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婚約破棄されたので、念願の筋肉留学をします!~王太子に捨てられた怪力悪役令嬢、辺境の最強騎士団長に拾われて幸せです~  作者: 九葉(くずは)


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第5話 氷の騎士団長は筋肉フェチでした

広場には、まだ魔獣たちの死骸から立ち上る土煙が漂っていた。

しかし、周囲の空気は戦闘の緊張感とは別の、奇妙な静寂に包まれていた。


数百人の屈強な騎士たち。

彼らは一様に口を半開きにし、私と団長を見つめている。


それも無理はない。

彼らが畏敬の念を抱く「氷の騎士団長」シグルド・グランツ様が、ボロボロのドレスを着た令嬢の手を握り、熱っぽい瞳で見つめ合っているのだから。


「……団長が、女性の手を握っている?」

「あの鉄仮面が?」

「しかも、あんな嬉しそうな顔で……」


騎士たちのざわめきが聞こえてくるが、今の私にはどうでもよかった。

私の意識は、目の前の巨きな男性に釘付けだったからだ。


シグルド様は、私の右手を両手で包み込むように持ち上げていた。

その手は大きく、分厚く、マメだらけでゴツゴツしている。

まさに、戦う男の手だ。


「素晴らしい……」


シグルド様が、ため息交じりに呟いた。


「先ほどの右ストレート。インパクトの瞬間、広背筋から大胸筋、そして上腕三頭筋へと力が伝達される様は見事だった。特に、この前腕の筋肉。伸筋群の発達具合が尋常ではない」


彼は私の手首から肘にかけてを、愛おしそうに親指でなぞった。

普通ならセクハラと叫ばれる場面かもしれない。

だが、私には分かった。


彼の瞳には、いやらしい欲情など微塵もない。

あるのは、純粋な探究心と、美しい造形物に対する敬意だけだ。

博物館で名画を見る目と同じなのだ。


「分かりますか、団長様! ここは握力を鍛えるために、毎日百キロのハンドグリップを握り込んで育てたのです!」


私は興奮気味に身を乗り出した。

王都では誰にも理解されず、ドレスの袖に隠し続けてきた私の努力の結晶。

それを、初対面の男性が完璧に見抜いてくれた。


「やはりか。ただの天賦の才ではないと思っていた。この密度は、日々の過酷な鍛錬のみが作り出せる芸術だ」


シグルド様は深く頷き、感心したように私の二の腕を軽く摘んだ。


「素晴らしい弾力だ。脂肪が少なく、しかし硬すぎない。最高の状態コンディションに仕上がっている」


「ありがとうございます! 団長様こそ、先ほどの大剣の扱い、素敵でしたわ。あの重量物を振り回しても軸がブレない体幹。脊柱起立筋が鋼のように鍛え上げられているのが、鎧の上からでも伝わってきました!」


