第九話 飾らず
常世にも感じられる、白く乾いた沈黙が広間を支配していた。
パサつく口内。
目を刺す照明。
嫌という程に煩い、CRACの音。
「…………。」
最強が倒された。
目の前にいる当の本人は、既に無表情を浮かべていた。
勝ち誇りもせず、長々と愉悦することもなく。
一つのタスクを終えたように。
「………………っ」
動けなかった。
膝が笑う。不快な脱力感が襲う。
「……チッ、やっぱ使う羽目になったか」
トレンチナイフを袖で丁寧に、入念に磨いている肆は、小さく吐き捨てた。懐に、その美しい意匠の刃をしまう。
勝てない。
身体が、全ての五感が警鐘を鳴らした。
目の前に立つ男は、強さの天井すら超えた何か。
強者という言葉では測れない。片足を踏み込むだけで吸い込まれる、底なしの"闇"。
「クソ野郎ッ……ッ!!!」
そんな唸り声と共に、圓が真っ先に駆け出した。
多角重量ハンマーを大きく振りかぶり、跳躍。渾身の振り下ろしが、肆の頭上へと迫った。
鈍重な金属音と、
バギィッ——
床の砕ける音が響く。
肆はククリのブレード部分でハンマーを受け止めていた。左手を添え、支えられたククリはビクともしない。
ただ、彼の足元に大きな亀裂が走っていた。
「縁琉ッヤマト! 撤退しろ!!!」
距離を取りながら、圓が叫んだ。
二人を背に、ハンマーで防御の姿勢をとる。
「しかし、先輩は——」
「阿呆かッ! 隊長がやられたんやぞ、俺は殿や!!」
僅かに振り向いたその真っ青な横顔には、大量の冷や汗と、苦悩の表情。
「逃げろッ、お前らだけでも——」
「…………逃げ……」
縁琉の息が荒くなる。
受け止めたくない現実が、目の前にあった。
しかし、最高戦力である迦楼羅隊長が撃破された今、副隊長である圓が足止めをし、若手を逃がすという機転は合理性がある。
——……先輩ッ……。
かつての食堂で、言われた台詞。彼の顔が想起された。
それを、無理やりに抑えようと瞼を強く閉じる。
「圓さんッ! 俺も、俺も……っ」
焦燥に満ち、皺を湛えた表情のヤマトが、武器の入ったケースを開けようとしていた。しかし、震える手元と膝は、迷っている。
「ヤマトさん、行きましょう……ッ!」
「えっ……」
袖を引っ張り、縁琉は彼を促した。
——選べ。
——目の前の……。
そんな言葉が、頭の中に響く。
「今は、命令通りが最善です……!」
それが、彼女の選んだ答え。
「……分かった……!」
ヤマトと一緒に、扉へと走る。
戦闘を横切る瞬間、
「させるかよ」
肆の黒いククリが、2人に伸びた。
ドッ——
咄嗟に戦闘態勢をとるが、衝撃音が彼を横に吹き飛ばす。
「それをさせんっちゅうわけやッ!!」
圓の横振りが、二人を守っていた。
大きな衝撃音と亀裂、砂埃が舞う。
「急げ! 気ぃつけろ」
「……はっ!」
圓の背を見ながら、縁琉とヤマトの返事が重なる。
「ご武運を」
その言葉は、半ば願いだった。
縁琉のか細いその声に、圓は敢えて返事をしなかった。
「……ってぇなァ」
砂埃から、肩を回しながら肆が現れる。
「バケモンがッ………………!」
目が合った圓は、毒ついた台詞を吐き捨てながら距離を詰め、武器を振りかぶった。
横腹へのフルスイング、壁への激突。
脳天を捉えると確信した。
「……ッん?!?」
振り下ろされる瞬間、肆は左手でトップスピードに成り切る前のハンマーに手を上から添え、斜め下に叩きつけた。
想定外の加速と軌道。
多角ハンマーは床に大きく凹みを作る。
「こっちの台詞だ」
床に突き刺さった瞬間に生まれた後隙。
低く、短く呟いた肆は圓の鳩尾に左掌を真っ直ぐに添えていた。
「……ぅッおゴッッッ……。」
添えられた掌は圓の鳩尾に突き刺さった。掌が腹部に深く食い込むほどの衝撃を与える。
吐瀉物と血を吐きながら、圓は床に傾いた。
ゴッ……——
「?!…………っ」
肆は突き刺した手をそのまま上へ、倒れ行く圓の後頭部に肘打ちを直下目掛けて叩き下ろした。
