52.海に還る①
肌寒い風に混じる潮の香り、押し寄せては引いていく波の音。
ぎりぎりの魔力で跳んだ身体が悲鳴を上げている。腕に彼女を抱いたまま、死神は砂浜に崩れ落ちた。
「はぁっ、はぁっ、はぁ───」
息が荒い、暑くもないのに全身から汗がダラダラと垂れる。少しでも気を抜けば意識を持っていかれそうになるのを、死神は歯を食いしばって耐えた。
「おいっ、大丈夫か!?」
腕の中の彼女は、血の気の引いた顔でぐったりとしている。薄目を開けて微かに頷くと、口からコポリと血が垂れた。しかしもう咽る体力もないようだ。
死神は自分の胸に彼女をもたれかけさせると、口の中に残っていた血も吐き出させる。その血が死神の服に新しいシミを作った。
「苦しくないか?」
「⋯⋯ごめ、なさ、ぃ」
「いい、気にするな」
転移は空間の他に時間も捻じ曲げる。捻じ曲げた分だけ、身体的負荷もそれに比例するらしい。
老化の止まっている死神には何も感じない誤差の範囲内だが、死の近い彼女にとっては死に急ぐ行為だったのかもしれない。
それを今さら知ったところでどうすることもできない、ただ後悔することが増えるだけだった。
砂浜に腰を下ろし彼女を抱きしめると、弱々しい呼吸が、死神の頬を撫でた。
「も、そろそろ⋯⋯夜明け、ですか?」
空を見上げれば、都会では見ることのできない綺麗な満天の星。今はそれが恨めしい───白んでくる気配は全く無い。当たり前だ、夜明けはまだ何時間も先だ。
「そうだな⋯⋯もう少し、がんばろうな」
「ん⋯⋯」
こんな嘘をついたところで、何の意味があるのか。
ただ、今にも消えてしまいそうな彼女の命の灯火を、少しでも長らえたくて。
彼女に海から昇る太陽を見てほしい、そう思うのに。夜明けが一生来なければ、彼女はずっと生きていてくれるのではないかと思ってしまう。
しかしそんな死神の想いは、三度目の彼女の吐血で散り散りになった。
彼女の顔を傾かせ口に残った血を出し、口元を拭ってやると、寒いと彼女が言う。
死神は自分の上着を脱ぎ彼女に被せ抱きしめる、見れば下腹部からの出血も多い。
気のせいじゃない、自壊プログラムよりも先に彼女が───
「思ったより、早く⋯⋯ダメ、かも」
「大丈夫だ、諦めんな。がんばれ」
何が大丈夫で、何を頑張ればいいのか。
苦しそうに眉を寄せる彼女に、無責任な月並みの言葉しか出てこない。
だからといって、確実に死に向かっている彼女に何と声を掛けるのが正しいかなんて、わかるはずもない。
「大丈夫だ、大丈夫だから───一緒に海から昇る太陽見ような」
ヒューヒューと彼女の呼吸に雑音が入り始めた。
彼女の額に死神は頬を寄せ、奇跡を願う。
しかしこの世界に、自分の都合よく願いを叶えてくれる神様などいないことを、死神は知っているのだけれど。
首から下は動かない、感覚もない。
目は僅かに色がわかるだけ。
だけど耳は波の音と、死神の鼓動と彼の言葉を拾って。
鼻も潮の香りと死神の匂いを感じて。
額は海風の冷たさと死神のぬくもりを知る。
海から昇る太陽が見たいと言ったが、もうそれは叶わないのだろうと彼女は思っている。それは仕方ないことと諦めがついた。
それよりも大好きな死神を感じながら、彼に看取ってもらえることが、今の彼女は何よりも嬉しい。
こんな最期を迎えられるなんて、研究所で廃棄処分が決まった頃には考えられなかった。
これ以上ない、百点満点の終わり方だ。
しかし死神に彼女の喜びは伝わっていないらしい。彼の身体は微かに震え、時折深い息を吐いている。
彼女は力を振り絞る。息苦しくて声を出すのも非常に骨が折れるが、彼に伝えたい。
「しにがみ、さん⋯⋯⋯⋯わたし、いま、とっても、しあわせ──────しにがみさん、の、おかげ。はんとし、ありがと、ございました」
息継ぎをしようと呼吸をすれば、何度目かの血が口から垂れた。
それを死神が丁寧に拭ってくれる。
「いいよ、わかってるから。もうしゃべんな」
そう言う死神のほうが苦しそうだ。
彼女は首を僅かに横に振る。
以前に観た映画で〝次、生まれ変わったら〟と死に際に約束するシーンがあった。なんであんなに苦しそうなのに、よくもまぁペラペラ喋れるなぁと思っていたが。
今になってわかる、残りの命を縮めても伝えたいことがあるのだ───それは残される者に贈る、最後の言葉。
しかしそれは死を前にして、理性よりも欲求のほうが表に出てしまうらしい。
想いを伝えるつもりはなかった。
でもやっぱり〝自分という存在〟を伝えたい。
人造人間じゃなく、人間として生きた記憶を。
死神に憶えていてほしい、思い出してほしい。
それが死神にとって無意味なことでも。
辛い思い出を掘り起こしてしまうとしても。
彼女と死神が出逢えたのは、決して偶然ではなかったのだと───彼女は言葉を紡ぐ。
「おねがい、わたしを、おぼえてて───わたしの、いのち、にせものでも⋯⋯⋯⋯このきもちは、ほんもの」
残りの命を燃やして、この想いを伝える。
叶うことはない、消えてしまうだけの存在だけれども。
「───すき。だいすき⋯⋯しにがみ、さん。ずっとむかし、50ねん、いじょう、まえから──────」
死神が息を呑んだのが伝わる。
お願い、思い出して───百合子と過ごした、幼いけど大切な、キラキラと輝いていた宝物の記憶。初恋の男の子。
君の名は。
「〝しのもりさくや〟くん」
「───!!」
「ずっと、ずっと、だいすき⋯⋯⋯⋯〝さっちゃん〟」
きっと驚いた顔をしているのだろうな。
それとも迷惑そうな顔なのかな。
もう、何も見えないけれど。
この想いは実を結ぶことはないけれど、あなたに憶えててほしい、思い出してほしい。
〝四乃森咲也〟
40年前、両親に殺されそうになって、両親を殺したとき。
輪廻から外れてしまった死神───咲也が〝掃除人〟として生きるために、不要なものとして預けることになった、それからずっと忘れていた名前。
「どうして───」
ユリが知っているんだ?
