第2話 深窓の令嬢の荷物は、馬車をきしませる
翌朝、私は小鳥のさえずりと共に目を覚ました。
昨晩は興奮のあまり、ベッドの中で腹筋を五百回ほどしかこなせなかったが、目覚めはかつてないほど爽快だ。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、私の新しい人生を祝福しているように見える。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「お嬢様……アンナでございます。朝のお支度に参りました」
入ってきたのは、私の専属侍女であるアンナだ。
彼女の目は赤く腫れ上がり、手にした水盆の水面が小刻みに揺れている。
きっと、一晩中泣いてくれていたのだろう。
「おはよう、アンナ。今日はいい天気ね」
私は努めて明るく声をかけた。
しかし、アンナはその言葉を聞くと、さらに悲痛な表情を浮かべた。
「お、お嬢様……。無理をなさらないでください。あのような酷い仕打ちを受けて、明るく振る舞われるなんて……っ」
アンナは涙を拭いながら、私の顔を覗き込む。
「顔色も真っ白ではありませんか。やはり、一睡もできなかったのですね」
違うのよ、アンナ。
顔色が白いのは、日焼け対策を徹底しているから。
そして目の下にクマがないのは、成長ホルモンがドバドバ出るゴールデンタイムに爆睡したからよ。
「さあ、急いで準備をしましょう。出発の時間は迫っているわ」
私はベッドから軽やかに飛び降りた。
今日から始まる筋肉留学への期待で、足取りも軽い。
「はい……。では、お着替えを。それから、北への旅支度ですが、ドレスはどれをお持ちしますか? やはり防寒のために、厚手のベルベットを中心に……」
「いいえ、ドレスは最低限でいいわ」
私はクローゼットを指差した。
「それよりも重要なものがあるの。部屋の隅にある、あの黒い革のトランクを持ってきてちょうだい」
「あちら、でございますか? あまり見かけないトランクですが」
アンナが不思議そうな顔で部屋の隅へ向かう。
そこには、私が夜な夜な通販(闇ルート)で買い集めた、選りすぐりのトレーニンググッズが詰まっている。
ダンベル、ケトルベル、チューブ、そして昨日外した百二十キロの『封印の鉛』一式。
アンナがトランクの取っ手に手をかけ、持ち上げようとした。
「ふんっ……! あれっ?」
トランクはびくともしない。
アンナは顔を真っ赤にして、両手で思い切り引っ張り上げた。
「くっ、うううっ! お、重い!? なんですかこれ、床に張り付いているのですか!?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと中身が詰まっているのよ」
私は苦笑しながらアンナに近づき、片手でひょいとトランクを持ち上げた。
「ほら、こうすれば簡単よ」
「えっ……?」
アンナがぽかんと口を開けて固まる。
私は何食わぬ顔でトランクをベッドの上に置いた。
ベッドの脚がミシミシと悲鳴を上げ、マットレスが限界まで沈み込む。
「お、お嬢様? 今、それを片手で……?」
「気のせいよ、アンナ。貴女、昨日の疲れが溜まっているのね。少し休んだほうがいいわ」
私は優雅に微笑んで誤魔化した。
危ないところだった。
うっかり広背筋を使いすぎてしまったようだ。
「そ、そうですね。私もショックで力が入りにくいのかもしれません」
アンナは納得したように頷いたが、視線は不審そうに沈んだベッドに向けられている。
「さあ、他の荷物も運びましょう。私の新しい生活のために」
私は話題をそらすように手を叩いた。
◇
屋敷の玄関ホールには、別れを惜しむ使用人たちが整列していた。