「ほう……私の背中の筋肉に気づくとは。王都の貴族たちは、私のことを野蛮な大男としか見ないのだが」


「とんでもない! 野蛮ではなく、機能美です! 無駄な脂肪を削ぎ落とし、生存に必要な筋肉だけを極限まで高めた肉体。それはまさに、神が作りたもうた彫刻ですわ!」


私たちは手を取り合い、至近距離で見つめ合った。

シグルド様の頬が、わずかに紅潮している。

私もきっと、恋する乙女のように目を輝かせていることだろう。


二人の間には、確かに熱い何かが通い合っていた。

それは愛の告白にも似た、筋肉への賛歌。


「……あの、団長? そろそろよろしいでしょうか?」


恐る恐る声をかけてきたのは、副団長らしき騎士だった。

彼は困惑した顔で、私たちと周囲の騎士たちを交互に見ている。

周りの騎士たちは、「俺たちは何を見せられているんだ?」という顔で遠巻きにしていた。


シグルド様はハッと我に返り、咳払いをした。

一瞬で、その表情がいつもの冷徹な「氷の騎士」に戻る。


「……うむ。すまない、取り乱した」


彼は私の手を離すと、周囲に鋭い視線を飛ばした。


「総員、聞け! この方はレティシア・フォン・ヴァルト公爵令嬢だ。王都からの賓客であり……そして、我が騎士団の恩人である!」


シグルド様の声が広場に響き渡る。


「彼女の加勢がなければ、砦の門は破られていただろう。その武勇と剛腕に敬意を表せ! これよりレティシア嬢を、我が砦の最重要客として迎える!」


「「「は、はいっ!」」」


騎士たちが慌てて敬礼をする。

その視線は、先ほどまでの「守るべき対象」を見る目から、「ヤバい猛獣」を見る目へと変わっていたが、今は気にしないでおこう。


「行きましょう、レティシア嬢。いや、これからはレティシアと呼ばせてもらっても?」


シグルド様が紳士的に手を差し伸べてきた。


「ええ、もちろん構いませんわ、シグルド様」


私が微笑むと、彼は自身の纏っていた真紅のマントを外し、私の肩にかけてくれた。

破れたドレスから覗く肌を隠すための配慮だろうか。

なんて優しい方なのだろう。


そう思った次の瞬間、彼は真顔で言った。


「戦いの直後だ。急激に身体を冷やすと、筋肉が硬直し、疲労物質が蓄積してしまう。保温ウォームダウンは重要だ」


「……っ!」


私は胸を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。

肌を見せないためという倫理観ではなく、筋肉のケアを最優先するその思考回路。


(好き……!)