鈍い音が鳴り、圓は完全に倒れ伏す。
「クッッソ……、んのやろ……っ——?!」
首を曲げ、頭上の肆を視界に捉えようと目線を上げた。
「オレ、の……——」
辛うじてその目に映った肆は、圓の多角ハンマーを振り下ろしている最中だった。
ゴッ……ン——
圓の頭に真上から直撃、タイルには罅が入った。
「ッ……、圓さんッッ!!!」
ヤマトの絶叫が、広間に反響する。
虚しくも、赤い液体がヒビを伝いながら床に広がっていた。
——先輩……っ。
縁琉が振り向いた瞬間、圓のハンマーが真っ直ぐに飛んで来た。
「うっ……っ」
咄嗟に主武装を取り出したヤマトが、それを防ぐ。
圓の多角ハンマーよりも更に長く、大きく、鈍重な長物。
長い柄に、鉄板のような分厚い鋼鉄の長方形が接合された武器だった。
「縁琉ッ、俺が引き継ぐ! 先に逃げろ!!」
青ざめたままの顔で、その長物を構えた。
ブオンという風圧が、縁琉の前髪を揺らす。
「俺に構うんじゃねぇぞ……ッ」
「…………ッ」
その背中を見た瞬間、縁琉の足が止まりかけた。
逃げろ。
圓も、ヤマトも、同じことを言っている。
今は命令通りに動くべきだ。
二人が残ったのは、縁琉を逃がすためだ。
ここで自分まで加わったところで、何が変わるというのか。
分かっている。
そんなことは、嫌というほど分かっている。
「…………。」
視界の端に、倒れ伏した迦楼羅の姿がちらついた。
あの人が負けた。
最強。
自分が目指すべき場所に立ち、どれほど絶望的な状況でも道を切り開いてくれる人。
その人が、倒れた。
たった一人の男に。
——そんなことが、あっていいはずがない。
思考の奥底で、何かが必死に否定していた。
目の前の光景を認めてしまえば、これまで信じてきたものまで崩れてしまう気がした。
強くなれば、守れる。
もっと強くなれば、救える人が増える。
だから、自分は強くならなければならない。
そう思ってきた。
けれど、迦楼羅は負けた。
ならば、強さとは何なのだ。
何をもって、誰かを守れると言えるのだろう。
「……縁琉!」
ヤマトの声に、意識が引き戻される。
「行けって言ってんだろ!」
彼は振り返らなかった。
ただ、肆だけを見据えていた。
その手に握られた武器が、微かに震えている。
武者震いなどではない。
恐怖だ。
それでもヤマトは、逃げなかった。
怖くないはずがない。
目の前にいるのは、迦楼羅を倒した相手なのだ。
圓を、あの圓を、瞬く間に叩き伏せた男なのだ。
それでも。
彼は武器を構え、そこに立っている。
「…………っ」
唇を噛んだ。
命令に従え。
圓の判断は正しい。
ヤマトの判断も正しい。
ここに残れば、二人の覚悟を無駄にする。
分かっているのに、足が動かなかった。
ヤマトが一歩、前へ出る。
肆が、わずかに首を傾けた。
その表情に、焦りはない。
警戒していないわけでも、相手を侮っているわけでもない。
ただ、そこにいる男が何をしてくるのかを、静かに見定めている。
その目が、嫌だった。
まるで、こちらの覚悟も、恐怖も、命令も。
すべて、戦闘における一つの条件でしかないとでも言うように。
ヤマトが踏み込んだ。
長柄の武器が、唸りを上げる。
一撃は、決して遅くない。
巨体を支える脚も、武器を振り抜く腕も、普段の訓練で見てきたものとは違う。
恐怖で硬直しているわけではない。
彼は、自分にできることを理解したうえで、目の前の敵に挑んでいる。
肆が動く。
その瞬間、振り向いた縁琉は目を見開いた。
「…………っゴ」
重量のある長物、その柄が邪魔になるほどの間合いに踏み込んだ肆。
その足が、真上に蹴り上げられていた。
「…………グゥっ」
顎を正確に打ち上げている。
それでも。
ヤマトは、立っていた。止まらなかった。
上体が仰け反る。だが、両手は長物を握ったまま。
崩れかけた体勢から、腕だけで強引に武器を横へ薙いだ。
鈍重な鉄塊が、肆の胴を打つ。
ゴォンッ——
重苦しい音が広間に響いた。