その中心には、父である公爵と母の姿もある。
「レティシア……」
母がハンカチで目元を押さえた。
父は苦虫を噛み潰したような顔をしているが、その瞳には悔しさが滲んでいる。
「すまない。私がもっと力を持っていれば、こんな理不尽な追放など……」
「お父様、謝らないでください。私はこの決定を受け入れています」
私は父の手を両手で包み込んだ。
いつか、この手で父をお姫様抱っこできるくらい強くなりたい。
そんな決意を込めて、優しく、しかし力強く握りしめる。
「痛っ……いや、レティシアの手は温かいな」
父が一瞬顔をしかめたが、感動のあまり言葉を濁したようだ。
握力加減のコントロールは、これからの課題ね。
「お嬢様、お荷物をお運びしました!」
屋敷の若い従僕たちが、私の荷物を馬車に積み込んでいた。
先ほどの黒いトランクを運ぶのに、屈強な男たちが四人がかりで挑んでいる。
「おい、なんだこのトランク! 中に鉄の塊でも入ってるのか!?」
「馬鹿言え、お嬢様の荷物だぞ。思い出の品が詰まっているに違いない」
「思い出って、こんなに重いのかよ……」
彼らの額には玉のような汗が浮かび、腕の血管が浮き出ている。
素晴らしい。
日常動作の中にこそトレーニングの機会はある。
彼らの上腕二頭筋には、いい刺激が入っているはずだ。
後でプロテインを差し入れしてあげたいけれど、今は手持ちがないのが残念だわ。
「では、行ってまいります」
私は深々と一礼し、馬車に乗り込んだ。
私が座席に腰を下ろした瞬間、馬車全体がグウンッと大きく沈み込んだ。
「ひひんっ!?」
繋がれていた二頭の馬が、驚いたように嘶く。
御者台に座っていた御者が、慌てて手綱を引いた。
「お、おい、どうしたんだ? 急に車体が沈んだぞ」
「車軸が折れた音はしなかったが……」
周囲がざわつく中、私は扇で口元を隠し、窓から顔を出した。
「どうしましたの? 早く出発してくださいな」
「は、はい! ただちに!」
御者は首を傾げながらも鞭を振るった。
馬車がゆっくりと動き出す。
重さに耐えかねた車輪が、ゴロゴロと重苦しい音を立てて石畳を転がっていく。
遠ざかる屋敷。
涙を流して手を振る両親と使用人たち。
さようなら、私の生家。
さようなら、窮屈だった日々。
私は窓を閉めると、誰にも見えないように小さくガッツポーズをした。
◇
王都を出て数日が過ぎた。
風景は整備された街道から、鬱蒼とした森や荒涼とした岩場へと変わっていった。
北への旅路は過酷だ。
道は舗装されておらず、馬車は絶えず激しく揺れ続ける。
普通なら乗り物酔いでダウンするところだろう。
だが、私にとってはこれもまた、天の恵みだった。
「んっ……ぐっ……!」
私は揺れる馬車の中で、空気椅子の姿勢を保っていた。
座席に座っているように見せかけて、実はお尻を数センチ浮かせているのだ。
不規則な馬車の揺れに合わせて、体幹バランスを調整する。
これは最高のアジリティトレーニングだ。
脊柱起立筋と大腿四頭筋が、喜びの悲鳴を上げている。
「お嬢様、大丈夫ですか? だいぶ揺れますが……」
御者台から、心配そうな声がかかった。
この御者は、公爵家でも古株の老人だ。
彼には私が乗り物酔いで苦しんでいるように思えるのだろう。
時折聞こえる私の「んっ……」というくぐもった声(きばる声)を、吐き気と勘違いしているに違いない。
「ええ、平気よ。少し……体に力が入っているだけだから」
「あまりご無理をなさいませんよう。もうすぐ難所の峠越えですから」
峠越え。
その言葉通り、道はさらに険しくなり、馬の足取りも重くなった。
両側には切り立った崖と、深い森が迫っている。
その時だった。
ドオオオオオンッ!!
