第8話 一方その頃、王都は地獄絵図になっていました
北の辺境で、レティシアが筋肉と愛に満ちた生活を送っていた頃。
彼女を追放した王都グランドルでは、静かに、しかし確実に崩壊の足音が近づいていた。
「ええい、くそっ! なぜだ! なぜ書類が減らないんだ!」
王宮の執務室。
王太子カイルは、積み上げられた羊皮紙の山を前にして怒鳴り散らしていた。
彼の目の下には濃いクマができ、整っていた金髪もボサボサに乱れている。
「おい、補佐官! これはどうなっている! 南の街道で魔獣被害が増えているだと? 西の鉱山で落盤事故? 東の港で密輸組織が活発化? 今までこんな報告は上がってこなかったぞ!」
カイルが書類を床に叩きつける。
怯えた様子の補佐官が、震える声で答えた。
「も、申し訳ございません殿下……。しかし、これらは『今まで通り』の案件なのです」
「今まで通りだと? ふざけるな! 私が指揮をとっていた時は、こんなトラブルは起きなかった!」
「そ、それは……レティシア様がいらっしゃった頃は、なぜか問題が起きる前に解決していたのです……」
「あ?」
カイルは眉をひそめた。
かつて、レティシアが婚約者として補佐をしていた頃。
彼女はいつも無表情で、私の後ろに控えていた。
「可愛げがない」「反応が薄い」と疎ましく思っていたが、今にして思えば、彼女がいる時はすべてがスムーズだった。
例えば、外交官との会談。
相手が無理な要求を突きつけようとした時、レティシアが紅茶を淹れるために一歩踏み出しただけで、なぜか相手は真っ青になって震え上がり、要求を取り下げたものだ。
(実は、レティシアがテーブルの下で、相手の護衛を指一本で気絶させていただけなのだが、カイルは知らない)。
例えば、視察中の襲撃。
カイルに向かって飛んできた矢や短剣が、なぜか空中で弾け飛んで消えることが何度もあった。
(実は、レティシアが超高速でデコピンをして迎撃していたのだが、カイルは「風の加護か?」くらいにしか思っていなかった)。
「ええい、黙れ! あんな女は関係ない! ただの偶然だ!」
カイルは机を蹴り飛ばした。
「ミナはどうした! 私の新しい婚約者、愛しのミナは! 彼女の『聖女の祈り』があれば、こんな些細なトラブルなど……」
「カイル様ぁ〜」
タイミングよく、扉が開いた。
入ってきたのは、ピンク色の髪をふわふわと揺らした男爵令嬢、ミナだ。
彼女はフリルのついたドレスを着て、頬を膨らませている。
「もう、カイル様ってば! いつまでお仕事してるんですかぁ? 約束してたドレスの試着、まだ行けないんですか?」
「お、おお、ミナか。すまない、今ちょっと忙しくて……」
「え〜、ひどぉい! レティシア様がいなくなって、私が次期王妃になるんでしょ? もっと構ってくださいよぉ」
ミナはカイルの腕に抱きつき、甘ったるい声を出した。
以前なら「可愛いな」と思えたその仕草が、今は妙に癇に障る。
「ミナ、それより『祈り』はどうなった? 最近、王都の結界が弱まっているという報告があるんだ。君の聖なる力で強化をしてくれないか」
「え〜? またですかぁ? 昨日もちょっとお祈りしたじゃないですかぁ」
ミナは面倒くさそうに唇を尖らせた。
「それにぃ、私、祈ると疲れちゃうんですよね。肌も荒れちゃうしぃ。カイル様が騎士団にもっと頑張るように言ってくださいよぉ」
「し、しかし……」
実は、ミナには「聖女」としての力などほとんどない。
彼女が持っているのは、微弱な光魔法と、異性を惹きつける魅了の魔眼だけだ。
カイルや周囲の貴族たちが彼女に夢中になったのは、その魔眼の影響が強かった。
だが、国政の混乱によるストレスと疲労で、カイルにかかっていた魅了の効果が薄れ始めていた。
(……あれ? ミナって、こんなにワガママだったか?)
(レティシアは、文句ひとつ言わずに朝まで書類仕事を手伝ってくれていたな……)
ふと、脳裏に銀髪の令嬢の姿がよぎる。
可愛げはなかった。
愛想もなかった。
だが、彼女は「有能」だった。
ガシャンッ!!
