第4話 到着早々、魔獣スタンピードですが準備運動にもなりません
「下がっていろ、貴族の令嬢。ここは戦場だ」
目の前に立つ巨躯の騎士団長、シグルド・グランツ様は、背中越しに私へそう告げた。
低く響くその声には、有無を言わせぬ威圧感がある。
普通の令嬢なら、その迫力に萎縮して震え上がるところだろう。
だが、私は違った意味で震えていた。
(なんて……素晴らしい広背筋なの……!)
彼が背負っている大剣は、優に百キロは超えるはずだ。
それを軽々と支える背中の厚み。
鎧の上からでも分かる、僧帽筋から三角筋にかけての美しい稜線。
逆三角形(Vシェイプ)のシルエットが完璧すぎる。
私の視線が熱すぎることに気づいたのか、シグルド様がチラリと振り返った。
その氷のような瞳が、私を射抜く。
「……恐怖で声も出ないか。無理もない」
彼は私の熱視線を「恐怖による硬直」と解釈したらしい。
「ハンスと言ったな。その令嬢を連れて砦の中へ退避しろ! ここは我々が食い止める!」
「は、はいっ! お嬢様、急ぎましょう!」
御者のハンスが私の腕を引く。
しかし、その時すでに遅かった。
ゴオオオオオッ!!
地響きと共に、土煙の向こうから魔獣の群れが姿を現した。
狼型の魔獣ウルフ、巨大な牙を持つボア、そして空を舞う怪鳥たち。
その数、目視で三百以上。
「くっ、速い! 第一部隊、前衛! 魔法部隊は後方から援護しろ!」
シグルド様が号令をかけると同時に、大剣を引き抜いた。
その動きは、巨体に似合わず俊敏だ。
風を切る音と共に、先頭にいたウルフが両断される。
「おおおおっ!」
「団長に続けぇ!」
騎士たちが雄叫びを上げて突撃する。
鉄と爪がぶつかり合う音、魔獣の咆哮、兵士の怒号が入り混じり、広場は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「ひいぃっ! お、お嬢様、早くこちらへ!」
ハンスが必死に馬車を動かそうとするが、パニックになった馬たちが暴れて動かない。
私は冷静に戦況を分析していた。
騎士団は強い。
特にシグルド様の戦闘力は桁外れだ。
大剣を一振りするたびに、数匹の魔獣が空を舞う。
無駄のない足運び、的確な重心移動。
体幹がブレていない証拠だ。
(素晴らしいわ。彼となら、朝までスクワット耐久勝負ができるかもしれない)
しかし、敵の数が多すぎる。
魔獣たちは死を恐れぬ特攻で、騎士団の防衛線を少しずつ押し込み始めていた。
特に厄介なのは、群れの後方に控えている大型種だ。
ズシン、ズシン。
家屋ほどの大きさがある、巨大な赤熊。
その鋭い爪が、防衛線の一角を紙屑のように吹き飛ばした。
「ぎゃあああっ!?」
「くそっ、右翼が崩された! 砦の門が狙われるぞ!」
騎士たちの悲鳴が上がる。
シグルド様が舌打ちをして助けに向かおうとするが、彼の周囲にも無数の魔獣が群がっており、身動きが取れない。
そして、不運なことに。
防衛線を突破した赤熊の視線が、孤立していた私たちの馬車に向けられた。
「グルルルルッ……!」
血走った目が、私という「柔らかそうな獲物」を捉える。
「ひっ……う、うわあああ!」
ハンスが腰を抜かして地面に崩れ落ちた。
赤熊がゆっくりと、しかし確実な殺意を持ってこちらへ歩み寄ってくる。
その巨体が影となり、私たちを飲み込んだ。
「逃げろ! そっちは守りきれん!!」
遠くでシグルド様が叫ぶ声が聞こえる。
彼の悲痛な表情が見えた。
間に合わない、と悟った顔だ。
誰もが絶望した、その瞬間。
私は静かに、履いていたヒールを脱ぎ捨てた。
「……ハンス」
「お、お嬢様……? 逃げて、ください……」
「目をつぶっていてくれる? ちょっと、野暮用を済ませるから」
私はドレスのスカートの裾を掴むと、躊躇なく引き裂いた。
ビリビリッという音と共に、足首まであったスカートが膝上まで短くなり、深いスリットが入る。
これで脚の可動域は確保された。
次に、両腕にはめていたブレスレット型の「重り」を外す。
昨夜、旅のトレーニング用に装着していた片腕二十キロの腕輪だ。
カチャン、と地面に落とす。
「グルアアアアッ!!」
赤熊が咆哮を上げ、その丸太のような腕を振り上げた。
鋭い爪が、私の頭上へと迫る。
風圧だけで肌が切れそうなほどの威力。
普通の人間なら、肉塊に変わる一撃だ。
「ふぅーっ……」
私は深く息を吐き、腹圧を高めた。
世界がスローモーションに見える。
迫りくる剛腕。
私は一歩も引かず、むしろ半歩踏み込んだ。
「姿勢が、甘いわ」
私は熊の懐に潜り込み、振り下ろされた腕を、自分の左前腕で受け止めた。
正確には、受け流した(パリング)。
ドォォォンッ!!
