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37.終わりのときに向けて

「お〜い、ちょっと〝目〟貸して」

「はーい」


 死神に呼ばれて彼女は洗面所に向かう。

 今朝の死神はヒゲを剃ったようだ。シェーバー片手に顎をさすっている。

 彼女は死神の傍らに立つと彼を見上げるようにする。なるべくまばたきをしないようにじぃーっとしていると、死神が彼女の目に映った自身の姿を覗き込みながら剃り残しがないか確認している。


「ここ、ちょっと残ってますよ」

「お、ホントだ」


 指摘したもみあげ付近をジョリジョリ〜と死神が剃り直すのを見ながら、彼女は赤面しそうなのを堪えていた。

 とにかく距離が近い。死神の呼吸がときどき顔を撫でる。

 ドキドキしてしまうのも仕方ないじゃないか。

 いつもは鋭い目つきが、笑うと目尻が下がることも。今はきっちり閉じられているくちびるが、実は柔らかいことも知っている。


 ───もう1回、キス⋯⋯したいな。


 厳密にはあのときのは人工呼吸であって、キスではないのだが。それに死神は瀕死の状態だった。

 でも彼女にとって初めてだったのだ。そしてもう次は望めないだろうから。だから、せめて───


「な〜に考えてんだ?」

「え゙!?」


 剃り終わった死神がニヤリといつもの意地悪そうに笑う。もし今考えていたことがバレたら恥ずか死ぬ⋯⋯


「もみあげとヒゲの境目ってどこなんだろうって思ってただけです!」


 だからついそんな色気も素っ気もないことを言ってしまったが。


「⋯⋯そんなもん耳たぶから鼻に向かって引いた線って決まってんだよ」

「え、そうなんですか?」


 死神は面白くなさそうに真面目な回答をしたので、彼女もそのあとどう会話を続ければ良いかわからず───2人は気まずくなってそそくさと距離を取った。



 鏡にもカメラにもうつらない死神の姿が、彼女の目には映ると知ってから早数日。

 彼女は仕事に出掛ける死神を今日も玄関まで見送る。

 ちなみに死神の服装は元通りのダサ⋯⋯時代遅れ───古めかしい───個性的、そう個性的な服に戻ってしまった。現代風はあのときの1着分しか買ってないから仕方ないが、彼のワードローブにちゃんと加わっているだろうか。


「でもどうして私の目には映るんでしょうね」

「あー⋯⋯それはアレだろ───虚像と実像の違いじゃね?」

「鏡は虚像ですけど、カメラは実像ですよ?」

「⋯⋯」

「私が考えた仮説なんですけど。目に入った光は水晶体で屈折して硝子体を通って網膜に像を映し出すんですけど、網膜の像は上下左右が逆さまなんですよね。網膜はその映像を電気信号に変えて脳に送って、脳で映像信号を正しい向きに戻しているので───」

「うんもう訳わかんねーから何でもいいよ。ファンタジーなんだから」

「出た、困ったときのファンタジー」


 死神が不満そうに膨らんだ彼女の頬をぶぅっと潰す。

 お互いその甘い感触に頬を緩ませながら。


「あの、死神さん⋯⋯()()()の目にも映るかどうか、試してみませんか?」

「あ?」


 彼女はこの数日ずっと考えていたことを死神に提案したが、彼女の言葉に死神は怪訝そうな顔をする。


「自分の顔が見えないってすごく不便じゃないですか⋯⋯私がずっと側にいられればいいんですけど」


 もうすぐ壊れる彼女にはそれはできないから。

 彼女はふわりと微笑んで。


「死神さんはワンコ派ですか? それともニャンコ派?」

「⋯⋯これ以上ペットを増やす気はねえよ」


 なんとなく、彼女が言いたいことを察した死神は、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「死神さんのことを理解して秘密を守ってくれる友だちとか───恋人とか」


 一瞬、そう言った彼女の心臓がズキリと痛んだ。

 死神が今しているように、彼が犬とか猫とかでも相手を見つめながら撫でていたら、彼女は嫉妬してしまう自信がある。それがもし()()()()()、しかも女性だったら───きっと嫉妬しすぎて発狂してしまうかもしれない。

 今自分の頭の上に乗っている死神の手は、ずっと自分だけを撫でてほしい。死神の姿を映すのは、自分の目だけであってほしい。そんなふうに思ってしまう。


 ───醜いね。


 本当にそう。死神のこれからの幸せを願っての提案だったはずなのに、彼女自身の独占欲がそれを邪魔するのだ。


「前に言ったかもだけど。普通の人間にとって俺は異質な存在だからな、他人と深い関係になって長く共にすることはできねえし、そうするつもりもねえよ───別に自分の顔が見れないくらいどうってことない、今までそれで暮らしてたんだし」