しかし、肆の体は吹き飛ばなかった。
腕を差し入れ、衝撃を殺している。
そして、武器が己の体に食い込んだ、その瞬間。
肆の手が、鉄板状の武器頭を掴んだ。
ヤマトが引き戻すより早く、肆はそれを支点に体を横へ倒す。
長物を握るヤマトの腕が引かれ、武器がわずかに下げられた。
肆の体が浮く。
次いで、脚が一線を引いた。
横倒しになった体勢から放たれた蹴りが、ヤマトの頭部を捉える。
衝撃に、ヤマトの体が揺らいだ。
その一瞬を、肆は逃さなかった——。
胸の奥で、何かが動いた。
このままなら。
——いや、違う。
迦楼羅を倒し、圓を倒した男だ。
ヤマトがどれだけ善戦しようと、いつまでも持ちこたえられるはずがない。
分かっている。
目の前の扉が、やけに遠く感じられた。
走る、ただ逃げた。
蹴りを放った瞬間、肆が身を沈める。
黒い影が、長い柄の内側へと滑り込んだ。
「ヤマトさん……!!」
叫んだときには、もう遅かった。
ククリナイフが、ヤマトの胴体を刺した。
二閃、三閃。目に映ったのは、たった二、三度の刃の動き。しかし、ヤマトの身体には無数の傷が刻まれ、鮮血が溢れていた。
鈍い音が響く。
ヤマトの身体が、ぐらりと傾いた。
ゴンッ——
体を浮かせ、空中で半身を捻った肆は、その脳天を蹴り落とす。
それでも彼は、最後まで武器を手放さなかった。
倒れる、その瞬間まで。
肆の進路を塞ごうとするように、身体を向けていた。
やがて、巨体が床に崩れ落ちた。
静寂。
ほんの数秒前まで、そこには確かに人が立っていた。
自分を逃がすために。
自分の代わりに。
その人が、今は動かない。
「………………あ」
声にならなかった。
圓が倒れた。
ヤマトも倒れた。
迦楼羅は、最初から立ち上がれない。
残されたのは、自分一人。
——逃げろ。
そう言われた。
何度も、言われた。
縁琉の足は、もう動かなかった。
肆が、倒れたヤマトを一瞥する。
そして、
「次はお前だろ。早く来いよ」
軽い口調。
そのどす黒い瞳は、温度も殺気も無く縁琉を見据えている。
「……ッッ————」
鼓動が、跳ねた。
警棒を伸ばし、全力で握る。
「……っア゙ァッ!!」
怒りと焦燥、そして絶望に身を任せて警棒を振りかざした。
斜め下への振り下ろし、刺突、伸縮を使った穿ち、振り上げ。
全て、紙一重で回避された。
最小の動きと逸らし。
右手に持たれたククリすら使われていない。
戦力外。
そんなことは分かっている。
だが、今逃げた所で背中を刺されるだけだ。
——間合いを、間合いを警戒しろっ……。
警棒を振るいながら、思考を巡らせる。
絶望と共に、彼の戦闘を観察していたはずだ。
——後隙を狩られると終わるッ……。一定の距離を保ちながら……。
「……?!」
ガィンっ——
横振り。
決して軽くは無いその警棒の振りを、肆は手の甲で弾き返した。
その隙に刃が差し込まれる。
——……間合いがっ。
右のククリが、振り下ろされた。
——"アレ"をッッ……。
ナイフが眼前に迫る。
縁琉は歯を食いしばり、賭けに出た。
斜め上からの振り下ろし。
体を落とし、頭上を刃が通過した瞬間、
「ッ……。」
下から振り上げた足、それで肆の腕を、軌道にそって蹴り落とした。
回転は止めない。
蹴りの勢いをそのままに、裏拳を放つような軌道で右手の警棒を振り抜いた。
ゴィィン————
彼女の警棒は、肆の側頭部を打ち抜いたのだった。
先程、嫌という程目に焼き付けられた、迦楼羅がやられたあの瞬間。
——……お前の、だッッ。
肆の動きを、模倣したのである。
目に焼き付けたものを、身体が覚えていた。
——コイツ……、俺の……。
肆の頭が横へ流れる。
こめかみの辺りから、血が一筋、頬へと伝った。
だが、倒れない。
冷静に、振り下ろした右手から、ナイフを飛ばし、左手に持ち替える。
「…………ぁあ゙ッッ……。」
鈍い衝撃。
遅れて、熱が走る。
刃が肉を裂き、腹の奥へ沈んでいく。
縁琉の身体が硬直した。