衝撃音が響くが、私の足は地面に根を張った大樹のように微動だにしない。
赤熊が驚愕に目を見開く。
自分の渾身の一撃が、人間、しかも小柄な女に止められたことが理解できないようだ。
「次は、こちらの番ね」
私は右の拳を握りしめた。
背中の広背筋から力を伝え、腰を回転させ、肩、肘、そして拳へと運動連鎖を繋げる。
ボクシングの基本、ストレート。
ただし、私の場合はそこに魔法強化と、長年の筋トレで培った純粋な暴力が乗る。
「有酸素運動にも、ならないけれど!」
ドゴォォォォォォンッ!!
私の拳が、赤熊の鳩尾に深々と突き刺さった。
一瞬の静寂。
その直後、赤熊の背中側の空気が、衝撃波でドーナツ状に弾け飛んだ。
「ガ、ア……ッ!?」
巨体な赤熊の体が、くの字に折れ曲がる。
数百キロはある巨体が、まるでボールのように宙に浮き――
ズガガガガガガッ!!
砲弾の勢いで吹き飛び、後方にいたウルフの群れをボウリングのピンのように薙ぎ倒しながら、森の奥へと消えていった。
遠くで、木々がなぎ倒される轟音が響く。
「……ふぅ」
私は拳に息を吹きかけ、軽く肩を回した。
少し力が入りすぎたかもしれない。
これでは肉(戦利品)がミンチになってしまって、ステーキにできないわ。
次からはもっと手加減しなくては。
「グルッ……?」
「キャイン……?」
周囲にいた他の魔獣たちが、動きを止めた。
彼らは本能で悟ったのだ。
目の前にいる銀髪の女が、自分たちよりも遥かに上位の捕食者であると。
魔獣たちが震え上がり、後ずさりを始める。
「あら? 帰るの?」
私はにっこりと微笑み、逃げようとしたボアの尻尾を片手で掴んだ。
「せっかく来てくれたのですもの。プロテイン(栄養)になってから逝きなさい」
私はボアを片手で振り回し、ハンマー投げの要領で空飛ぶ怪鳥に投げつけた。
ボアと怪鳥が空中で激突し、花火のように散る。
「さあ、トレーニングの時間よ! かかってきなさい!」
私は嬉々として、魔獣の群れの中へと飛び込んだ。
そこからは一方的な蹂躙だった。
襲いかかる爪をスウェーで躱し、カウンターのボディブロー。
噛みつこうとする顎を素手で押さえ込み、背負い投げ。
タックルしてくる巨体を、逆にタックルで吹き飛ばす。
私の動きは、社交ダンスのように優雅で、かつ重戦車のように破壊的だった。
数分後。
広場には、静寂が戻っていた。
動いている魔獣は一匹もいない。
すべてが地面に伸び、ピクピクと痙攣しているか、星になって彼方へ消え去っていた。
「いい汗かいたわ」
私は額の汗を拭い、乱れた髪を手櫛で整えた。
心拍数は百二十くらいだろうか。
やはり、準備運動としては少し物足りない。
「……あ」
そこでようやく、私は周囲の視線に気づいた。
騎士たちが、全員動きを止めて私を見ていた。
口をあんぐりと開け、剣を取り落としている者もいる。
私の足元で気絶していたハンスも、いつの間にか目を覚まし、幽霊を見るような目で見上げている。
そして、シグルド様。
彼は血に濡れた大剣を下ろし、呆然と立ち尽くしていた。
あの氷の騎士団長が、仮面が剥がれたように目を見開いている。
