第八話 記号・二
「すんません、制圧終わりました」
死体が転がる中、黒ずくめの男は場違いな程に落ち着いた口調で小型無線機のPTTスイッチを押した。
ひと仕事終えたかのような態度である。
『マジか、早いなお前』
骨伝導の片耳イヤーピースから、ハスキーな女性の声が響いた。物流コンサルの現場責任者と会話していた、あの女性だ。
「あの、本当に俺一人なんですか?」
咽頭マイクを通じて、僅かな遠慮が伝えられる。
無線の女は声音を落とし、落ち着いた口調で告げた。
『……お前にしか頼めないんだ』
「いや、オーガナイズ複数人か、"剣客"に出くわしたら多分死にますよ」
確実な敗北と死亡を、単なる懸念事項のようにサラリと述べた。
しかし、僅かに戸惑いが滲む声調である。
『大丈夫だ。お前を信頼してるからこそ、任せているんだ。また煙草奢るから』
男は一瞬口を噤むが、小さく「Crap」と呟いた。
「分かりました。では彼らに連絡を繋いでください」
『……ありがとう。もう通してあるぞ』
マイクから音声が聞こえると同時に、ロビー入口から複数人がゆったりと入ってきた。
「………………。」
男の鋭い眼光が彼らを見据える。
「へぇーここが。日本も厳重なんだなァ」
先頭には、ポケットに手を突っ込んだ長身の男性。
後ろに、黒いパーカーを着た若年の女性。ノートパソコンを抱え、俯いている。
そして覆面を被った者が三名。
「ほーんとに突破するなんてなァ、凄えな」
長身の男性がニヤつきながら歩み寄る。
「ではバリバールさん、ブリーフィング通りお願いします」
「あいよぉ、インテリ共に任してくれェ」
バリバールと呼ばれた男は、背後の四人を指で示し受け付けに向かった。
黒ずくめの男は、無線機の指示に従い奥に進む。
『彼ら工作員が、通報を潰し館内放送を弄る。お前はその間に地下へ向かうだけだ』
「了解です……。」
「おいおい、止まれよ」
グイっと、ジャケットの襟が後ろに引っ張られた。
男は素直に立ち止まるが、引っ張ったバリバールは額に冷や汗を一滴浮かべている。
「っぶねぇ。そのゲート、金属探知機な。床は重量センサー」
見れば、男の目の前には二重扉のような構造のゲートが佇んでいた。
「あ、やっべ。すんません」
「もっと慌ててくれよォ。アイツらがシステム弄るまで待ってくれ」
バリバールは親指で工作員らを指しながら、ニヤついた。
受け付けのカウンターを見ると、黒パーカーの女性が備え付けのPCに自身のパソコンをコードで接続していた。
フードを脱ぎ、画面を睨んでキーボードをひたすら叩いている。ボサついた髪と、丸メガネ、深い隈が画面に照らされていた。
「あ……、終わりました、もう通れます……。」
言葉に詰まりながらも、女性はバリバールに目配せをする。
「おっけー。もう行っていいぜェ」
軽く男の肩を叩きながら、笑みを零した。
「はっや。ありがとうございます、皆さん。では失礼します」
会議室を退出するかのような、軽い一礼を残して男はロビーを後にした。
男の去り際、無線から女性の声が低く流れる。
『よし、あとは工作員がシステムを調整してくれる。私の指示に従って、進むだけだ』
一拍の間。
女性の声に笑みが滲む。
それは期待か、信頼か、愉悦か。
『任せたぞ、肆』
そのまま、肆と呼ばれた男は、ゆったりと肩を揺らしながら奥に進んでいったのだった。
残された工作員らは、黙々と作業を続ける。
バリバールだけが、笑みを浮かべていた。
「どこぞの"剣客"みたいに、一気に全部壊せたら苦労しないんだけどねェ」
「あ、あの、バリバールさん……。」
受け付けのカウンターに腰掛けていた彼に、丸メガネの女が恐る恐る声をかける。
「んー、桜田ちゃん、だっけ。どしたのォ?」