 彼女の心の中を知ってか知らずか。

 死神のその言葉に彼女はこっそり安堵してしまう。


「じゃあ晩メシまでには帰ってくるから」

「⋯⋯いってらっしゃい」


 彼女の頭をポンポンと撫でると、死神は玄関から足早に外に出ていった。

 死神に触れられていた頭に自分の手を置いて。残っていた彼の感触を彼女は何度も脳に刻みつける。


「やっぱり。私だけが、いいなぁ」


 死神に優しく撫でられるのは。

 死神の姿を目に映すのは。


 彼女の呟きを聞くものは誰もいないのだから。

 彼女はこっそり、涙を流した。




 電車の窓から流れる景色を眺めながら、死神は先ほどの彼女を脳内で再生していた。

 死神が見やすいように、なるべくまばたきをしないようにしている瞳は、しばらくするとうるうると涙目になり、呼吸を我慢しているせいか顔は頬からじんわりと赤く染まり。

 いつだったか、ふわりと触れた彼女のやわらかいくちびるの───


 朝から何考えてるんだかと、パシッと手で顔を覆う。

 数十年ぶりに自分の顔が見る手段ができた。たったそれだけのことなのに。


 ───だけどもみあげとヒゲの境目とか、脳ミソの電気信号ってそりゃないだろ。


 もっと色っぽい何かを想像してた自分が馬鹿らしい。 

 そして、もう1つ。


『私以外の目にも映るかどうか、試してみませんか?』


 彼女自身がいなくなったあとのことを見据えての提案だったのだろう。

 確かに、数十年ぶりに自分の顔が見れたことはすごく嬉しかった。だけど彼女以外の目を覗き込んでまで見たいかと言われれば、そうではない。


 ───お前の目に、映っているから。


 きっと、普通に鏡に映っていたらそのときは驚くかもしれないが、別に何とも思わなかっただろう。

 彼女の瞳だからこそ───


 ふぅーっと1つため息をついて頭を振り、思考を切り替える。スマホを取り出し仕事用のアプリを立ち上げ今日の依頼を確認をすれば、内容は増え過ぎた外来種の毒キノコの除去。地味にしんどくて疲れる系の仕事だ。

 だけど頭の中に浮かぶ邪念を払うにはちょうどいい。

 目的地に着くまでおかしなことを考えないよう、死神は目を瞑り心を無にして電車に揺られることにした。




 彼女はインスタントのレモンティーを飲みながら、ソファーに座りひと息つく。

 洗濯機を回し、その間に片付けと掃除。洗濯物をベランダに干したら、今日午前中に予定してたことは終わってしまった。

 自分1人の昼食なら冷蔵庫にあるもので事足りる。買い物はスーパーの客が多い午前中より、午後からのほうが客が少なくゆっくりできてしかも効率がいい。

 よってしばらくは自由時間なのだが。


「録溜めしてあるドラマは全部観たし⋯⋯この前テレビでやってた映画は〝それつまんなかった〟って死神さんに言われて観る気なくなっちゃったし」


 テレビをリモコンでポチポチ変え、バラエティー混じりのニュース番組をボンヤリ見る。

 どこぞのダム建設計画が60年の時を経て正式に白紙撤回されただの、とある宗教団体の死亡した容疑者は違法薬物を長期に渡り多量摂取したことによる錯乱状態だったと推定されるだの───彼女には遠い世界の話のようで、右耳から左耳へと抜けていく。

 興味のない話にふぁ〜っと大きな欠伸が出てしまった。

 最近、夜しっかり寝ても朝疲れが取れていない。

 研究所で暮らしていたときは、朝から晩まで実験やデータ収集の被験者として、出歩くこともなければ家事をすることもなかった。今になって死神との生活にも慣れて、一気に疲れが出てきているのか。

 それとも。


 ───壊れる日が、近いんじゃない?


 たぶん、おそらく。それが正解だ。

 ふぅ、と1つため息をつく。


「クジラの神様もそう思いますか?」


 ローテーブルの上。彼女のため息に吹かれたのか、風もないのにミニミニ骨格標本クジラがカタカタ鳴った。クジラの神様が本当にそこにいるみたいだ。


 メンテナンスを受けなければならない時期を大幅に過ぎ、研究所から出て死神と過ごすようになってから、もう半年。

 急に死ぬことはないと思うが、徐々に不調が表に出てくるだろう、この疲れはその1つかもしれない。


「死にたく、ないなぁ」


 今朝、死神を見送ったときは、自分がいなくなったあとのための提案をしてみたけれど。

 飲み終えたカップを机に置き、ドサリとソファーにもたれ目を閉じる。

 そういえば百合子(オリジナル)も病気が悪化して手の施しようがないと知ったときは、死にたくないと思っていた。だけど入院生活が長引き日に日に衰えていく自分の姿に、いつしか諦めが頭をもたげた。

 自分はどうだろうか。

 研究所での生活。廃棄処分が決まったときは、やっぱりなくらいにしか思わなかった。物心ついた頃から生きることに執着なんて微塵もなかった。

 だけど死神に出会って。ひょんなことから命のロスタイムが貰えて。

 毎日が楽しくて、幸せで。


「死神さんと、ずっと一緒にいたいなぁ」


 言葉にしたらもう我慢ができなかった。

 再び、じわりと溢れた涙が頬を伝う。今日はよく泣く日だ。

 死神の鏡代わりになるのは、死神を見つめる係になるのは自分だけがいい。

 本当は彼が死ぬまで、そばにいたい。


〝ボクを楽しませてよ───ただし、()()はしっかり守ってね?〟

 

 ハッと目を見開く。

 血だらけの死神を助けてくれた、謎の声の言葉が頭の中、蘇る。


 大丈夫です───忘れたわけじゃありません。

 私の命、必ずあなた様に差し上げます。


 心の中、もう1度()()()に誓って。

 グズグズになってしまった目を手の甲で拭き、彼女はもう1度ソファーに身を預ける。

 少しでも長く生きるには、身体と脳を少しでも休めること。今さらあまり意味はないかもしれないが、それでもやらないよりはきっといい。

 昼食は諦めて、夕飯前の買い物の時間まではゆっくりしよう。

 彼女は目を瞑り、疲労感に任せて眠りについた。


 それが長い長い眠りになるとは、つゆ知らず───


お読みいただきありがとうございました。

新章始まりました。

明日も投稿予定です。

よろしくお願いします。

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