肆は、彼女が警棒を振り抜いた直後の隙を見逃していなかった。
だが、その瞬間だった。
「……!——。」
肆の左脇腹から、白銀の刃が突き出した。
衣服が裂ける音。
刃先が、身体の向こう側に現れる。
肆の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
背後。
血に濡れた口元。乱れた白髪。膝を折りかけながら、それでも刀を握り続ける者がいた。
「……なんで動けんだよ」
肆の口角が、僅かに上がった。額に冷や汗が一筋浮かんでいる。
姫払迦楼羅。
倒れたはずの、剣客。
彼女は肆の左側、死角に近い位置から、残された力を振り絞って刀を突き込んでいた。
呼吸は浅い。唇から滴る血が顎を伝う。
それでも、その目だけは肆を捉えていた。
肆は振り返らない。
脇腹から伸びた刀身を一瞥することもなく、縁琉の腹に突き立てた左手へ力を込めた。
縁琉は、その腕を掴んでいた。
離せば、次の一撃が来る。
分かっていた。
腹部から血が流れ、視界の端が暗くなる。
それでも彼女は歯を食いしばり、肆の腕を押さえ続けた。
「…………ッッ!」
右手の警棒を、握り直す。
肆がわずかに顔を傾けた。
次の瞬間、警棒が再び振り抜かれた。
ゴィィンッ——
二度目の打撃が、肆の側頭部を打ち据える。
頭が揺れる。
血が散った。
しかし——。
——………………なっ……?!
「……やるじゃねぇか」
縁琉の喉が、ひゅっと鳴る。
まるで、少しばかり腕の立つ相手を見つけたとでもいうような声だった。
先程の、引き攣った狩人のような笑み。
口元の傷跡が、引き攣った笑みを不気味に飾っている。
頭部への二度の打撃。脇腹を貫く刀。腹部に突き刺さった刃。
肆は確かに傷ついている。
それでも、まだ動ける。
縁琉の視界の中で、肆の右肩が沈んだ。
大きく腕を振りかぶったわけではない。
踏み込んだわけでもない。
ただ、密着した距離で、腰と肩がわずかに連動した。
次の瞬間、短い軌道を描いた拳が、縁琉の顎を横から撃ち抜いた。
バキィッ————
ショートフック。
拳が顎を捉えた瞬間、衝撃が頭蓋を揺さぶる。
縁琉の歯が噛み合い、視界が白く弾けた。
身体から力が抜ける。
膝が折れ、警棒が手から滑り落ちた。
肆は縁琉を追わなかった。
彼女が崩れ落ちるより早く、身体を捻る。
脇腹に突き刺さった刀身が肉を押し広げ、傷口から血が溢れた。呼吸が一瞬、喉の奥で詰まる。
それでも、動作は止まらない。
右肩が引かれ、肘が身体の後方へ走る。
迦楼羅が刀を握る手に、力を込めた。
「……ッ!」
もう一度、斬る。
その意思が動作になるよりも早く、肆の右肘が彼女の顔面を捉えた。
鈍い音。
迦楼羅の頭が跳ね上がる。
刀を握る手が緩んだ。
肆は身体を支えきれず、わずかに前へよろめいた。脇腹を貫く刀が揺れ、血が衣服を濡らしていく。
それでも彼は倒れなかった。
迦楼羅の膝が床につく。
彼女はなおも刀を握ろうとしたが、指先に力が入らない。
「………………————。」
血に濡れた唇が、何かを言おうとわずかに動く。
声にはならなかった。
やがて、彼女の身体が傾いた。
床に倒れ込む音は、ひどく小さかった。
肆は数秒、動かなかった。
脇腹から刀が突き出たまま、荒くなった呼吸を整える。
側頭部から流れた血が頬を伝い、顎先から落ちた。
それから、彼は縁琉へ視線を戻した。
縁琉は腹部を押さえることもできず、警棒を拾うこともできない。
呼吸をするたびに傷が痛み、意識が遠のいていく。
「フゥっ、クソっ…………。」
立てなかった。
グルグルと歪む視界に、流れ出る血。
その身体は、ぐったりと沈んでしまった。
「……ハァ……Aight……。」
口元の血を拭い、肆は大きくため息をついた。
笑顔は既に消え失せている。
立ち上がれる者は、もういなかった。
最強も、先輩も、仲間も。
そして縁琉は、自分が何も守れなかったことだけを理解していた。
超人アクション……?