ねっとりとした馴れ馴れしさと、明らかに一般人ではないその目つきに、桜田は小さく声を漏らす。
「館内放送、いつでも流せます。地下フロアの立ち入りを禁止する旨の自動音声をかける、でいいですか……?」
「好きにしちゃってェ」
長身をフラフラと揺らしながら、適当な返事を返すバリバール。薄緑の瞳が、ロビー奥に留まっていた。
銀色のピアスと、女性的な顔立ちが白灯に照らされている。
桜田は冷や汗を浮かべながらも、震える口を開いた。
「あ、あの、……ヨンっていうあの黒い人、……ってなんなんですかぁ」
「何って……、どゆこと?」
「親切ですけど、不気味過ぎて」
その台詞に反応するように、バリバールはぐにゃりと体を曲げた。
「ンン? 逆に俺みたいな、猟奇殺人鬼は怖くないってェことかァ?」
意地悪な、荒んだ満面の笑みを顔に貼り付ける。
しかし、臆病そうに見える桜田は意外にも動じていなかった。
「……いや、異常者自体は見慣れてるので……。」
その反応に、バリバールは残念そうに唇をへの字に曲げる。
「なんだよ、おもんねェ」
くねらせた体を起こし、そのままカウンターから飛び降りた。
「……桜田ちゃんって、彼氏いんのォ?」
「………………は?」
*
ただいま、地下2階、変電設備付近にて、出火を確認いたしました。
地下フロアへの立ち入りは危険です。絶対に、立ち入らないでください。
係員の指示に従い、落ち着いて行動してください。
控えめな警報音と自動音声が流れる中、肆は薄暗い廊下を歩いていた。
重厚な軍用ブーツでありながら、タイルを踏みしめる足音が一切聞こえない。まるで幽霊が滑るようだった。
『最初の偽装IDカードも彼らが作ったものなんだ。配線切断、ロック機構の物理的無効化、機材運搬、そして今流れてるはずの緊急放送も彼らの手腕。これにより事後の痕跡調査でも「火災報知器の誤作動」として処理されやすくなる。やはり、エンジニアとは便利だな。データ社会の弊害だ』
「………………。」
静かなフロア内でも、女性の滔々とした説明が骨伝導で只管に続いていた。
しかし、肆はなんのリアクションも無く歩いているのみ。
その廊下の先、突き当たり奥にあるトイレ前。
一人のスーツを着た男性が慌ててズボンのベルトを調整しながら、小走りをしていた。
「やべぇ、勘弁してくれよ……。クソしてたら火災とか……。ツイてねぇ」
ロビーに向かって、廊下を急ぎ足で進む。
突き当たりを曲がった瞬間、
「あ?」
「あ……。」
黒ずくめの肆と出くわした。
男性は怪訝な目つきで睨みつけるが、肆は呆けたような声を漏らしただけだった。
——……ンだこいつ。館内放送に従ってないってことは……っ。
「おい、放送聞いてねぇのか? なんで呑気に歩いてんだ」
「……Sweet Jesus」
反射的に重心を落とし、腰に携行するククリの柄に手を伸ばした。
「テメっ!」
男性はその動きに素早く反応し、懐の銃を取り出した。
迷わず、3発の発砲。
「…………。」
しかし、重心を落とす過程を延長し、体を低くした肆はそのまま男性に迫った。
「なん、はやっッ——」
グチャァ——
右手を伸ばし、手刀のような形で男性の顔面を穿った。
後頭部から指先が貫通して現れ、ブシィと血飛沫が吹き出る。
『なんだ、どうした』
彼の呟きを聞いて、女性は無線を鳴らせた。
しかし、肆は至って平常心の印象を受ける落ち着いた口調で、
「人に出くわしたんで、片付けました。通行証を見るに、捜査員でしょうね」
と言いながら、ズボりと手刀を抜き取る。
『丁度いい。通行証IDを拝借しておけ。念の為に』
「はい」
ブチりと通行証の紐を引きちぎり、ポケットに入れた。
「ビビったー。素手でやっちまった」
『なんか今日抜けてるなぁ、調子悪いのか?』
「そうすか?」
『そうだよ。全く、可愛いな』