凄まじい轟音と共に、馬車が急停車した。
馬がいななき、御者の悲鳴が聞こえる。
「な、なんだ!? 落石か!?」
私は瞬時に空気椅子を解除し、座席に深く座り直した。
そして、ゆっくりと扉を開けて外の様子を伺う。
そこには、巨大な岩と倒木が道を完全に塞いでいた。
さらに悪いことに、岩陰から粗末な装備を身につけた男たちがぞろぞろと現れる。
「へっへっへ、止まれ止まれぇ!」
「ここは俺たちの縄張りだ。通りたければ通行料を置いていきな!」
山賊だ。
十人ほどの男たちが、剣や斧を手に馬車を取り囲んでいる。
「ひぃっ! さ、山賊!? お嬢様、外に出てはいけません!」
老御者が震える手で短剣を抜こうとするが、多勢に無勢だ。
山賊の一人がニヤニヤしながら御者に近づく。
「おいおい爺さん、無理すんな。怪我したくなかったら、荷物と中の女を置いてさっさと消えな」
「そ、そんなことできるわけが……!」
「じゃあ死ね!」
山賊が斧を振り上げた瞬間。
「お待ちになって」
私は静かに声をかけ、馬車から降り立った。
ヒールの音が、乾いた地面にカツンと響く。
淡い色の旅装用ドレスに、銀髪をなびかせた私の姿を見て、山賊たちは一瞬動きを止めた。
「おおっ、上玉じゃねえか!」
「へへっ、こいつはツイてるぜ。王都の貴族様か?」
下品な笑い声を上げる男たち。
私は彼らを冷ややかな目で見回した。
いや、正確には彼らの「筋肉」を査定していた。
(僧帽筋の盛り上がりが足りないわね。あっちの男は下半身が貧弱すぎる。スクワット不足よ。全体的に栄養状態も悪そうだし、これじゃあトレーニング相手にもならないわ)
私は心の中で大きくため息をついた。
期待外れもいいところだ。
「貴方たち、道を開けてくださらない? 急いでいるの」
「あぁ? 寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ。俺たちの許可なくここを通れると思って……」
リーダー格らしい男が、私の肩に手を伸ばそうとした。
その瞬間。
私は一歩踏み出し、目の前に転がっていた道を塞ぐ巨大な倒木――直径一メートル、長さ五メートルはある大木――に手をかけた。
「邪魔よ」
ボゴォッ!!
私は腰を落とし、デッドリフトの要領で大木を一気に引き抜いた。
根っこごと地面から抉り取られた大木が、私の頭上に持ち上がる。
「え?」
「は?」
山賊たちの動きが止まった。
御者のお爺さんも、目を剥いて固まっている。
私は持ち上げた大木を、まるで小枝のように片手でくるりと回し、肩に担いだ。
「あの、聞こえまして? 邪魔だと言ったのです」
にっこりと微笑む私。
その笑顔の影には、数百キロの大木がある。
「ひっ……ひいぃっ!?」
「な、なんだあの女!? 木を!? 木を持ってるぞ!?」
「バケモノだあああ!!」
山賊たちの顔色が青を通り越して土気色になった。
彼らは武器を取り落とし、腰を抜かして後ずさりする。
「お、おい! 逃げろ! 殺されるぞ!!」
「勘弁してくれぇぇぇ!!」
蜘蛛の子を散らすように逃げ出す山賊たち。
彼らは岩をよじ登り、森の奥へと消えていった。
その逃げ足の速さだけは、評価に値するかもしれない。
「あら、行ってしまったわ」
私は肩をすくめると、担いでいた大木を道端の崖下へ放り投げた。
ズガアアアンッ!!
谷底から地響きが聞こえてくる。
私は手をパンパンと払い、何事もなかったかのように振り返った。
そこには、魂が抜けたように口を開けている御者の姿があった。
「……お、お嬢様? 今、なにか……すごいものが……」
おっと、いけない。
目撃者がいたのを忘れていたわ。
私は小首をかしげ、不思議そうな顔を作った。
「どうしましたの? 山賊の方々は、私の気品に恐れをなして逃げたようですけれど」
「き、気品……? いや、しかし丸太が……」
「丸太? ああ、あれはきっと、突風で吹き飛んだのでしょう。山の天気は変わりやすいと言いますもの」
「と、突風……」
御者は空を見上げた。
雲ひとつない快晴だ。
しかし、彼は震える声で「そ、そうですね、突風ですね……」と自分に言い聞かせるように呟いた。
長年公爵家に仕えてきた処世術が、彼に現実逃避を選択させたようだ。
「さあ、道は開きましたわ。先を急ぎましょう」
私は優雅に馬車へと戻った。
座席に深く座り直し、再び空気椅子の体勢をとる。
少し強めの運動ができて、身体が温まったわ。
北の辺境まで、あと少し。
私の心は、まだ見ぬ強敵への期待で高鳴っていた。
次はもっと手応えのある「負荷」が現れますように。
馬車は再びきしみ音を上げながら、北へと進み始めた。




