かない。届くのは、霜と、風と、長い冬ばかりだ。
二つの椀を運び、ハルダの前に一つを置く。湯気が冷えた空気にゆらりと溶けた。
粥をすすりながら、ハルダがふと土間の隅に目をやった。その視線の先に何があるわけでもない。ただ村のはずれのほうへ――その奥にあるあの石のほうへ心が向いたのだと、セイルには分かった。長く一緒に暮らしていれば、それくらいは分かる。
「セイル。今日は石のところへ行くのかい」
粥をすくう手が止まりそうになった。
「……行かないよ。羊の囲いを直さなきゃいけないし」
嘘ではなかった。囲いの板が一枚、先日の風で外れている。直さなければ羊が逃げる。だが、それだけが理由ではないことを、セイル自身がよく知っていた。
ハルダはそれ以上は言わなかった。ただ粥の椀に向かって、聞き取れないほど低い声で何かを唱えた。食前のまじない――というよりハルダにとっては、もう息をするのと変わらない習慣だ。村のはずれの古い石、祖型がどうの土地の主がどうのと、セイルが幼いころから繰り返し聞かされてきた古い言い伝え。意味の半分も彼は分かっていない。
学のある者が聞けば笑うだろうと、セイルは思う。中央から来るという魔法学者たちは、こういう辺境のまじないを「迷信」と呼ぶのだと聞く。
だが、笑う気にはなれなかった。ハルダのまじないには、笑い飛ばせない何かが確かに混じっている気がするからだ。唱えるハルダの声を聞いていると、ときどき肌の奥がかすかにざわつく。あの石の前に立ったときと、同じように。
その「気がする」が自分の厄介なところなのだとも思っていた。
誰にも言ったことはない。言えばまた「視る石みたいな子」だとあの目で見られる。
セイルは黙って冷めかけた粥を口へ運んだ。外ではようやく夜が薄らぎ始めていた。