「…………はいはい。言ってろ」
肆は僅かに口元を歪めた。
苦笑だった。
『お、今笑ったね』
「さぁね」
それ以上は何も言わず、肆は歩みを進めた。
廊下の先に、銀灰色の扉が見えてくる。
地下区画へ続くエレベーターだった。
一般的な業務用エレベーターとは明らかに違う。
厚い鋼板で覆われた扉。
その脇には複数の認証機器が並び、上部には小さな監視カメラが設置されている。
肆はポケットから、先ほど奪った通行証IDカードを取り出した。
「…………。」
認証機器へ近づける。
しかし。
ピッ。
肆がカードを翳すより先に、認証機器のランプが点灯した。
「……ん?」
肆の手が止まる。
既に認証されていたのだ。
『そっちはもう済ませてあるぞ』
肆は認証機器を眺めた。
『エンジニアの彼らが先に細工してくれている。認証情報の書き換えと、通過記録の処理。それからエレベーター側の制御系にも少し手を入れてある』
「……Damn……,shit handy」
『だろ? だからエンジニアは好きなんだ』
女性は楽しそうに言った。
肆は感心するように小さく息を吐く。
やがて、重厚な扉が低い駆動音を響かせながら左右に開いた。
内部も通常のエレベーターとは違う。
壁面は厚い金属板。
床には滑り止めの加工が施され、操作盤には地下階層を示す数字が並んでいる。
肆は中へ入った。
『地下二階だ』
「了解」
操作盤へ手を伸ばす。
その指が、地下二階のボタンに触れた。
扉が閉じる。
ゴォン、と重い音が響いた。
エレベーターは、静かに地下へ降りていった。
『セキュアルームとその前室は、半独立型のセキュリティで成り立っている。お前が一掃、彼らの招き入れを頼む』
「はい」
鋼鉄に囲まれた箱で、肆の布越しの声が余計にくぐもった。
『恐らく、ここからが本番だ。……くれぐれも、いや——死ぬことだけは避けろ』
「はい」
エレベーターの駆動音が止まる。
目の前の扉が、ガコンと小さな音を立てた。
『楽しめよ』
「はい……。」
短い返事のみを残し、エレベーターを出る。
薄暗い廊下。
目の前に、白い扉が現れた。
*
「…………?」
些細な物音。
前室の入口扉からだった。
迦楼羅の右耳が、小さく動く。
室内の音で掻き消えるには充分な、本当に小さな物音。
無意識に、刀の柄を触った。
「また自動音声や。なんで繋がらへんの」
「立て込んでるとか」
内線を握ったまま圓が不満を吐いている。
宥める縁琉と、圓の横にならぶヤマト。
ただ一人、迦楼羅だけが体を扉へ向けていた。
「……。」
ドアノブがカチリと傾く。
理由も分からず、迦楼羅の鼓動が跳ねた。
えも言われぬ焦燥感が胸中で芽吹く。
白い無機質なドアが、開いた。
——………………。
「……おん?」
「職員すかね」
圓とヤマトの視線も、ドアに向かう。
隙間から現れたのは全身黒ずくめの男性。
角張った軍帽と口布で、顔は一切見えない。
「止まれ」
迦楼羅の鋭い声が、冷たく室内に響いた。
柄に手を置き、黒ずくめを睨んでいる。
「隊長?」
戸惑いを僅かに、縁琉が近寄った。
ドアから黒ずくめがゆっくりと顕になる。隙間から見える、ナイフのように鋭い眼光がこちらを向いた。
「…………。」
「……………………。」
迦楼羅と、黒ずくめ——肆の視線が合う。
「……Goddamn,cooked」
諦念にも聞こえる、肆の苦笑が落ちた瞬間、
「…………ッ」
彼の懐から、黒い拳銃が覗いた。角張ったスライドに、蛍光灯の光が鈍く反射する。
警備員が携行しているはずの、グロック17Gen5である。
ザシュンッッ——
間髪入れず、衝撃音と砂埃が舞った。
「迦楼羅さん……?!」
見れば、迦楼羅の日本刀が僅かに抜かれている。
躊躇無く斬ったのだ。
カラッと床を滑る拳銃。グリップが切断されていた。