その時、窓ガラスが激しく割れる音がした。
「きゃあああっ!?」
「な、なんだ!?」
執務室に飛び込んできたのは、黒装束の男――暗殺者だ。
手には毒塗りの短剣が握られている。
「王太子の命、もらった!」
「ひっ!?」
カイルは腰を抜かし、椅子から転げ落ちた。
ミナは「いやぁぁっ!」と叫んで、カイルを盾にするように背後へ隠れた。
護衛の騎士は廊下にいる。間に合わない。
死ぬ。
カイルが死を覚悟した、その瞬間。
「そこまでだ!」
ドガッ!!
執務室の扉が蹴破られ、近衛騎士団長のガレインが飛び込んできた。
彼は剣を抜き、暗殺者と対峙する。
「チッ、邪魔が入ったか!」
暗殺者は舌打ちをし、煙幕を撒いて窓から逃走した。
「ゲホッ、ゲホッ……! で、殿下! ご無事ですか!」
ガレインが駆け寄ってくる。
カイルは震えながら立ち上がった。
「あ、危なかった……。ガレイン、助かったぞ……」
「申し訳ございません! 警備を強化していたのですが、奴らの動きが妙に早くて……」
ガレインは苦渋の表情を浮かべた。
「ここ数日、王都に潜伏していた『影』の組織が一斉に動き出しました。まるで、彼らを抑え込んでいた『重石』がなくなったかのように……」
「重石……?」
「はい。以前は、暗殺者が王宮の敷地に入った時点で、何者かによって処理されていた形跡がありました。壁に埋まっていたり、空の彼方に投げ飛ばされていたり……」
カイルはハッとした。
壁に埋まっている?
空に投げ飛ばされている?
(まさか……レティシア?)
いや、ありえない。
あのか弱い令嬢に、そんなことができるはずがない。
彼女はいつも、重そうなドレスを引きずって、よろよろと歩いていたではないか。
だが。
彼女がいなくなってから、すべてがおかしくなっているのは事実だ。
「……殿下、ご報告があります」
ガレインが深刻な顔で切り出した。
「実は、北の森から『スタンピード』の兆候があるとの情報が入りました。もし王都の結界がこのまま弱まり続ければ……一週間も持ちません」
「な、なんだと!?」
「騎士団だけでは手が足りません! 至急、強力な魔導師か、あるいは……物理的に魔獣を粉砕できるほどの『個の武力』が必要です!」
物理的に魔獣を粉砕できる武力。
カイルの脳裏に、再びレティシアの姿が浮かんだ。
いや、彼女は武力ではない。
だが、彼女の実家であるヴァルト公爵家は、武門の名門だ。
彼女を呼び戻せば、公爵家の私兵団も動かせるかもしれない。
「……手紙だ」
カイルは立ち上がった。
「手紙を書く! レティシアに!」
「えぇ〜? カイル様ぁ、あんな女、呼び戻すんですかぁ?」
ミナが不満そうに声を上げるが、カイルはそれを無視した。
背に腹は代えられない。
それに、カイルの中で都合のいい解釈が生まれていた。
(そうだ。レティシアは今頃、北の寒さと粗食に耐えかねて、泣いて暮らしているに違いない)
(私が「戻ってきてもいい」と言えば、泣いて感謝し、すぐに飛んでくるはずだ)
(あいつは私に惚れていたからな。不器用で無愛想だったが、あれは照れ隠しだったのだろう)
カイルは羊皮紙を広げ、羽根ペンを走らせた。
『レティシアへ。
北での反省生活は、さぞ辛いことだろう。
君が犯した罪は重いが、私は寛大な心で許してやろうと思う。
今すぐ王都へ戻り、私のために尽くせ。
そうすれば、側室の地位くらいは用意してやってもいい。
この手紙を見たら、すぐに準備をして戻ってくるように。
愛するカイルより』
「よし、完璧だ」
カイルは満足げに頷いた。
この手紙が、どれほど傲慢で、そして相手の逆鱗(筋肉)に触れるものか、微塵も気づいていなかった。
「早馬を出せ! 北の辺境伯領まで、最速で届けろ!」
「は、はいっ!」
使者が手紙を持って部屋を出ていく。
カイルは窓の外を見下ろした。
王都の空は、どんよりとした曇り空に覆われていた。
遠くで、不気味な魔獣の遠吠えが聞こえる。
「ふん、レティシアが戻れば、公爵家の力も使える。そうすれば万事解決だ」
カイルはニヤリと笑った。
自分の都合のいい未来しか見えていない彼は、まだ知らない。
彼が頼りにしようとしている元婚約者が、今頃北の地で、素手でドラゴンを絞め落とし、ムキムキの騎士団長とイチャイチャしながら、王太子(自分)のことなど筋肉の繊維一本ほども思い出していないという事実を。
地獄の釜の蓋は、まだ開いたばかりだった。




