第3話 か弱い令嬢は、馬車を担いで山を越える
山賊との遭遇からさらに二日が経過した。
私たちの馬車は、王国の北限を分かつ「氷竜の背骨」と呼ばれる大山脈に差し掛かっていた。
気温が急激に下がり、吐く息が白い。
窓の外は、切り立った岩壁と、うっすらと雪化粧をした針葉樹の森だけ。
時折、遠くから狼とも魔獣ともつかない遠吠えが聞こえてくる。
「……寒いですね、お嬢様。毛布をもう一枚お使いになりますか?」
御者台から降りて休憩中の老御者、ハンスが心配そうに声をかけてきた。
彼は寒さで鼻を赤くし、ガタガタと震えている。
対して私は、ドレスの上に薄いショールを一枚羽織っているだけだ。
「いいえ、ハンス。私は大丈夫よ」
強がりではない。
これにはきちんとした科学的根拠がある。
私の身体は、常に基礎代謝が一般人の数倍のレベルで燃焼している。
筋肉量が多いということは、それだけ自家発電能力が高いということだ。
今の私は、言わば歩く暖炉。
むしろ、これくらい冷やしてもらったほうが、オーバーヒートしなくてちょうどいい。
それに、この標高の高さも素晴らしい。
空気が薄いということは、心肺機能に負荷がかかる「高地トレーニング」の状態が二十四時間続いているということだ。
ただ座って呼吸をしているだけで、赤血球が増え、持久力が向上していく。
(酸素が薄い……最高だわ。ミトコンドリアが活性化している音が聞こえるようだ)
私は恍惚の表情で薄い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「お嬢様、顔色が真っ青ですが……やはり酸素が足りないのでは……?」
ハンスが勘違いしてオロオロしている。
違うのよハンス。
これは酸欠じゃなくて、集中状態に入っているだけなの。
◇
休憩を終え、再び馬車は険しい山道を進み始めた。
ここからは下り坂だが、道幅は狭く、片側は断崖絶壁だ。
しかも昨夜の雨でぬかるんでおり、轍が深くなっている。
私の乗る馬車は、通常の貴族用馬車よりも遥かに重い。
なんと言っても、私のトランクには総重量数百キロに及ぶ「ダンベルコレクション」と「鉛の拘束具」が満載されているからだ。
二頭の馬たちが、鼻息を荒くして踏ん張っている。
「頑張れ、もう少しだ……!」
ハンスが鞭を入れず、優しく声をかけて励ましている。
私も心の中で馬たちにエールを送った。
(いいわよ、その大臀筋の張り! ハムストリングスを使って地面を捉えて!)
その時だった。
ガゴンッ!!
メリメリメリッ……!
嫌な音が響き、馬車が大きく右側に傾いた。
私の身体がふわりと浮き、壁に叩きつけられそうになるのを、体幹でピタリと制止する。
「ど、どうしたの!?」
「お、お嬢様! 申し訳ありません、ぬかるみに車輪が!」
慌てて外に出ると、惨状が明らかになった。
右の後輪が、泥に隠れていた深い亀裂に嵌まり込んでしまっている。
しかも、重さに耐えかねて車軸が岩に乗り上げ、完全にスタックしていた。
「なんてことだ……。これでは馬の力だけでは抜け出せない……」
ハンスが青ざめた顔で車輪を確認する。
泥は深く、車輪の半分近くを飲み込んでいる。
おまけに、ここは断崖絶壁のカーブ。
下手に動かせば、馬車ごと崖下に転落する危険性もあった。
「どうしましょう、ハンス」
「くっ……私が近くの村まで行って、救援を呼んできます! ですが、一番近い村でも往復で半日は……」
「その間、お嬢様をこんな山道にお一人で残すわけには……」
ハンスが苦悩に顔を歪める。
魔獣が出るかもしれないこの場所で、令嬢一人を置いていくなど、忠実な彼にはできないだろう。
かといって、彼一人の力でこの重量級の馬車を持ち上げるのは不可能だ。