「侵入者か……!」
その光景を目にして、全てを理解した圓が慌てて武器を構える。つられて、ヤマト、縁琉も武装を持った。
「待て。私がやる」
しかし、迦楼羅は三人に待機命令を出す。
「な、…………了解です」
圓は、即座に返答。
目の前の砂埃が晴れた。
扉を斜めに真っ二つにするように、おおきな切断跡が壁に刻まれている。
肆は上半身を反らせており、スレスレで回避しているようだ。
庇に切り傷の入った軍帽が、ぱさりと床に落ちる。
「Aww hell……,ズルだろそれ」
テーパーフェードの艶やかな黒髪が顕となり、その額には冷や汗が一粒浮かんでいた。
『状況は。無事なのか』
やや焦燥を孕んだ女性の声が、無線機から流れる。
「……やっぱ、いました。迦楼羅です」
『そうか、では予定通りに……』
その様子を、縁琉は眉間に皺を寄せながら睨んでいた。
「誰かと、通信しているのでしょうか……。」
「なんにせよ、やばいヤツいうことか」
ハンマーを持ち直し、圓が同意する。
「ここまで侵入するとか……、迦楼羅さん一人で大丈夫ですか」
ヤマトの問に、圓は頷いた。
「………迦楼羅さんの戦闘は、どんな手練でも足手まといになる。見守るのが、俺らの最善や」
戦闘訓練や教材でも、共闘とは絶対的なアドバンテージである。
しかし、迦楼羅ほどの戦闘規模となると、そんな常識すら通用しないのか。
「確かに……、そうですね」
だが、不思議と納得してしまう。
目の前の、刀を構える隊長を見ると全て理解してしまう。
「俺が死んだら、引き継ぎをお願いします」
イヤーピースを抑えながら、肆は淡々と述べていた。自身の死すら、計画進行に組み込んでいるのか。
そのまま、肆は腰のククリに手を伸ばした。
「……!」
迦楼羅の反応速度は、それを上回っていた。
一閃が再び放たれる。
続けざまに、2撃、3撃。
「アイツッ…………!」
見れば、既に肆は距離を詰めていた。
「避けたんかッ」
後ろの圓が驚きを口にする。
ギィンッ——
突然の金切り音。
迦楼羅の刀が、白灯を反射していた。
「……ってェな」
堪らず後退した肆は、ククリを握っている左手をフラフラと振る。
手の甲と前腕から血が滴っていた。
——……距離を取るのは自殺行為か。
右手でもう一方のククリを取り、重心は低く迦楼羅へ迫る。
「…………ッ?!」
あまりの速度に、迦楼羅の脈が跳ねた。
しかし、抜刀術のように速い一閃。
またもや、壁に直線の亀裂が残る。
——ククリナイフ、近接型か。
冷静に分析を進める迦楼羅。
肆は冷や汗を浮かべ、またもや壁近くに後退せざるを得なかった。
「危ねぇ、指飛んだかと思った」
ナイフを握る指から、鮮血が流れている。
後ろの壁には、十文字の切り傷。
迦楼羅は床を踏みしめ、今一度刀を振るった。
——ならば……、遠~中距離で対応を続ける。
連撃が輝く。
肆は壁と床を滑るように駆け、斬撃を躱し続けた。
体を捻り、ククリで受け流し、全て対応する。
「なんや、あの男……。」
距離を詰められはしていないが、攻撃が尽く当たらないその様子に、圓は眉を引き攣らせた。
迦楼羅の白刃が、再び横薙ぎに閃く。
遠心力を乗せた、胴を両断する冷徹な一撃。
しかし、肆はその軌道を見切っていたかのように動いた。
疾走の勢いを殺さず、両膝を急激に折る。
摩擦音を立てながら、スライディングの要領で床を滑り、極限まで姿勢を沈める。
凄まじい風圧を伴う刃が、前髪の僅か数ミリ上を通り過ぎた。
迦楼羅の絶対的な間合いの内側。
滑り込みの勢いをそのまま打撃に乗せ、肆が右手のククリナイフを下から跳ね上げる。
狙うは迦楼羅の鳩尾。
最速、かつ最短の刺突。
ギィンッッ————
火花が散り、甲高い金属音が地下空間を劈いた。
「…………チッ」
肆が、微かに舌打ちを漏らす。