しまった。
つい楽しくなって、やりすぎてしまった。
か弱い令嬢設定はどこへ行ったのよ。
婚約破棄されて傷心の令嬢が、素手で熊を空の彼方に殴り飛ばすなんて、情緒が不安定すぎると思われてしまう。
私は慌てて、しおらしいポーズをとった。
「こ、怖かったですわ……」
私は震える手で頬を押さえ、上目遣いでシグルド様を見た。
「無我夢中でしたの。私、昔から火事場の馬鹿力だけは自信がありまして……その、石を投げたら偶然、当たりどころが良かったみたいで……」
苦しすぎる言い訳だとは分かっている。
しかし、シグルド様はゆっくりと私に近づいてきた。
その重い足音が、私の心臓を圧迫する。
怒られるだろうか。
戦場に出るなと言われたのに、勝手な真似をして、と。
それとも、化け物だと恐れられるだろうか。
彼は私の目の前で立ち止まった。
見上げると、やはり大きい。
威圧感がすごい。
「……怪我は」
短く問われた。
「え? あ、ありません。かすり傷ひとつ」
「そうか」
シグルド様は、私の全身をじっくりと観察した。
破れたドレスの隙間から覗く太もも。
重りを外した二の腕。
そして、熊を殴った右拳。
彼の視線が、熱を帯びていくのを感じた。
軽蔑? 恐怖?
いいえ、違う。
これは――
「……美しい」
「はい?」
シグルド様が、恍惚とした表情で呟いた。
「無駄のない重心移動。完璧な体幹。そして何より、ドレスの上からでも分かる、あの大腿四頭筋のカット……」
彼は片膝をつき、私の目線に合わせて顔を近づけた。
「君の筋肉は、芸術品だ」
「……えっ?」
予想外の反応に、私は目を白黒させた。
筋肉?
今、私の筋肉を褒めた?
顔でも家柄でもなく?
「あの……団長様?」
「素晴らしい。実に素晴らしい上腕二頭筋だ」
シグルド様は私の手を取り、まるで宝石を扱うかのように、そっと私の力こぶ(まだパンプアップ中)に触れた。
彼の手は大きくて、熱くて、タコだらけだった。
剣を振り続けた者の手だ。
「わかりますか団長!? このキレが! この張りが!」
私は嬉しさのあまり、猫をかぶるのも忘れて身を乗り出した。
「ああ、分かる。一目で分かった。君はただ守られるだけの令嬢ではない。鋼の肉体と、不屈の精神を持つ戦士だ」
彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめ、熱っぽく言った。
「レティシア嬢。いや、師匠と呼ばせてくれ」
「師匠!?」
「私に、その筋肉の作り方を教えてほしい。君のような強く美しい筋肉に、私は……一目惚れしてしまったようだ」
周囲の騎士たちが「団長が壊れた!」「いや、いつも通りだ!」とざわめいているのが聞こえる。
どうやら、この北の辺境。
私の想像以上に、筋肉への理解(マニアック度)が高い場所だったようだ。
私の胸が高鳴った。
それは運動後の動悸ではなく、初めて理解者に出会えたことへのときめきだった。
(ようこそ、私の筋肉留学へ。最高のスタートだわ!)
私はシグルド様の手を、強く握り返した。
握力七十キロくらいの、愛を込めて。