(困ったわね。半日も待っていたら、今日の分のプロテイン摂取タイミングを逃してしまう)
私は馬車の状況を冷静に分析した。
右後輪が嵌まっている。
つまり、車体を持ち上げて、少しだけ横にずらせば解決する。
単純な物理の問題だ。
「ハンス。向こうの茂みに、手頃な丸太が落ちていたような気がしますわ」
私は適当な嘘をついた。
「えっ? 丸太、ですか?」
「ええ。テコの原理を使えば、少しは動くかもしれません。見てきてくださらない?」
「な、なるほど! 確かにそれなら……! すぐに探して参ります!」
ハンスは一縷の望みをかけて、私が指差した茂みのほう(実際には何もない)へと走っていった。
彼の姿が完全に見えなくなるまで、私は三秒待った。
「よし」
私はドレスの裾をまくり上げ、ニーソックスとガーターベルトで留めた太ももを露わにした。
誰に見せるわけでもないが、可動域の確保は重要だ。
泥だらけの車輪のそばに立つ。
馬車のフレームの下、一番強度が強そうな部分に手を差し込む。
「ふーっ……、ふーっ……」
呼吸を整える。
腹圧を高める。
足幅は肩幅よりやや広め。
つま先は外側に向けて。
これはただの力仕事ではない。
デッドリフトとスクワットを複合させた、究極のコンパウンド種目だ。
馬車自体の重さが約五百キロ。
そこに私の荷物が数百キロ。
合計で一トン近い重量だろうか。
前世の私なら諦めていたかもしれない。
だが、今の私には魔力強化と、長年ドレスの下でいじめ抜いた筋肉がある。
「マッスル……」
私はカッと目を見開いた。
「リフトォォォッ!!」
全身の筋肉が爆発的に収縮する。
脊柱起立筋が鋼のように固まり、大腿四頭筋が岩のように隆起する。
ズズズズッ……!
泥に埋まっていた巨大な馬車が、浮いた。
軋む車体。
驚いていななく馬たち。
「ふんぬぅぅぅっ!!」
私は歯を食いしばり、一トン近い鉄と木の塊を、腰の高さまで持ち上げた。
ドレスの背中が悲鳴を上げているが、今は構っていられない。
そのまま、私は横にカニ歩き(サイドステップ)した。
一歩。
二歩。
固い地面の上まで移動する。
「せいっ!」
ドスゥンッ!!
私は馬車を、安全な地面の上に優しく(といっても地響きはしたが)下ろした。
車体は水平を取り戻し、車輪は自由に回転できる位置に収まった。
「ふぅ……」
私は額の汗を拭い、乱れたドレスを整えた。
心拍数が心地よく上がっている。
いい無酸素運動になったわ。
「お、お嬢様ー! 丸太はありませんでしたー!」
タイミングよく、ハンスが息を切らして戻ってきた。
彼は手ぶらで、申し訳なさそうに肩を落としている。
そして、元の位置に戻っている馬車を見て、目を丸くした。
「えっ……? あ、あれっ!?」
ハンスは馬車と、元の穴を交互に見た。
深々と抉れた穴から、馬車は数メートル横に移動している。
「ど、どうなさいましたの? 馬車が……直っていますけれど」
私は涼しい顔で小首をかしげた。
「えっ、いや、私が離れている間に……いったい誰が……? まさかお嬢様が?」
ハンスが疑いの眼差しを向けてくる。
当然だ。
か弱い令嬢が馬車を持ち上げるなど、常識では考えられない。
しかし、ここでバレて「筋肉ゴリラ令嬢」の噂が広まるのは避けたい。
まだ婚約破棄の傷心(という設定)が癒えていないことになっているのだから。
私はとっさに、馬たちのほうを見た。
「きっと、この子たちが頑張ったのですわ」
「は?」
「私が『お父様とお母様に会いたい』と願ったら、馬たちがそれに呼応して、奇跡的な馬力を発揮してくれたのです。ね?」
私は馬の首を優しく撫でた。
馬は「ヒヒィン(逆らったら殺される)」と怯えたように鳴いた。