必殺であるはずのククリの一撃は、迦楼羅の日本刀によって完璧に阻まれていた。
横薙ぎを躱された直後であるにも関わらず、迦楼羅は手首の返しのみで刃を立て、ククリの切っ先を刀の鎬で容易く受け止めていたのだ。
呼吸一つ乱れていない。
至近距離で刃を交えながら、迦楼羅の氷のような瞳が肆の手元を観察する。
——右のククリが『攻撃』。逆手の左が『防御』か。しかも、防御に偏っている……。
迦楼羅の独白が、思考の海に沈む。
彼女の腕が微かに動いた。
「……!」
ただ刀を押し返したのではない。弾き飛ばすような圧倒的な膂力。
力負けした肆の身体が、後方へ弾き出される。
そこに、迦楼羅の追撃が牙を剥いた。
踏み込みと同時。
息継ぎの隙すら与えない、神速の横三連撃。
一閃、二閃、三閃。
軌道がブレない。
上下に重なる三つの斬撃が、壁のようになって肆の逃げ場を完全に塞ぐ。
後退しても斬られる。
身を屈めても防ぎきれない。
その絶対の死地で、肆は床を強く蹴り上げた。
跳躍。
それと同時に、腰を強烈に捻る。
宙に浮き上がった肆の身体が、空中で完全に水平に倒れた。
三筋の白刃が、水平になった黒い身体のすぐ下、そして真上を舐めるように通り過ぎる。
「…………。」
黒いジャケットの生地が裂け、数枚の布切れが宙を舞った。
まさに紙一重の回避。
だが、空中に身を投げ出した肆に、もはや着地して次弾を躱す猶予はない。
——……上だな。
ガゴォンッ——
頭上から、鈍い破壊音が響いた。
迦楼羅の視線が上へ向く。
空中で水平になった姿勢のまま、肆は左手に握っていた防御用のククリを、真上の天井材へと深々と突き刺していた。
厚いコンクリートに分厚い刃が食い込み、肆の身体は空中の不自然な位置でピタリと停止する。
重量すら感じさせないかのように、天井に張り付いていた。
——……距離を詰められないな。ジリ貧で死ぬ。一か八か、……試す。
迦楼羅と視線が合う。
しかし、肆は敢えて動かなかった。
迦楼羅の僅かな呼吸が鳴る。天井目掛け、大振りの斬撃が猛威を振るった。
天井という地の不利、不安定な体勢。
だが、避けた天井に肆の姿は無い。
落下速度を利用して、迦楼羅の目の前に着地。
低く潜った。
距離は凡そ前方一メートル。迦楼羅のやや左側。
腕を伸ばせば、ククリの切っ先が腹部へ届く距離だった。
肆はそのまま身体を起こしかけ——右手のククリを、迦楼羅の胴へ突き出す。
——下ッ……。
迦楼羅の視線が落ちる。
同時に、振り上げられていた刀が動いた。
右上から左下へ。
——このまま、振り下ろす……!
袈裟斬り。
速い。
まともに受ければ、ククリごと腕を持っていかれる。
輝く鏡面のような刃が、肆に迫る。
しかし、彼は——。
黒布の奥で、僅かに口角を上げていたのだ。
——Called it…….
身体をさらに低く沈め、腰を捻る。正面を向いていた身体が、横へ回る。
袈裟斬りが頭上へ落ちてくる、その瞬間だった。
肆が跳ね起きた。
右脚が大きく振り上がる。
狙ったのは刃ではない。
刀の棟。
ガッ——
踵が刀身を叩いた。
「…………?!」
迦楼羅の振り下ろす力に、横から蹴りを加える。
軌道が落ちた。
空を斬るはずだった刀が床へ向かい、余った勢いごと床へ突き込まれる。
ズンッ——
刀が止まった。
否——止められた。
肆の身体は、まだ回っている。
右脚を振り切った勢いを腰へ伝え、腰の回転を肩へ送る。
左手が、腰の後ろへ滑った。
迦楼羅の目が、その動きを捉える。
——左……。
当然、警戒はしていた。
右手のククリを囮に使った以上、左から何かを仕掛けてくることは想定の内だ。
先ほどまで彼の左手にあった、ディフェンス用のククリ。
あの刃が、逆手から喉元へ伸びてくる——。
そう判断しかけた。
だが。
——……?!