そう問いかけようとしたとき。
再び咲也の頭の中で子どもの声が響く。
『───バイバイ、さっちゃん! やくそく、わすれないでね!!』
『ユリちゃんも! バイバイ!!』
何か思い出せそうなのに、何かが邪魔をして思い出せない。大切な、何か。
「くそ⋯⋯なんなんだよ」
戸惑う咲也を前に、彼女は満足したのか、その瞳から急速に光が失われていく。
「ユリ───ユリ!!」
こぼれ落ちる命を食い止めるように、咲也は彼女のくちびるに喰らいつく。
柔らかくてあたたかくて心地よくて、その感触は今朝と何も変わらないのに。
はぁっと息継ぎをして、咲也もずっと伝えたくて、でも言えなかった言葉を口にする。
「俺も⋯⋯⋯⋯俺も、好きだよ。ずっと、お前を愛してる───ユリ」
こんな言葉くらいでは足りないくらい、彼女を愛している。
だけどこれ以上の言葉を咲也は知らない。それがもどかしくてたまらない。
しかし、彼女にはちゃんと伝わったようだ。
彼女は穏やかに微笑むと。
静かにすべての生命活動を停止した。
肌寒い風に混じる潮の香り、押し寄せては引いていく波の音。それは変わらず続いているのに。
「バーカ───一緒に海から昇る太陽見るんじゃなかったんかよ。ちゃんとしたオムライスも結局食わしてもらってねえし」
死神の目から雫が落ちた。
彼女の眦に落ちたそれは、彼女の頰を一筋濡らして。死神は彼女の頰を指で拭う。
何度も何度も、彼女のくちびるにキスをする。
もう彼女が応えてくれることはない、彼女の吐息を感じることもない。
ほんの1日前、ベッドの中。キスをすれば彼女の腕がもっともっととねだるように死神の首に回されたのに。
まだ温かい彼女の身体を抱きしめて───
もう、嗚咽をこらえることができなかった。
「ユリ⋯⋯愛してる、愛してるんだ───ユリ」
どうしてもっと早くにこの想いを伝えなかったのだろう。
認めるのが怖かった。
自分が普通の人間じゃないから。
彼女が人造人間だから。
仕方ないことだと諦めてしまっていた。
だけど、やっぱり彼女しかいないのだ。
死神は最後の望みに縋る。
もう1度、彼女に逢うには。
「───ユリの魂、上がってこい」
嬉しそうに横に並んで歩き、意地悪なことを言えば怒り、楽しいときは一緒に笑って、まだ死にたくないと泣く。
誰よりも人間らしく生きた彼女に魂がないなんて、そんなことあってたまるかと。
「頼む、頼むから───魂、上がってくれ」
長い長い〝死神〟としての人生の中で、お前の生まれ変わりを探す楽しみができるから。
「頼む、ユリ───」
また輪廻のどこかで、お前の魂と再び出逢うことができるかもしれないから。
「お前の魂が天に昇っていくところ、俺が見届けてやるから」
きっとお前の魂は、誰より美しく光り輝いてるに違いない。
「ユリ、ユリ」
お前に魂がないなんて、何かの間違いだと。
「ユリ、頼むから───魂上がってこい」
とめどなくあふれる涙を拭い、目に魔力を集める。
美しい、彼女の顔に手を添えて。
さては丸裸の魂見られるの恥ずかしくて、俺が見届ける前に黙って天に昇っていったんだな?
俺はお前の全部見てるんだから、今さら恥ずかしがることなんてないのに。
目の前に浮かぶウインドウには、お前の名前の下、種族:人間、年齢:25歳、状態:魂回収済───そう書いてあるに違いない。
目を閉じて深呼吸して、もう1度、目を開ける。
死神の目が赤く染まる。その目に映るウインドウは───何も書かれていない。
〝Error〟の文字すら消えていた。
彼女の穏やかな顔が、じわり、水の中で見るように歪んで見えた。