「そ、そんな馬鹿な……。泥に嵌まった馬車を、馬だけで横にずらすなんて……」
ハンスは混乱している。
そこで私は、もう一つの切り札を切ることにした。
「それとも、また『突風』かもしれませんわね」
「……突風」
ハンスは空を見上げた。
山の上空は、相変わらず風が強い。
しかし、馬車を持ち上げて移動させるほどの風など、竜巻でも起きない限りありえない。
だが、ハンスは自分の中で葛藤した末、深く頷いた。
「……そうですね。山の天気は変わりやすい。突風で馬車が浮くことも、あるかもしれません」
彼は考えることを放棄したようだ。
人間、理解不能な現象に直面すると、脳が防衛本能として思考停止を選ぶらしい。
「さあ、行きましょうハンス。目的地はもうすぐよ」
「は、はい……!」
こうして私たちは、物理法則を無視した「奇跡」を背に、再び馬車を走らせた。
◇
峠を越えると、景色は一変した。
眼下に広がるのは、荒涼とした灰色の荒野。
そしてその先に、黒い城壁に囲まれた巨大な要塞都市が見えてきた。
北の辺境伯領、その本拠地である「鉄壁の砦」。
魔獣の侵攻を食い止める、人類最後の防衛線。
「すごい……」
私は窓に張り付いた。
王都の華やかな城下町とは違う。
煙突からは黒煙が上がり、行き交う人々は皆、屈強な体つきをしている。
建物も質実剛健。
無駄な装飾を排し、機能美に溢れている。
まるで、街全体が巨大なジムのようだわ。
「お嬢様、到着いたしました。ここが辺境伯様の治める砦です」
馬車が巨大な鉄の門をくぐる。
門番の兵士たちは、鋭い眼光でこちらを見ていたが、公爵家の紋章を見ると敬礼をして道を開けた。
馬車広場に降り立つと、そこには独特の熱気があった。
鍛冶場の熱、兵士たちの汗、そして微かに漂う血と獣の匂い。
(いい匂い……。テストステロンの香りがする)
私がうっとりと深呼吸をしていると、突然、砦の奥から鐘の音が鳴り響いた。
カンカンカンカンッ!!
けたたましい警鐘。
それと同時に、地面が小刻みに揺れ始めた。
遠雷のような音が、地平線の彼方から近づいてくる。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
ハンスが馬にしがみつく。
広場にいた兵士たちの顔色が変わり、怒号が飛び交い始めた。
「総員、戦闘配置!」
「魔獣だ! スタンピード(大暴走)の兆候あり!」
「数は!?」
「数百! 大型も混ざっているぞ!」
スタンピード。
魔獣たちが群れをなし、津波のように押し寄せる災害級の現象。
到着早々、いきなりの大ピンチだ。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて気絶する場面だろう。
だが、私は違った。
私の瞳は、かつてないほど輝いていた。
「数百……?」
私は思わず舌なめずりをした。
数百匹の魔獣。
それはつまり、数百食分の良質なタンパク質の塊が、向こうからデリバリーされてきたということだ。
(素晴らしいわ。歓迎会にしては、派手すぎるくらいね)
私は震える手で(もちろん武者震いだ)、ドレスの袖をまくり上げようとした。
ついに、私の筋肉が火を吹く時が来たのだ。
だがその時、一陣の風と共に、黒い影が私の前に躍り出た。
「下がっていろ、貴族の令嬢」
低く、よく響く声。
見上げると、そこには漆黒の鎧を纏い、身の丈ほどもある大剣を背負った巨漢が立っていた。
身長は二メートル近いだろうか。
鎧の上からでも分かる、圧倒的なバルク。
丸太のような首。
そして、兜の隙間から覗く、氷のように冷たく、鋭い瞳。
彼こそが、この北の地を統べる「氷の騎士団長」シグルド・グランツ辺境伯。
そして、私の運命の推しとなる男だった。