引き抜かれたのは、ククリではなかった。
白い鎏金の大理石を基調とした握柄。そこに嵌め込まれた深い黒檀と、拳を包む棘のあるナックルガードが冷たく光る。
銀白の刀身には、片側に鋭い刃、もう片側に細かな鋸歯。全面に繊細な花紋が刻まれている。
戦場に持ち込むには、あまりにも美しい。
トレンチナイフ。
見慣れない武器だった。
いや、武器そのものが問題なのではない。
短い。
ククリとは違う。大きく振るう必要がなく、狭い間合いでも刃を届かせられる。
そして今、二人の距離は——近すぎた。
迦楼羅が判断を修正する。
左手のククリを警戒した動きは、もう止められない。
防御用のククリである左手、そしてそこには見慣れない武器。
二重の搦手。
刀を床から引き抜くには、腕を動かさなければならない。
身体を退くには、間に合わない。
その僅かな遅れ。
肆は、そこに刃を差し込んだ。
——……避けられ、なッ……!
迦楼羅が顔を上げたときには、もう遅かった。
ドチュッ——
刃が喉の横から食い込み、そのまま反対側へ抜ける。
「……っ、ッ!……!」
口の端から、ゴポリと血が垂れる。
——…………。
戦闘が速すぎて、目で追えていない縁琉ですら、乾いた息が漏れた。
目の前の光景は、現実なのか。
「……ゥ、……ッッ!!」
それでも迦楼羅は倒れなかった。
喉元から血を噴かせながら、床へ突き立った刀の柄、それを握る手に力を込める。
引き抜く。
その動作が、そのまま次の斬撃へ繋がった。
床から抜き上げた刀が、低い位置から跳ね上がる。
逆袈裟。
肆の身体を斜め下から斬り上げる軌道。
「…………。」
ザクッッ————
刀身が、肆の横腹に突き刺さる。
僅かな鮮血が吹き出した。
だが、彼は退かなかったのだ。
右手を伸ばし、迦楼羅の左上腕を押さえる。
掴むのではない。
斬撃の軌道を、ほんの僅かに抑える。
それだけだった。
同時に、肆の左手が動いた。
喉に刺さったままだったトレンチナイフを引き抜く。
ブシッ——
僅かな血の噴出。
ただ抜いただけではない。
回転を止めず、身体ごと横へ流す。
抜けた刃が、そのまま迦楼羅の左脇腹を滑らかな水の如き軌道で、横薙ぎに裂いた。
——…………!
浅くない。
それでも肆は止まらない。
回転の勢いが、身体をさらに横へ運ぶ。
左足が床から離れた。
身体が空中で水平になる。
そして——右脚を、振り抜く。
ドッ……——
踵が迦楼羅の側頭部を捉えた。
彼女の身体が横へ弾き飛ばされる。
ようやく、肆の回転が止まった。
飛ばされた迦楼羅は、壁を凹ませ、粉塵を巻き上げる。
無惨にも、残酷にも、彼女の身体はズルリと血を擦らせて床にへたり落ちた。
首元と口からドロリと鮮血が零れ落ち、雪のような肌に朱を描く。
目は、温度が抜き取られたかのように薄く伏せられている。
——……………………——…………。
縁琉の鼓動が、弾けるほどに一度跳ねた。
「フゥ……。」
小さく息を吐いた肆は、ゆらりと立ち上がる。
黒布に指を掛け、その口を顕にした。
両端に裂けたような傷跡。
引き攣った、愉しげな笑み。
「なんだよ、めっちゃ強いじゃん」
ただ一言。
まるで、少し手強い相手と巡り会えた——巡り会ってしまった、とでも言うように。
それだけだった。
最強を、最高戦力を倒したというのに。
「………………っ、………………。」
縁琉、圓、ヤマトの口から、かすれた吐息が漏れた。
声にならない。
言葉が出てこない。
血の気が引く。
膝が笑う。
目の前の光景を、誰一人として理解できなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
あの迦楼羅が。
誰よりも強く、誰よりも頼もしく、彼らが最後の最後には必ず頼れると信じていた人間が。
倒れている。
目の前で。
迦楼羅が、負けたのだ。
小ネタ:
肆の使う英語について。
日本語の「主語を省く話し方」と「AAVE」が混じった話し方になってます。
基本的に、かなりカジュアルで汚い表現を話しています。