私は彼のマントを強く握りしめた。

汗と鉄と、微かな獣の匂いがする。

王都の香水臭い男たちとは違う、頼もしい香りだ。


「さあ、案内しよう。まずは食事だな。筋肉の修復には、運動後三十分以内のタンパク質摂取が不可欠だ」


「まあ! ゴールデンタイムを分かっていらっしゃるのですね!」


「常識だ」


私たちは並んで歩き出した。

背後で、御者のハンスが「お嬢様が……遠い存在になってしまわれた……」と呟いているのが聞こえたが、私は振り返らなかった。


 ◇


案内されたのは、砦の中心にある団長執務室だった。

飾り気のない石造りの部屋には、必要最低限の家具と、大量の武具、そしてなぜかベンチプレス台のようなトレーニング器具が置かれている。

書類の山よりも、鉄アレイの山のほうが高い。


「散らかっていてすまない。座ってくれ」


シグルド様は革張りのソファを勧めてくれた。

座り心地は少し硬めだが、骨盤を立てて座るにはちょうどいい。


すぐに従卒が食事を運んできた。

銀の盆に乗っているのは、巨大なステーキの山盛りと、ゆで卵、そしてブロッコリー。

パンやスープといった炭水化物は見当たらない。


「口に合うか分からないが、これが我々の主食だ。先ほど君が倒した赤熊レッド・グリズリーの肉ではないが、同じ魔獣の肉だ。栄養価は高い」


「いただきます!」


私はナイフとフォークを手に取り、肉に食らいついた。

噛みごたえのある赤身肉だ。

噛むたびに濃厚な肉汁が溢れ出し、疲弊した筋肉細胞に染み渡っていくのが分かる。


「美味しい……! 王都のフィレ肉よりずっと力が湧いてきますわ!」


「そう言ってもらえると助かる。王都から来る視察官たちは、皆『硬すぎる』『臭い』と文句ばかり言うのでな」


シグルド様は、私が豪快に肉を平らげる様子を、目を細めて見ていた。


「レティシア。君に聞きたいことがある」


「なんでしょう?」


「君は、なぜその力を隠していた? それほどの力があれば、王国の騎士団長ですら相手にならないはずだ」


シグルド様の問いに、私は食べる手を止めた。


「……王都では、強さは美徳ではありませんでしたから」


私は自嘲気味に笑った。


「か弱いこと、守られること、折れそうなほど細いこと。それが貴族令嬢の『正解』でした。筋肉がついているなんて、恥ずべきことだと教え込まれたのです」


婚約者だったカイル殿下の顔が浮かぶ。

『可愛げがない』

『男みたいだ』

そんな言葉を投げかけられるたび、私は自分を否定し、コルセットで締め上げてきた。


「私は、ただ自分らしくありたかっただけなのです。好きなものを好きと言い、鍛えたい時に鍛え、食べたい時に食べる。そんな当たり前のことが、許されなかった」


部屋に沈黙が落ちた。

シグルド様は腕を組み、じっと考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。


「愚かな話だ」


切り捨てるような一言だった。


「強さとは、生命力そのものだ。厳しい自然の中で生き抜く力、大切なものを守る力。それを否定し、見た目だけの美しさを追うなど、滅びゆく者の思考だ」


彼は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。


「私は、君を美しいと思う。それはお世辞でも慰めでもない」


シグルド様は、私の右腕――先ほど熊を殴り飛ばした腕――を、そっと持ち上げた。


「君が積み上げてきた努力、その結晶である筋肉は、どんな宝石よりも輝いている。恥じることなど何ひとつない」


彼の言葉は、私の心の奥底にあった氷を溶かしていくようだった。

ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。

私の「好き」を、肯定してくれる言葉。


視界が滲んだ。

涙が出そうになるのを、私は腹筋に力を入れて堪えた。

泣くのは筋分解カタボリックの原因になりかねない。


「……ありがとうございます、シグルド様」


「礼には及ばない。事実を述べたまでだ」


シグルド様は少し照れくさそうに視線を逸らし、咳払いをした。


「ところで、レティシア。一つ提案があるのだが」


「提案、ですか?」


「うむ。君は追放されてここへ来たと聞いた。帰る家も、行く当てもないのだろう?」


「ええ、まあ。修道院に入る予定でしたが、筋肉が衰えそうなので辞退するつもりです」


「ならば、我が騎士団に入らないか?」


「えっ?」


予想外の言葉に、私はフォークを取り落としそうになった。

騎士団に入る?

公爵令嬢が?


「もちろん、一兵卒としてではない。君には『特別師範代』として、騎士たちにその身体作り(メソッド)を教えてほしいのだ」


シグルド様は熱心に語り始めた。


「我が騎士団は精強だが、まだ伸びしろがある。特に体幹の強さと、爆発的な瞬発力。君の動きには、我々が学ぶべきセオリーが詰まっている。どうか、力を貸してくれないか」


辺境の騎士団長からの、直接のスカウト。

普通なら断るべきだろう。

令嬢のすることではない。


でも。


(ここなら、毎日トレーニングができる。魔獣肉も食べ放題。何より……)


私は目の前の男性を見た。

彼となら、筋肉について朝まで語り合える。

一緒に汗を流し、高みを目指せる。


これ以上の環境が、世界中のどこにあるというの?


「喜んで、お受けいたします!」


私は即答した。


「本当か!」


「はい! ただし、条件が一つあります」


「なんだ? 報酬か? それとも専用のジムが必要か?」


「いいえ」


私は席を立ち、シグルド様に近づいた。

そして、恐れ多くも彼の大胸筋に手を伸ばした。


「貴方の筋肉も……触らせていただいてよろしいですか?」


「……っ!?」


シグルド様がビクリと体を強張らせた。

氷の騎士団長が、真っ赤になって動揺している。


「あ、あの鎧の上から見た時から、ずっと気になっていたのです。その大胸筋の厚み、広がり……。見るだけでは我慢できなくて」


「き、君という人は……」


「ダメですか?」


上目遣いで尋ねると、彼は観念したように息を吐き、ゆっくりと頷いた。


「……好きにするがいい。君になら、触れられても悪い気はしない」


許可が出た。

私は震える手で、彼のシャツの上から胸板に触れた。


硬い。

まるで岩盤のようだ。

しかし、その奥には温かい血が通い、強靭なバネのような弾力が潜んでいる。

心臓の鼓動が、トクントクンと伝わってくる。


「すごい……! パンプアップしていない状態で、この張り……!」


私は夢中で彼の上半身をまさぐった(触診した)。

大胸筋から三角筋、そして上腕二頭筋へ。

シグルド様は柱のように直立不動で耐えているが、その呼吸は少し荒くなっている。


「レティシア……あまり刺激しないでくれ。私も男だ。これ以上触れられると、我慢ができなくなる」


「我慢?」


「……君と、スパーリング(組み手)がしたくなってしまう」


なんという嬉しい言葉だろう。

彼もまた、私と同じ種類の人間バーサーカーなのだ。


「望むところですわ、団長様。いつでもお相手します」


私は彼の胸に顔を埋めるようにして、満面の笑みを浮かべた。


「ふむ……。では、食事の後は腹ごなしに訓練場へ行こうか」


「はい!」


こうして私は、到着初日にして、辺境伯領最強の騎士団における「筋肉師範代」という地位と、最高のトレーニングパートナーを手に入れたのだった。


窓の外では、夕日が沈もうとしていた。

王都では今頃、元婚約者の王太子が私の不在に気づき始めている頃だろうか。


ざまぁみろ、なんて思う暇もない。

これからの筋肉ライフが楽しみすぎて、過去のことなどどうでもよくなっていた。


「さあ、まずはスクワットから始めましょうか、シグルド様!」

「ああ。君のフォームをじっくり見せてもらおう」


私たちの熱いトレーニングは、まだ始まったばかりだ。

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